己が道へと 1/2

 男の首に腕を回し、締め上げている。


 砂埃の上に組み伏せた相手は、もう抵抗をやめていた。筋肉質の背中が小刻みに震えている。窒息の一歩手前。


「——参った」


 掠れた声が聞こえた。腕を解く。


 男は咳き込みながら砂の上を這い、距離を取った。こちらを睨む目には恐怖と屈辱が混じっている。殺されると思ったのだろう。殺さないが。


 まばらな拍手が降ってきた。


「よくやった」


「次は誰とやるんだ」


「賭けは俺の勝ちだ、払え」


「殺せ!」


 最後の声には応じない。立ち上がり、砂を払う。


 熱狂というほどではなかった。そこそこの試合への、そこそこの反応。それでいい。


 足元に転がっている剣を見下ろす。会場に打ち捨てられていたガラクタだ。刃こぼれだらけで、まともに斬れるかも怪しい。ナイフも同様。どちらも拾い物。


 こんな得物で戦うなら、剣の平で殴った方が早い。膝を蹴ってバランスを崩し、組み付いて締め上げる。大会が始まって数日、ずっとそうやって勝ってきた。


 自分の刀は使わなかった。傷をつけたくない。それに、この大会は魔法禁止だ。エンチャントされた得物を使えばルール違反になる。


 主催者が近づいてきて、革袋を差し出した。


「賞金だ」


 受け取る。中身は確認しない。


「次の試合は」


「探してる」


 主催者は頷いて去っていった。


 会場の隅へ向かう。日陰を探して腰を下ろした。


◇◇◇


 砂埃と血の匂いが漂っている。


 剣闘大会。西部無法地帯では珍しくもない見世物だ。


 闘技場の中央では、また別の闘士たちが剣を交えている。


 片方は筋骨隆々のドワーフ。斧を振り回し、一撃ごとに砂煙が舞う。


 もう片方は細身の人間。体格差を補って余りある速さで、ドワーフの攻撃を紙一重でかわし続けていた。


 観客席から歓声と野次が飛ぶ。


「やれ、殺せ!」


「そこだ、胴を狙え!」


「俺の五十銀貨がかかってんだぞ!」


 人間の剣がドワーフの脇腹を掠めた。血飛沫。観客が沸く。賭けに勝った者が立ち上がって拳を突き上げ、負けた者が頭を抱えている。


 ドワーフがよろめいた。斧を杖のように突いて体を支えている。


「——参った」


 低い声が響いた。人間の剣士が剣を引く。勝者と敗者。観客の歓声が一段と大きくなった。


 ドワーフは斧を担ぎ直し、何も言わずに退場していった。その背中を見送る者はいない。次の試合の準備が始まっている。


 賭けの胴元が客の間を縫って金を集めている。怒号と笑い声が入り混じる中を、慣れた足取りで歩き回る。


 酒を売る者が樽を担いで叫び、肉を焼く煙が風に乗って流れてくる。


 敗者が担架で運ばれていく横で、勝者が賞金の袋を掲げている。祭りのような喧騒だった。


 昨日も一昨日も戦った。どれも似たような連中だった。傭兵崩れ、山賊上がり、借金を抱えた農夫。強い者もいれば弱い者もいた。生きるために戦う者、金のために戦う者、他に居場所がないから戦う者。


 俺はどれだろう。どれでもない気がする。


 人間の労働者たちが合間を縫って働いている。砂を均し、血を拭き、水を撒く。次の試合に備えて、休む間もなく動き続けていた。


 その中に、小柄な獣人の少女がいた。耳と尻尾の形からすると、狐に近い。闘士たちの汚れた衣服を集め、洗い場へ運んでいる。


 痩せていた。腕も足も細い。重そうな籠を抱えて、よろめきながら歩いている。


 闘士の一人が少女の前を横切った。少女は足を止め、目を伏せ、相手が通り過ぎるのを待った。闘士は少女を見もしなかった。


 籠を抱え直して、また歩き出す。誰にも見られていない。誰も気にしていない。


 闘技場を囲む客席には、あらゆる種族が詰めかけていた。人間、ドワーフ、エルフ、獣人。身分も職業もばらばらだろう。だが今この瞬間、全員が同じものを見て、同じように騒いでいる。


 肉を焼いている屋台に近づいた。串に刺さった何かの肉。焦げた脂の匂いが食欲を誘う。何の肉かは聞かない方がいい。銅貨を数枚渡して、一本受け取った。


 齧りつく。脂が滴る。熱い。塩気が強すぎるが、悪くない。酒が欲しくなった。


 会場の喧騒を眺めながら、肉を食う。


 酔っ払いが隣の客と肩を組んで歌い始めた。子供が走り回り、親に怒鳴られている。


 負けた闘士が仲間に肩を貸されて退場していく。その横を、次の試合に出る闘士が胸を張って歩いていく。


 血と砂埃が舞い、金が飛び交う。不健全といえばそれまでだ。


 だが、生きている。この場所は、生きている。


 口には出さない。出す相手もいない。ただ、こういう場所は嫌いではなかった。


 さて、次の相手を探さなければ。金が必要だ。


◇◇◇


 会場がざわついた。


 視線の先を追う。闘技場の入口に、一人の男が立っていた。


 場違いだった。


 青と金の刺繍が施された上着。襟元には白いレース。帽子には羽飾り。血と砂埃にまみれたこの会場で、一人だけ宮廷から迷い込んできたかのようだった。


 腰には細身の剣。刺突に特化した形状。貴族の決闘用だろうか。


 この世界では珍しい。大剣や戦斧が幅を利かせる中で、ああいう得物を選ぶ者は少ない。俺の刀と同じだ。


 男が歩き出すと、観客が道を開けた。誰も彼に触れようとしない。汚れた者たちの中を、一筋の清流が通り抜けていくようだった。


 衣服も剣も、立ち振る舞いも、この世界に馴染んでいない気がした。


 周囲の囁きが聞こえてくる。


「あれが噂の——」


「この大会で一番強いって話だ」


「誰も勝てないらしい」


 男は闘技場の中央まで進み、立ち止まった。観客を見回し、微笑む。


 女たちの黄色い声が上がった。


「素敵——」


「今日も勝つわ、絶対」


 男が軽く手を振る。また歓声。


 騎士か。それとも騎士崩れか。どちらにせよ、この場所には似つかわしくない。


 だが強いのは本当らしい。構えを見ればわかる。重心の置き方、視線の配り方。隙がない。


 面倒な相手が来た。


◇◇◇


 主催者が闘技場の中央に進み出た。


「次の試合——挑戦者、名乗り出ろ!」


 一人の男が手を挙げた。傭兵崩れといった風体。両手剣を担いでいる。体格は騎士より一回り大きい。


 主催者が声を張り上げた。いつもの口上だ。


「ルールを告げる。魔法の使用、禁止。単純な剣術の勝負だ。他者からの関与、禁止。一対一。決着は『参った』か——死ぬまで」


 聞き慣れた文句に、観客は賭けの最終確認に忙しい。胴元が客の間を走り回っている。


 騎士と傭兵が向かい合う。


 騎士が剣を抜いた。優雅な動作で構えを取る。左手を背中に回し、右手だけで剣を持つ。重心は後ろ足。つま先立ち。


 洗練されていた。見たことのない型だが、練度の高さはわかる。


 騎士が口を開いた。


「プール・ラ・グロワール」


 意味はわからない。何かの決め台詞だろう。


 傭兵が吼えて突進した。両手剣を振りかぶり、渾身の一撃を叩き込む。


 騎士は動かない。


 剣が振り下ろされる寸前、騎士の体が流れた。最小限の動きで斬撃を避け、すれ違いざまに突きを放つ。


 傭兵の腕から血が噴いた。


「がっ——」


 傭兵がよろめく。騎士はもう次の構えに戻っていた。表情一つ変えていない。


 傭兵が再び斬りかかる。今度は横薙ぎ。騎士は後ろに下がって避け、傭兵の踏み込みが止まった瞬間を狙って踏み込んだ。


 突き。肩。


 突き。太腿。


 突き。脇腹。


 三度の刺突が、一瞬で傭兵の体を貫いた。どれも致命傷ではない。だが戦闘続行は不可能だ。


 傭兵が膝をついた。両手剣が砂の上に落ちる。


「——参った」


 騎士は剣を引いた。血を払い、鞘に収める。


 そして跪く傭兵に向かって、右手を差し出した。


「いい試合だった」


 傭兵が顔を上げる。屈辱と、しかしどこか安堵の混じった表情。差し出された手を取り、立ち上がった。


 観客が沸いた。


「さすがだ」


「あの動き、見えたか?」


「騎士道ってやつだな。敗者にも礼を尽くす」


 騎士が剣を掲げた。


「我が祖国、フランス王国に、この勝利を捧げる」


 フランス。聞いたことがない。


 この世界に、そんな名前の国はない。


 騎士が観客席に向かって一礼した。それから女性たちの方を向いて——何かをした。


 唇に手を当てて、その手を差し出すような仕草。意味がわからない。何らかの挨拶だろうか。あるいは魔法のジェスチャか。


 女たちが黄色い声を上げた。何人かは顔を赤くしている。


 わからない。


 だが騎士が強いのは確かだった。あの突きの速さと正確さ。並の剣士ではない。


◇◇◇


 試合後、騎士は会場の隅で休憩していた。


 女たちが群がっている。騎士は一人一人に笑顔を向け、何か話しかけている。女たちが笑う。甲高い声が響く。


「お強いのね」


「当然さ。君たちのような美しい人の前で、無様な姿は見せられない」


 また黄色い声。


「騎士道って素敵」


「敗者にも礼を尽くすなんて」


 騎士が芝居がかった仕草で胸に手を当てた。


「騎士たる者、弱者を守り、敗者を敬う。それが我が誇りだ」


「素敵……」


「私もお守りいただけるかしら」


「もちろん。美しい淑女を守ることほど、騎士にとって名誉なことはない」


 女たちが頬を染める。


 聞くともなく聞いていた。


 獣人の少女が水差しを持って騎士に近づいた。狐に似た耳。見覚えがある。会場で雑用をしていた子だ。


 傍には商人らしき男がいる。主人と奴隷。そういう関係だろう。奴隷制度は建前上禁止されているが、西部ではまだ残っている。


 少女は騎士の前で立ち止まり、水差しを差し出した。


「お水をどうぞ」


 小さな声だった。目を伏せている。慣れた仕草。何度もこうしてきたのだろう。


 騎士が手を伸ばす。受け取ろうとして——落とした。


 水差しが砂の上に転がる。水が染み込んでいく。


「ああ、すまない」


 騎士が言った。自然な動作だった。わざとらしさはない。


 だが騎士は少女を見なかった。目を向けない。存在しないかのように扱っている。


 女たちの一人が眉をひそめた。少女に向けた目。汚いものを見るような目だった。


「ちゃんと持っていなさいよ」


 少女は何も言わない。俯いたまま、水差しを拾おうとする。


 騎士は近くにいた人間の労働者に声をかけた。


「替えの水を持ってきてくれるかな」


 労働者は頷いて走っていった。少女はまだ砂の上にしゃがみ込んでいる。空になった水差しを両手で抱えている。


 商人が慌てて駆け寄ってきた。


「申し訳ございません、この子が——」


 商人は少女を庇うように抱き寄せた。その手つきが妙に優しい。


 いや、優しいという言葉は正しくない。大切にしている——そういう手つきだった。


 少女は表情を変えない。抵抗もしない。されるがままになっている。


 周囲の目が一瞬、商人に向けられた。すぐに逸らされる。誰も何も言わない。


 騎士は微笑んだ。


「何が?」


 商人は少女を連れて、闘技場の裏手へ消えていった。どこかの部屋へ向かうのだろう。商人の手が少女の腰に回されていた。


 騎士は女たちとの会話を続けている。何もなかったかのように。


 直前の試合で敗者に礼を尽くした男が、亜人には一切の敬意を払わない。


 騎士道。弱者を守る。立派な言葉だ。


 だが「弱者」の範囲は、人間だけらしい。


◇◇◇


 主催者のところへ向かった。


「試合を申し込みたい」


 主催者が振り返る。


「相手は?」


「あの騎士だ」


 主催者の目が細くなった。値踏みするような視線。さっきの試合は見ていただろう。勝ったが、際立った腕ではなかった。少なくとも、そう見えたはずだ。


「どうだろう、受けてくれるかね」


「聞いてみてくれ」


 主催者は肩をすくめて、騎士のもとへ歩いていった。


 その場で待つ。遠くで主催者と騎士が話している。騎士がこちらを一瞥した。


 値踏みされている。自分の剣技を隠していたことが、裏目に出たか。


 だが騎士は頷いた。


 主催者が戻ってくる。


「成立だ。明日の試合だな」


「ああ」


 賞金額を告げられた。今までの試合とは桁が違う。


「勝てると思ってるのか?」


 主催者の問いには答えなかった。


◇◇◇

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