第2話
╔═══━━━─── • ───━━━═══╗
【7】気の強いチワワと、着ていく場所のないワンピース
╚═══━━━─── • ───━━━═══╝
廊下で永瀬先生と、院内学級の打ち合わせをしていた時だった。
「じゃあ、明日の院内学級は――」
「涼!」
甲高い声が、空気を割った。
先生と同時に、そちらを振り返る。
そこには、きれいな女性が立っていた。
ショートカットの黒髪。きっちりメイクされた顔。
ブランド物のバッグ。胸元がすこし開いたブラウス、おしりがきれいに見えるパンツスーツ。
(製薬会社のMRさん……かな)
でも、それより先に目に入ったのは――先生の表情だった。
一瞬で、固まった。
「……あ? 何の用だよ」
声も、いつも以上に冷たい。
空気の温度が、すっと下がった気がした。
クロが私の後ろにそっと体を寄せた。
「何の用だって、ひどいわね」
女の人が、ヒールの音を鳴らしてツカツカと近づいてくる。
「久しぶりじゃない。元気だった?」
「……お前に関係ないだろ」
先生が腕を組む。
はっきりとした拒絶の姿勢だった。
背中がざわりと固くなる。
「えー、冷たいなあ」
女の人は、にこやかに笑った。
でも、その笑顔はどこか貼り付けたみたいだ。
そして、今度は私の方を見た。
「……あら、こちらは?」
「仕事仲間だ」
「ふうん」
視線が、上から下まで私の全身をゆっくりとなぞる。
黒いトレーナー、黒いパンツ、スニーカー。
動きやすさ優先の“いつもの格好”。そして、隣にはクロ。
「犬のお世話係さん?」
「ファシリティドッグのハンドラーです」
「へえ。最近どこも入れてるわよね、そういうプログラム」
女の人は、にこっと笑ってから、私の袖口をちらりと見た。
「病棟に入るときも、その服?」
「いえ。病棟は、専用のスクラブに着替えてから上がってます。
そのまま病室には入らないようにしてて……」
「そう。なら、よかった」
言葉どおり安心したように見えたけど、声の芯は妙に冷たい。
「小児科って、免疫落ちてる子、多いでしょ?」
彼女は、さらりと言葉を続ける。
「動物って可愛いけど、毛とか土とか、いろいろ持ち込む可能性あるから。
“いいことしてるつもり”で、衛生管理ガバガバな人、たまにいるのよね」
(……それは、確かに)
言い方はきついけれど、内容自体は間違っていない。
それでも、指先がひやりと冷たくなった。
「だから、気になっちゃって」
その瞬間、先生が横から低くかぶせた。
「……一応言っとくけど」
腕を組んだまま、眉を寄せる。
「この病院の感染対策部と一緒に調整して、このプログラム入れてるからな。
ガイドラインもあるし、こいつは、それをちゃんと守ってる」
「そうなの? じゃあ、なおさら徹底しないとね」
女の人は軽く肩をすくめる。
「こういうのって“いい話”が先行しがちだから。
『癒やしの時間でした〜』の裏で、誰かが菌もらってたら、しゃれにならないでしょう?」
(ぐ……)
グサッと来るけど、完全には否定できないところを突かれた。
「ボランティアの人なんて、マニュアル読んでないことも多いし」
「ボランティアじゃねぇよ。ちゃんと雇用だ」
先生が、ぼそっと訂正する。
「少なくともこいつは、俺よりよっぽどマニュアル読んでる」
え、と顔を上げると、先生はわざとらしくそっぽを向いた。
「だから、変な言い方すんな」
「……へえ?」
女の人が、ほんの一瞬だけ目を細めた。
その視線が、私と先生のあいだを往復する。
「大事にされてるのね、犬使いさん」
「い、いえ、そんな……」
耳の内側が熱くなって、それを隠そうとして、余計に挙動不審になる。
「まあ、仕事によって違うもの。
私たちは“見た目”から信用される仕事だし」
女の人は、自分のスーツの袖をなぞった。
細い手首には、高そうな時計。爪先はジェルネイルできれいに整えられている。
「見てくれを気にしなくていいのって、ちょっと羨ましくもあるわ。
あなた、動きやすそうで、楽そうだもの」
にこにこと笑いながら、さらっとマウントを乗せてくる。
「涼も、やっぱり綺麗にしてる方が好きでしょ?」
女の人が、わざとらしく体を傾けて先生に笑いかける。
でも先生は無表情のままだった。
「……俺の好みは、お前に関係ねーだろ」
「冷たいなあ、ほんとに。昔から、こういうの好きだったじゃない」
“昔”という言葉が刺さる。
やっぱり、この人は――。
女の人が、また私の方を見る。
「ねえ、あなた。永瀬先生とは親しいの?」
「あの……仕事上では……お世話になってるというか」
「そう。ならいいんだけど」
“ならいいんだけど”。
その声の裏の意味が勝手に想像できてしまう。
「彼って優しいから、勘違いしちゃう子、多いのよね」
「……」
「あ、別にあなたのことじゃないわよ? 一般論」
(一般論……?)
でも、どう考えても私に向けてる言い方だ。
「まあ、頑張ってね。犬のお世話……それから、衛生管理も」
最後に、ぷすっと小さな針を刺すみたいな一言を添えてくる。
笑顔の形だけは完璧にきれいなのが、逆にこわい。
でも、ふと、頭に浮かんだ。
(この人……)
何だか、犬みたいだ。
キャンキャンと、よく通る声で鳴く、小型犬。
身体がちっちゃいのに、自分のテリトリーを主張するみたいに。
クロの散歩中によく会う、やたらとうるさい子を思い出す。
(……チワワ)
気づいたら、口が勝手に動いていた。
「なんか、気の強いチワワみたいで、可愛いですね」
「……は?」
女の人が、固まった。
(あ……やばい、失言。)
一気に、血が逆流するみたいに顔が熱くなる。
「ちょっと、い、今……何て言ったの?」
声のトーンが一段高くなった。
頭の中で、さっきのチワワがまたキャンキャン吠える。
「え、その……」
慌てて、頭の中がフル回転する。
「チワワって、勇敢で賢いんですよ。
小さいのに、ちゃんと自分より大きい相手に向かっていくし。
家族のこと守ろうとして吠えるの、すごい、ですよね?」
自分でも何を言ってるのか、だんだんわからなくなってくる。
「だから、その……褒めてます」
「……褒めてる“つもり”?」
「はい。チワワ、可愛いじゃないですか。
ただ、臆病で警戒心が強いから、大人になってからはしつけが難しいって聞きますけど」
――余計な一言だった。
私の失言で場がピシッと凍った瞬間、
クロが 「くしゅんっ」 と小さなくしゃみをした。
そのタイミングで永瀬先生の喉が「ぐっ」と震える。
「ぶっ……」
隣から、変な音がした。
「先生……?」
「……っ、は……ははっ!」
永瀬先生が、笑い出した。
最初はこらえようとしていたのに、無理だったみたいで。
「くっ……チワワ、ははっ……!」
肩を震わせて、腹を抱えて笑っている。
こんな大声で笑う先生、初めて見た。
「あー……確かに、そう見えたわ」
顔が少し赤くなっていて、涙目になっている。
笑いすぎて、呼吸が乱れている。
「ちょっと! 涼!!」
女の人が、真っ赤になって先生を睨んだ。
「何がおかしいのよ!!」
「いや……悪い。……似合いすぎてて」
先生がまだ笑いながら言う。
「心外だわ! ほんとあり得ない!!」
カツカツとヒールの音を響かせて、女の人は踵を返した。
百貨店のコスメ売り場みたいな匂いだけが、少しあとに残る。
クロはそっと後ろ足でカッ、カッと地面を二回だけ蹴った。
あまりに控えめだから、たぶん誰も気づいてないけど、
でも、私は、思わず口元がゆるんだ。
そして――
「……お前、最高だな」
先生が、まだ笑いを引きずりながら言った。
「あいつをチワワ扱いしたの、お前が初めてだ」
「す、すみません……! 悪気はなかったんです……たぶん……」
「わかってる」
先生が、ぽん、と私の頭に手を置いた。
いつもより、優しい力加減で。
「でも、スッキリした。ありがとな」
「……そうですか?」
さっきまで冷えていた胃のあたりに、じわじわとあたたかいものが広がっていく。
先生はふっと視線をそらし、真面目な顔になった。
「あいつとは、昔付き合ってた」
「……あ、やっぱり、そうですよね。」
「でも、二股かけられててよー」
「え……」
「同じ病院の整形外科医。
実家が太いからとか何とか言って、結局、そっちを選んだ」
苦笑だけど、痛みがにじむ笑いだった。
何て返したらいいのか、わからなかったけど、
「あの人、見る目ないですね」と、一言つぶやくと、
先生が少しだけ照れたように、目をそらした。
***
その後、ナースステーションで作業をしていると、
"病棟の番記者"として有名なベテラン看護師さんが話しかけてきた。
「ねえ、さっきの女、見た?」
「はい……」
「あれ、永瀬先生の元カノなの聞いた? 最っ悪よね」
看護師さんが、腕を組んで大きくため息をつく。
「先生ね、もともと優しいし、誰にでもフレンドリーだったの。
昔はそこそこモテたのよ、昔は」
「……そうなんですか」
(今はモテないみたいな言い方だな……)
「でもね、いちいち女を見る目がないっていうか。
他にもいっぱいいるのに、“あえてそこ行く?”みたいなのを選ぶわけ」
私は、さっきの女性の姿を思い出した。
ピンヒールのカツカツ。香水。作り込まれた笑顔。凶暴なチワワ。
……思わず頷いた。
「二股もそうだけど、その前にもさ。看護学生の子と付き合ってて、お金取られちゃったの」
「えっ」
「ほんとに。カードも生活費も、ズルズルね」
看護師さんが、あきれたように肩をすくめる。
「最初から怪しい感じだったのよ。
先生、惚れっぽいしさ。優しさにすぐつけ込まれんのよ、ああいうタイプに。
アタシたちが把握してないだけで、他にもあったんでしょうね」
(先生……)
「それからなのよ。女の子全般と、距離置きだしたの。
みんながみんなカード抜いたり二股したりするわけじゃないのにさ。
前は女の子大好きって感じだったんだけどね。もう今はほんと壁、つくるじゃない?」
「……はい。ほんとに」
「あ、私みたいなオバチャンは別ね!」
看護師さんが、あっははと笑って私の肩をぽんぽん叩く。
「だから篠山ちゃんが、冷たいとか、そっけないって感じても、気にしなくていいのよ。
そういう人なだけ。特に可愛い子に警戒してんのよ。
惚れっぽいからね、あっはっは」
(先生には悪いけど……さすが“病棟の番記者”。情報量がえぐい)
そこで一度、看護師さんの笑いが止まった。
こっちを見る目が、さっきまでとは少し違う。
「でも、先生、篠山ちゃんのこと信頼してるみたいよ」
「……信頼」
“信頼”という言葉が、また胸に刺さった。
先生にとって私は、仕事仲間としての“信頼”。
でも、私の気持ちは、もうそれだけじゃない。
(先生の“信頼”の中に、ほんのちょっぴりでも“好意”が混ざっていてほしい。
……欲張りかな)
誰にも言えない本音が、喉の奥で引っかかる。
***
その夜。宿舎に戻った私。
ハンガーフックに、まだタグのついた、淡い色のワンピースが掛かっている。
先週の休みに、かなり悩んでから買った一着。
店員さんに「ここぞって日に着てほしいなって思いました」って微笑まれて、
その言葉が頭に残ったままレジに進んでしまった。
(うう、こんなに薄給なのに……)
給料日のあと、思い切って奮発した。
でも、着ていく場所がどこにもない。
仕事の時は、動きやすい服だし、クロの毛が目立たないように、基本は黒だし、トレーナーとジーンズばかり。
ワンピースの布地に指先をすべらせる。
(“着られたらいいな”じゃなくて……
“誰かに見てほしくて”買ったんだな、これ)
気づいた瞬間、胸がきゅっとなった。
「クロは、どう思う?」
「ふすっ……」
「そっか」
返事になってない返事を聞きながら、私はクロの顎を撫でる。
でも、その丸い目が“大丈夫だよ”と言ってるような気がした。
***
翌朝。
いつもの公園。病院のすぐそばの、いつものベンチ。
オレンジ色に照らされた芝生が少しまぶしい。
朝の空気はひんやりしていて、白い息が少し見えた。
私がベンチに座って、スーパーで買った6枚切りの食パンをもぐもぐやっていると──
横から、呆れた声が飛んできた。
「お前、いつもそんなもん食ってんの?」
振り向くと、先生が紙袋を片手に立っていた。
片方の手には、コーヒースタンドのカップ。
「先生、ハンドラーのお給料って薄給なんですよ」
私は、食パンをかじりながら肩をすくめた。
「しかもトライアル事業だから、色々と持ち出しも多くて……月額で言うと、こんな感じ」
指を広げて、一桁の数字をつくって見せる。
「はあ? 俺、指導医として責任感じるわ……」
そう言いながら隣に座り、コーヒーをもう一つ差し出してくれた。
「ほら」
「ありがとうございます」
「……ついでだからな、今日も」
先生が耳をぽりぽり掻く。
朝の風がふわっと吹いて、木の葉が揺れた。
どこかから鳥の声が聞こえる。渡り鳥だろうか。
足元で、安心しきったようにクロがあくびをして、丸くなった。
「くぁ~~……ふすん」
食パンの耳をちぎりながら、なんでもないことみたいにぽろっとこぼす。
「こんなに薄給なのに、かわいいワンピース買っちゃって。
しかも、笑えることに着ていく場所がどこにもないんです」
「ワンピース?」
先生が、こちらを見る。
「私、クロの毛がつくから、いっつも黒い服で。
着る場所ないんですよ。なのに……」
「……なるほどな」
先生が、サンドイッチをかじりながら、少し黙った。
コーヒーのフタを指でいじりながら、何か考えている顔。
そして──
「それ着てく機会、つくってもいいか?」
「……え?」
思考が、一瞬で止まった。
先生が、それまで横を向いていた顔を、こちらに向ける。
朝の光が、やわらかく照らしていた。
「機会だよ、機会」
視線をそらしながら、言葉を続ける。
「知り合いがさ、ちょっといい飯屋を開いてな」
「お知り合いが……」
「ああ。前から『一度来てくださいよ』ってずっと言われてんだけどよ。
行くタイミングなくて、ずるずる来ちまっててさ」
コーヒーを一口飲んでから、続けた。
「でも……さすがに一人でコース料理食うのも気が引けてな」
心臓が、ドンドンとうるさくなる。
「……一緒についてきてくれねーか?」
時間が止まった。
え——今、何て言った?
風の音も、鳥の声も、クロの寝息も、ぜんぶ遠くなった。
鼓動だけが耳の中で響いている。
「……いいんですか?」
声が震えていないか、自分でもわからない。
「ダメか?」
「行きます行きます!」
気づいたら、食い気味に返事していた。
自分でも、ちょっと引くくらいの速さだった。
(先生と……二人きりでごはん……?)
その言葉を思い浮かべただけで、胸の奥がくすぐったくなる。
「ドレスコードとかありますか?」
「いや、ホテルの中とかじゃねえし、そこまでは」
「じゃあ、ちょっとだけ、おしゃれして行きます」
私が嬉しそうに言うと、先生がほんのちょっと目をそらした。
「……別に、深い意味はないからな」
いつもの、照れ隠しみたいな言い方。
「はーい。」
そう返しながら、私は心の中で小さく反論した。
(……意味があるのは、私の方だけでもいいんです!)
胸の奥がふわふわする。
さっきまで普通だった景色の輪郭が、やけにくっきりして綺麗に見えた。
どうしよう、嬉しすぎて……笑ってるのを隠せてない気がする。
╔═══━━━─── • ───━━━═══╗
【8】金網越しの花火
╚═══━━━─── • ───━━━═══╝
その日はぜんぜん心臓が落ち着かなかった。
(今日は…先生とごはん……!)
ワンピースを胸に当てて、鏡を見る。
ちょっとだけ、いつもの自分じゃないみたいだ。
「クロ、変じゃないかな?」
丸まっていたクロが、私を見上げる。
「ほら、これ。覚えてる? "着ていく場所がない"ワンピース」
髪も、いつもより少しだけ丁寧に巻いてみる。
メイクも"気合い入ってる日バージョン"。
「……やりすぎ?」
思わずつぶやくと、クロが小さく「ふすんっ」と返事をした。
「ちょっと緊張しすぎてるよね、わたし……」
リップを塗り直して、深呼吸をひとつ。
(よし、大丈夫……たぶん)
クロにそっと“行ってくるね”と囁いて、ドアを閉めた。
***
待ち合わせは、病院の最寄り駅前の小さな広場だった。
(……え? もういる)
ベンチの端に腰かけて、携帯を見ている先生の姿が見えた。
白衣じゃなく、落ち着いた秋色のジャケットにハイネック。黒いパンツ。
"大人の男の人"って感じがして、鼓動が早くなる。
近づいていくと、先生が顔を上げ、一瞬、時間が止まったみたいな顔をした。
「先生!」
私は、思わず手を振った。
「お待たせしました!」
目が、私の全身を上から下まで、ゆっくりとなぞった。
「……」
沈黙に耐えきれなくて、先に口を開いた。
「あの、その。やっぱり、変ですよね?」
一拍置いてから、
「いや……似合ってる」
「……え?」
「ワンピース。似合ってる。……そういうのも、ちゃんと似合うんだな」
ちゃんと、目を見て言ってくれた。
その瞬間、胸の奥がぱんっと弾けて、心に花が咲いたような気分だった。
「ほ、本当ですか?」
「ああ。……少しも変じゃねぇよ」
「よかった……今日、このために着てきたので」
そこまで言って、自分で顔が熱くなる。
(“このために”って、ほぼ告白じゃん……)
でも先生は、「ふっ」と小さく笑っただけだった。
「よし行くか」
「はい!」
先生の横を歩き出す。
いつもより少しだけ歩幅を小さくしてくれているのがわかる。
ヒールの分、先生の横顔がほんの少しだけ近い。
そんな小さなことが、すごく嬉しかった。
***
石畳の路地裏に、静かに灯りが滲んでいる。
喧騒から少し離れたその場所に、木の扉と小さなランプだけが目印の、控えめであたたかな店がひっそりと佇んでいた。
「いらっしゃいませ――あ、先生!」
カウンターの向こうで、店主さんがぱっと笑顔を向けてくれる。
「よう」
「お待ちしてましたよ。そちらの方は?」
店主さんの視線が、私に向く。
「ああ、病院の仕事仲間」
「そうなんですね。どうぞ、こちらへ」
案内されたのは、窓際の二人席。
壁際の棚にはドライフラワーが飾られ、テーブルのキャンドルがゆらゆらと揺れて、席のあいだに柔らかい影をつくっていた。
(……なんだか、デートの席みたい)
向かいの席に座った先生をそっと見る。
天井からの琥珀色の照明がジャケットの肩から喉元にかけて落ちて、
いつも病棟で横から見ていた、その顔が少し違って見えた。
メニューに視線を落としながら、指先で紙の端をゆっくりなぞる。
グラスの足をつまむ長い指が、そっと持ち上げ、また静かに置く。
その何でもない動きひとつひとつに、目が勝手に引き寄せられる。
(こんなに雰囲気ある人だったっけ)
気づけば、一瞬だけ見入ってしまう。
その視線に気づいたのか、先生がふと顔を上げ、ふっと口元を緩めた。
ほんの少しだけ、目の端が静かにほころぶ。
名前を呼ばれたわけでもないのに、胸の中心がきゅっと絞られてしまう。
「クリスマスパーティー、準備どうなってる?」
不意に話を振られて、現実に引き戻された。
「あ、子どもたちが、折り紙でサンタさん作りたいって言ってました」
「サンタか。」
「ミカちゃんは、ツリーの飾りを作るって」
「あいつ、器用だもんな」
「ユキくんは、ツリーのてっぺんに星を乗せたいらしくて。『先生に肩車してもらう』って言ってました」
「……俺、脚立かよ」
「でも、嬉しそうでしたよ」
先生の顔が、自然に柔らかくなる。
病院で見る"担当医の顔"とも、院内学級で見る"先生の顔"とも、少し違う。
(……永瀬先生の、オフの顔だ)
そこへ、ボトルのワインが運ばれてきて、店主さんが丁寧に注いでくれた。
「じゃ、トライアルが無事終わるように」
先生が、グラスを少し持ち上げる。
「えっ、そんな……」
慌てて、私もグラスを持った。
「ありがとうございます。……乾杯」
グラスがほんの少し軽く触れ合う音が、小さく響く。
一口だけワインを飲むと、ほわっと体が温かくなった。
料理が次々と運ばれてきて、そのたびに私は「美味しい」を連発した。
「先生、これ美味しすぎます!」
「落ち着いて食えよ」
「だって、本当に美味しくて……!」
フォークを持ちながら、つい顔がほころぶ。
「……よく食うな」
「え、すみません。だって、おいしくて」
「いや、いいことだろ」
そう言いながら、先生はワインをぐいっと飲んだ。
ボトルは、ほとんど先生のペースで減っていく。
(やっぱりお酒、強いんだ……)
前菜、スープ、魚料理、肉料理。
どれも本当に美味しくて、しゃべってるか食べてるか笑ってるか、ずっと忙しい。
「そういう服も、結婚式とか呼ばれたら着るよな」
鶉のコンフィを切りながら、先生が何気なく言う。
「結婚式……!」
私は、思わず身を乗り出してしまう。
「私の友達、まだ誰も結婚してなくて。
でも、ウェディングドレスとか、いいなぁって」
「……ふうん」
先生の目尻のあたりがくしゃっとほころぶ。
(あ……先生、こんなふうに笑うんだ)
お酒のせいか、普段より少しだけ表情が柔らかい。
「結婚式、先生は出たことあります?」
「そりゃあるけどな。飯が豪華だなとしか」
「そこなんですか」
思わず笑ってしまう。
「……何歳なんだっけ、お前」
「私ですか?」
年齢を言った瞬間、先生のフォークがぴたりと止まった。
「……まじか。若ぇな」
「え? そんなにですか?」
先生が、少しだけ困ったような顔をした。
「いや、思ってたより」
「先生は?」
「ぜってーに言わねぇ」
「えー! ずるい」
「自分で調べろ」
「そうやって、すぐ逃げる」
軽口を叩いている間に、テーブルにはデザートが運ばれてきた。
その香りに包まれながら、ふと視線を感じて顔を上げる。
グラスを傾けていた先生と、目が合う。
まるで何か確かめるみたいに、じっと見られていた。
「ねえ、先生」
「さっきから……何回も、私のこと見てませんか?」
先生が、一瞬だけ目を逸らした。
「……見て、ねぇ」
声が、ちょっと裏返っている。
「うそ、絶対見てました。何かついてますか?」
先生が困ったような顔をして、それから小さくため息をついた。
「……綺麗だから、つい見ちまうんだよ」
「え……」
「悪い。変なこと言った」
「いえ……」
胸の奥が一気に熱くなる。
言葉にすると壊れそうで、でも黙っていられなくて――
「……うれしいです」
俯いたまま、声だけが震えた。
立場、仕事、年齢。
頭ではいろいろ浮かぶのに──今はただ、ここにいる先生の顔しか見えなかった。
***
デザートまで食べ終わって外に出ると、夜気が頬をかすめた。
「はー……いっぱい食べました」
「よく入ったな。どこに入ってんだ、その細い体のどこに」
「別腹があるんです」
笑いながら息を吐くと、白くほどけて夜空に消えた。
一緒にごはんを食べてみてわかった。
先生は、お酒が入るとよく笑って、よく喋る人だ。
知らない人のお祝いに、楽しそうに拍手して歌ってて。
酔っ払った先生は、いつもより少し無防備で。
その一面を見られたことが、なんだか嬉しかった。
先生がちらっとこちらを見る。
「……その格好、寒いだろ」
「ちょっとだけです」
でも、本当は、胸の中の熱で寒さなんて感じていなかった。
「家、こっちだよな。送ってく」
「え、でも……先生、反対側なのに」
「いいから。夜遅いし」
そう言って、先生はさっさと歩き出した。
その後ろ姿を追いながら、込み上げる嬉しさをごまかすのに必死だった。
そのとき──
低い「ドン」という音が空気を震わせた。
「……今の、何の音ですかね」
耳を澄ませば、もう一度。
「花火じゃねぇかな。何かのイベントかもな」
「花火……!」
私は、思わず空を見上げた。
でも、建物に挟まれた細い空には、何も見えない。
「あ、あそこの上からなら、見えるかも!」
近くの跨道橋を指差した。
「先生、ちょっとだけ寄り道してもいいですか!」
返事を聞く前に、身体が勝手に動き、気づけば、先生の手を掴んでいた。
「っ……!」
先生の手が、一瞬だけ固まった。
大きくて、あたたかい手の指先が、わずかに震えている気がした。
「あ、ごめんなさい!」
慌てて放そうとすると──その手が、逆に私の指をぎゅっと握り返した。
「……いい。走んなよ、ヒールなんだから」
繋いだ手から、先生の体温が伝わってくる。
心臓が、またドクンと跳ねた。
「はい!」
手を繋いだまま、跨道橋の階段を一段ずつ上る。
鼓動が、足音まで速くしている気がした。
金網越しに開けた夜空に、小さな花火がぱっと咲いた。
「わあ……」
思わず声が漏れた。
大きな花火大会みたいに豪華じゃない。
でも、静かな夜空に淡くひらく光は、なんだか不思議な綺麗さだった。
「きれい……」
金網越しの夜空を見上げながら、先生の呼吸がすぐ横で揺れているのがわかった。
そっと顔を向けると――目が合う。
花火の光が反射して、先生の瞳がかすかに揺れている。
その視線が、まっすぐで、息が、ひとつ止まった。
(どうしよう……)
心臓の音が、もう隠せないくらい大きくなる。
気づけば、私は──ゆっくりと、目を閉じていた。
(……勘違いだったら、どうしよう)
でも、もう引き返せない。
花火の音が遠くなって——先生の気配が、近づいてくる。
ドンという音と、自分の心臓の音だけが聞こえる。
次の瞬間。
優しくて、慎重で、でも迷いのない温度で、唇が触れた。
ほんの一瞬、呼吸が止まって、胸の奥に熱がふわっと灯る。
かすかにワインの香りが混ざっていて、それがまた、先生の体温と溶け合うみたいで苦しくなる。
(……先生)
時間の感覚が、ふわっと遠のいていく。
あっという間のようで、永遠みたいでもあった。
唇が離れたあとも、足元が少しだけふわふわしている。
「……悪い、我慢できなかった。」
掠れた声で、先生が言った。
私は、ゆっくりと目を開けた。
先生の顔が近い。表情は真剣で、少しだけ不安そうにも見えた。
「……いえ」
震える声で首を振る。
先生は、ほっとしたように息を吐いた──けれど、すぐに視線を夜空に逃がした。
繋いでいた手も、指先だけそっと力が抜ける。
「……良く、ねぇよな」
低く落とされた声と一緒に、先生は半歩後ろへ下がった。
「立場考えたら……」
言いかけて、先生は口をつぐんだ。
さっきまでの熱とは違う、迷いの色が、その横顔に滲んでいる。
(……嫌だったから、じゃない)
でも、どうしようもなく胸の奥が、きゅっと痛んだ。
"離れないで"
そんな言葉が喉まで出かかったのに、声にはならなかった。
「永瀬、せんせ……」
気づいたら、呼んでいた。震えた声に、自分で驚く。
上目遣いで見上げるけれど、視界がにじむせいで、花火の光が少し滲んで見えた。
「……そんな顔すんなよ」
先生の眉が、かすかに寄った。
その瞬間、私はほんの少しだけ、背伸びをした。
距離を縮めたかった。ただ、それだけ。
「……っ」
先生の喉が小さく鳴った。
「線なんか……引けねぇよ」
掠れた声でそう言うと、腰をつかまれた。
次の瞬間、二回目のキスが落ちてきた。
一度目とは違う。
深くて、熱くて、抱き寄せられた腕の力に、先生の感情が全部こぼれていた。
╔═══━━━─── • ───━━━═══╗
【8】金網越しの花火 永瀬side
╚═══━━━─── • ───━━━═══╝
病院の廊下で、あの忌々しい元カノと鉢合わせしてから、まだ数日しか経っていない。
久々に見たアイツは、相変わらず“正しいつもり”の顔で刺してきた。
言葉だけ聴くと正論なんだろうが、あの人間を値踏みするみたいな目つきは、昔のままだった。
むしろ、年を重ねた分、前よりタチが悪くなって見えた。
昔もそうだった。
そして、最後は勝手に俺を“見切って”、もっと条件のいい相手のところへ行った。
ナースたちにも、何度も言われた。
「先生は女見る目ないよ」「また変なのに引っかかって」
──悪いのは、惚れた俺のほう。騙された俺のほう。
いつの間にか、それが当然みたいになっていて、女なんて信用しなくていい、とどこかで強がる癖がついていた。
だから、篠山の“チワワ発言”は、俺にとってほぼチートだった。
よりにもよってあの曲者を「気の強いチワワ」呼ばわりして、しかもあの空気を丸ごと笑い話に変えてしまうなんて、想定外だ。
俺の黒歴史の一ページを、あいつは何のてらいもなく、さらっと塗り替えてしまいやがった。
「あの人、見る目ないですね」って言葉もそうだ。
本気で胸に刺さった。
“俺が悪い”“俺が見る目なかった”とずっと背負い込んできたものを、一言で殴り返してくれた気がした。
篠山は、俺に寄りかかる気がない。
自分の足で立ってて仕事のことで頭いっぱいで、たまにとんでもねぇ爆弾を落としてくる。
……だからだろうな。
薄給なのにワンピースなんか買って、「着ていく場所がない」なんて笑って言うのを見て、
──じゃあ、作ってやればいいだろ。
そう思ってしまった。
……別に他意はねぇ。
なのに、待ち合わせ場所には約束の十分前に着いていた。
(……何やってんだ、俺)
ニュースサイトを開いても、内容がまるで目の前を素通りしていく。
(ただ飯食いに行くだけだろ。知り合いの店に)
そう言い聞かせても、心臓の音だけは落ち着かない。
視界の端が動いたので顔を上げる。
遠くから、女がこっちに向かって歩いてきた。
淡い色のワンピース。
シンプルなのに、妙に目を引く。
おろした髪がゆるく巻かれていて──
一瞬、息が止まった。
(……誰だ)
次の瞬間、その女が大きく手を振った。
「先生! お待たせしました!」
声を聞いて、ようやく理解する。
(……おい、嘘だろ)
いつもの黒いトレーナーじゃない。スニーカーじゃなくてヒール。
病院で見るこいつとは、まるで別人だ。
(“仕事仲間”としてしか見ねぇようにしてたのに……
当たり前みてぇに、ちゃんと女の子じゃねぇか)
慌てて立ち上がる。
「いや……今来たとこだ」
もちろん嘘だ。
“さっきからソワソワして待ってました”なんて言えるわけがない。
「遅くなってすみません。髪がうまくまとまらなくて……」
ワンピースの裾を指でつまむ仕草が、妙に可愛い。
「変ですよね?」
おそるおそる見上げてくる顔に、胸の奥がぎゅっと掴まれる。
「……似合ってる」
正直、想像してたよりずっと。
口に出した途端、なんかこそばゆくなって、思わず視線をそらした。
「ほんとですか?」
「ああ」
笑った途端、空気まで明るくなって。
そんな顔を俺に向けるな、と胸の奥がざわつく。
***
店までは歩いて十分ほど。
人混みの中を並んで歩くのに慣れてないから、やたらと気を遣った。
いつも病院の廊下を一緒に歩く時とは、妙に空気が違った。
たぶん、こいつがヒールを履いてるせいだ。
(歩幅、合わせねぇと)
意識して、いつもより歩くスピードを落とす。
横顔のまつげが、いつもより少し長く見える。
歩くたびに影が揺れるのが、なんでだか落ち着かない。
「知り合いの方のお店って、どんなところなんですか?」
「んー……気取ってないけど、飯はうまい、と思う。酒もな」
「楽しみです!」
篠山が、ワンピースの裾を揺らしながら笑い、胸の奥が、じわっと熱くなる。
今まで勝手に「病棟の後輩」くらいの扱いで、年の差も盾にして、距離を測ってた。
でも今日、横顔が、なんか“普通に女の子”で。
街でこうして歩いてたら、完全にデートにしか見えない、気がする。
(……いや、待て。違う。これはただの飯だ!
デートじゃねぇ。そう思わないと落ち着かねぇ。)
***
店に着くと、店主が笑顔で迎えてくれた。
「先生! ようやく来てくれましたね!」
「悪い、ずっと『行く』って言ってたのに」
「いえいえ!そちらの方は?」
「仕事仲間」
そう言ったくせに、胸の奥がちょっとざわつくのを誤魔化した。
篠山が軽く会釈した。
「はじめまして。いつも先生にお世話になってます」
丁寧に頭を下げるその仕草が、なんか新鮮だった。
案内された窓際の二人席に向かい合って座る。
メニューを開いたものの、文字が頭に入ってこない。
(落ち着け。いつも通りでいいだろ)
そう言い聞かせながら、赤ワインのボトルを一本頼んだ。
グラスじゃ、たぶん足りない。
酔わねぇと、今日の自分を持て余しそうで。
「わあ……」
前菜が置かれた瞬間、篠山の顔がぱっと明るくなる。
その光に、つい目が吸い寄せられる。
髪を耳にかける一瞬、首筋がよく見える。
小さく頷くたびに、ネックレスが揺れる。
そんな何でもない動きなのに、目が離せない。
病棟でバタバタしてる時とも、クロと遊んでる時とも違う。
"おめかしして、楽しみに来ました"って顔だ。
その事実が、静かに心の内側を揺らした。
***
「クリスマスパーティー、子どもたち、楽しみにしてましたよ」
篠山が嬉しそうに話し出した。
手振りを交えて喋りながら、ワインを少しずつ口に運ぶ。
そのたび、頬に赤みがゆっくり広がっていく。
(……完全に、“好きな仕事の話してる時の顔”だな)
それが、たまらなくいい。
"子どもたち"の話をする時のこいつの声が、俺は好きだ。
「先生も何か作ります? 不器用でも、子どもたち絶対喜びますよ」
「誰が不器用だ。……まあ、考えとく」
いつも通りの調子で返しただけなのに、篠山がくすっと笑った。
それだけで、妙に嬉しくなる。
コースが進むにつれて、ワインの減りもいい。
篠山が少し酔ってるのは見れば分かる。
(酔ってんな、こいつ)
そう思いながら──
(……俺も大概だな)
料理はどれも旨い。
魚も、肉も、文句なしなのに、味の記憶が薄い。
気づけば、皿よりも視線が動くのは、ナイフとフォークを持つ篠山の手元ばかり。
食べるたびに揺れる指先。
ワインで赤くなった頬。
柔らかく笑う横顔。
(……何見てんだよ俺は)
そう思うくせに、視線はどうしてもそこから離れなかった。
***
「……何歳なんだっけ、お前」
「私ですか?」
年齢を聞いた瞬間、フォークが止まった。
「……まじか。若ぇな」
目の前の数字が、思ってたよりもずっと低い。
その事実が、じわっと胸の奥に落ちてくる。
グラスを持つ指に、無意識に力が入った。
(……こんなに年が離れてて……俺、何考えてんだ)
理屈だけなら、引く理由はいくらでもある。
そう分かってるのに──
向かいで笑ってる顔を見た瞬間、胸の中で鳴っていた“やめとけ”が、全部、小さくなっていく。
***
デザートが運ばれてきた頃には、店内はだいぶ賑やかになっていた。
隣のテーブルでは、誰かの誕生日らしく店員が歌を歌い、ろうそくの火が揺れている。
周りがぱっと明るくなり、拍手が起きた。俺もつられて手を叩く。
横を見ると、篠山も同じタイミングで笑いながら拍手していた。
自分とは関係ない誰かの祝い事に、こんなふうに自然と笑って手を叩ける。
その無邪気さというか、人の幸せをちゃんと喜べるところが、胸の奥にやけにまっすぐ刺さってくる。
(……ほんと、こういうとこなんだよ)
気づけば、また見てた。
「先生。
さっきから……何回も、私のこと見てませんか?」
不意打ちだった。
「いや、その……見てねぇ」
「うそ、絶対見てました。何かついてますか?」
視線の逃がし場所がどこにもない。
嘘つくのが苦手な自覚はある。
それでも、何かごまかさなきゃと思うのに、口が勝手に動いた。
「……綺麗だから、つい見ちまうんだよ」
言った瞬間、やってしまった、と思った。
(バカか俺は。何言ってんだ)
でも、嘘じゃない。
むしろ、今いちばん隠したかった本音だ。
篠山が固まる。
グラスを握ったまま、真っ赤になって目を丸くしている。
「悪い。変なこと言った」
言い訳を探すけど、どれも白々しい。
取り繕おうとするほど、余計に本音だけが浮き上がるみたいで。
(……もう撤回しねぇほうがマシだ)
「……うれしいです」
小さく、それだけ返ってきた。
その一言だけで、胸の奥がぐらっと揺れた。
***
店を出ると、夜気はすっかり冷えていて、白い息がすぐに浮かんだ。
ビルの隙間にちらっと覗く空は暗くて、街灯だけがやたら明るい。
「寒くないか」
「ちょっとだけ。でも、大丈夫です」
両手を合わせて息を吹きかける仕草が、なんだか守ってやりたくなる。
そのとき──
ドン、と腹に響く音がした。
「……え?」
もう一発。さっきより少し大きな音。
「先生、今のって……」
「花火だな」
音の方を見上げても、周りの建物が邪魔で何も見えない。
でも、空気がわずかに震える感じで分かる。
「あっちの跨道橋の上なら、見えるかも……!」
篠山が、ぱっと表情を輝かせた瞬間、俺の手を掴んだ。
「ちょ、──」
言い終わる前に引っ張られた。
小さい手なのに、思ったより強い。
その力に心臓が変な跳ね方をする。
一緒に階段を駆け上がる。
跨道橋の上に出た途端、ちょうど次の花火が開いた。
金網越しの空に、小さな光の花が咲く。
篠山が息を呑む。
花火の光が横顔に反射して、目元が淡く揺れた。
(……きれいだな)
花火の色より、そっちのほうが目を奪う。
今日のためにちゃんと準備してきたワンピース、髪、メイク──全部が、その光に合っていた。
(ちゃんと、"今日のために"準備してきてんだよな)
そう思った瞬間、胸の奥で何かが決定的に変わった。
──キスしたい。
はっきり言葉になった衝動に、自分がいちばん驚いた。
(だめだろ。職場の仲間で、年齢も離れてて……)
理性は止めてるのに、隣に立ってるこいつの存在が、その理性ごとゆっくり焼いていく。
ふと、篠山がこっちを見上げた。
花火の光を映した目が、まっすぐ俺を捉えたまま動かない。
数秒。
そのあと──そっと、瞼が閉じられた。
(……一歩近づいてくるのは、いつもお前のほうだな)
もう逃げ道はない。
“間違い”と呼ぶには遅すぎる。
触れた唇が、ふっと震える。
柔らかい。あったかい。ワインの味がほんの少しだけ混じってる。
短く、慎重に触れて、離す。
それだけで胸がいっぱいになった。
「……悪い、我慢できなかった」
口に出した瞬間、言い訳みてぇな響きになったのが自分でもわかった。
篠山はゆっくり目を開けて、真っ赤な顔で首を振る。
ほっと息を吐きそうになって──無意識に、半歩だけ後ろに下がっていた。
「……良く、ねぇよな」
自分でもわかるくらい、声が低く落ちた。
「立場考えたら……」
言いかけて、口をつぐむ。
金網の向こうの花火が、やけに遠く見えた。
病棟じゃ、親にもスタッフにも「信頼できる医者です」みてぇな顔して立ってる。
ボランティアも、ハンドラーも、守る側に回るのが俺たちの役目だ。
恋愛で散々しくじってきた大人が、今さら職場までややこしくしてどうすんだって話だ。
一番やらかしちゃいけねぇ立場のやつが、率先して線踏み越えてどうする。
篠山だって、本当なら同い年ぐらいの、まっすぐで余計な荷物持ってねぇ相手と笑ってりゃいい。
若いスタッフと談笑してるのを見かけるたび、そう思うようにしてきた。
横目で見ると、篠山がきゅっと唇を噛んでいた。
殴ったわけでもねぇのに、殴ったみてぇな顔させてる気がして、胃のあたりが冷たくなる。
篠山が、一歩踏み出し、俺の胸に手をそっと添えた。
「永瀬、せんせ……」
掠れた声で呼ばれて、心臓がどくんと跳ねる。
涙をこらえてるみたいに目のふちが濡れて、上目遣いのまま、こっちを見てきた。
「……そんな顔すんなよ」
思わず、声が出る。
言った瞬間、自分のほうが追い詰められたみてぇな気分になった。
守る側でいるはずなのに、今一番ぐらぐらしてんのが俺だ。
篠山が、ほんの少しだけ背伸びをした。
届かないもんに、なんとか手ぇ伸ばそうとする子どもみたいに。
コートの胸元に、ふっとあったかい息がかかった気がして、胸の奥がふわっと浮く。
「……っ」
喉の奥で、勝手に音が鳴った。
ここで線引くのが正しいってことくらい、頭じゃとっくにわかってる。
心の中だけで終わらせるつもりだった言葉が、掠れた声のまま、勝手に口からこぼれた。
「線なんか……引けねぇよ」
肩をつかんで、引き寄せる。
小さく震えた身体が、俺の胸に収まった。
目を閉じるのを確認してから、さっきより深く口づける。
肩に回した腕に力が入り、篠山の手がジャケットをぎゅっと掴んだ。
(ほっそ……この細ぇ身体で、あの病棟で踏ん張ってんだよな)
あのフロアでは、「安全な大人」でいてくださいって、誰も口にはしねぇけど求められてるのもわかってる。
わかってるのに、いま一番手放したくねぇのは、この腕の中の体温だった。
酔いとは別の、妙に真面目で大事な感情が、胸の下からゆっくり浮かんでくる。
唇を離すと、篠山は息を弾ませて、俺の胸に顔を押し付けた。
小さな体温が腕の中にあって、自分の心臓の音が馬鹿みたいにうるさい。
頭を軽く撫でると、やわらかい髪が指の間をすっとすり抜けていった。
***
そのあと、宿舎の前まで送ったが、途中、ほとんど会話はなかった。
気まずい沈黙じゃない。
ひと言でも何か話したら、さっきのキスまで全部、言葉にしてしまいそうで──それが妙に怖かっただけだ。
隣を歩くたび、さっき胸に収まっていた体温の感覚が、やたらとはっきり蘇る。
玄関の前で立ち止まった篠山が、ゆっくり顔を上げる。
街灯の光に照らされて、まだ頬がほんのり赤い。
「今日は本当にありがとうございました。すごく、楽しかったです」
「……ああ」
それだけしか言えなかった。
姿が見えなくなるまで見送ってから、ようやく俺は頭を抱えた。
「……やっちまったな」
仕事仲間に手を出した。
年も離れてる。
病棟じゃ「信頼できる医者です」みてぇな顔して立ってるくせに、その裏でこれだ。
ダメな理由はいくらでも並べられる。
でも──
(後悔は、してねぇな)
その事実だけは、はっきりしていた。
胸の奥の熱は、さっきからずっと消えない。
「……どうすんだよ、これから」
独り言が夜の空気に溶けていく。
答えなんか出るはずないのに、不思議と焦りはなかった。
冷たいはずの夜風が、今日は妙に心地いい。
頬に触れた風すら、さっきの体温をなぞっていくようだった。
(もう……引き返せねぇな)
自嘲とも、覚悟ともつかない想いが胸の奥で小さく響く。
……ただ。
(明日、どんなツラして「おはよう」って言やいいんだよ)
いつもどおりナースステーションで顔合わせて、何食わぬ顔していつもどおり仕事の話をして。
仕事中に余計な顔してたら最悪だし、かと言って距離を詰めすぎれば噂のタネになるだけだ。
(線引かなきゃいけねぇからって、
……どうせ俺、いつもよりよそよそしくすんだろうな)
そんでまた、さっきみてぇな「殴ったみてぇな顔」させんだろう。
自分で自分の姿がありありと想像できて──思わず頭をかいた。
╔═══━━━─── • ───━━━═══╗
【9】準備と、小さな不安
╚═══━━━─── • ───━━━═══╝
一緒にご飯を食べた翌日。
廊下の角を曲がったところで、永瀬先生とばったり目が合った。
一瞬、心臓が跳ねる。
「おはようございます」
声をかけると、先生は一瞬だけこちらを見た。
ほんの一拍、視線が揺れたような気がする。けれど、
「……おう」
短く返しただけで、そのまま歩き去っていく。
いつもみたいに立ち止まりもしないし、クロの顎を撫でもしなかった。
(……あれ?)
キスしたのに、花火の下で。二回も。
胸がきゅっとなる。
それなのに。
今の先生は、まるで何もなかったみたいに淡々としている。
(……なかったことに、したいのかな)
後悔してるからか、立場を守りたいからか、そのどっちなのかもわからない。
その考えが浮かんだ瞬間、胸より先に、背中がすっと冷えた。
落ち込む暇すらない。
心が、目の前の“温度差”に、じわっと痺れた。
「篠山さん、会議室に来てくれる?」
看護師長さんの声に振り返る。クロが心配そうにこちらを見上げた。
「はい」
短く返事をしてから、そのふわふわの頭をそっと撫でる。
気持ちを切り替えるように、クロのリードをいつもより少し強く握りしめた。
(……今は仕事に集中しなきゃ)
***
会議室には、すでに何人かのスタッフが集まっていた。
永瀬先生、看護師長さん、管理栄養士さん、保育士さん。
「じゃあ、始めましょうか」
看護師長さんが、配られた資料を開いた。
「さて、今年のクリスマスパーティーですが──」
と、看護師長さんが資料を指で叩きながら言った。
「子どもたちから要望があるのは、やっぱり”ご馳走”をみんなで食べたいってことですね」
「管理栄養士の立場から言わせてもらうと……」
管理栄養士さんが、少し眉を寄せる。
「子どもたち、食事制限がある子も多いのよね。
アレルギーに、塩分やカロリー制限。」
「免疫が落ちてる子は、人の多い場所も避けたいし」
「飾りも、ホコリたまるものは避けたいわ」
「拭き取りやすい素材で、終わったら全部廃棄できるようにして」
現実的な言葉が、次々と出てくる。
頭ではわかっている。ここは“普通のイベント会場”じゃない。
ただ、「ご馳走」という言葉の向こうに、
絵本の中のクリスマスの食卓を憧れの目で見つめていた子どもたちの顔が浮かび、胸の奥がそっと痛んだ。
「……だよな」
先生が短くつぶやき、黙り込んだ。
ふっと、空気が重くなる。
「……発言してもいいですか?」
気づいたら、私は口を開いていた。
「それぞれに合わせたメニューで、“一緒に食べてる感じ”は作れませんか?」
「一緒に?」
管理栄養士さんが、こちらを見る。
「はい。普通の学校って、給食を友達と一緒に食べるじゃないですか。
同じテーブルで、同じ時間に、“いただきます”って言って」
私は、資料の隅を指でなぞりながら続けた。
昔の自分のクラスのざわめきが、ふっと頭をよぎる。
「でも、ここの子たちは、それができない。
一人で病室で食べたり、時間もバラバラだったり」
“ぼくのご飯だけ、いつも違う”と呟いていた男の子の顔が浮かぶ。
「だから……クリスマスくらいは、見た目は似ていても、それぞれの子に合わせたメニューで、
“同じテーブルにいる感じ”を味わえたらいいなって」
一瞬、静かになった。
それから――管理栄養士さんの顔がぱっと明るくなる。
「……いいわね。
主食や量は変えても、盛り付け方をそろえれば、写真で見ても同じに見えるかも」
「器もそれぞれだけど、同じ色のトレイに乗せるとかね」
看護師長さんも、楽しそうに乗ってくる。
「アレルギーある子には別メニューで、でも“仲間外れ感”はなくせそう」
「感染対策的にも、一人一人トレイで配膳ならまだ現実的ね」
「そうしましょう。ナイスアイディアだわ」
「じゃあ、そうしよう」
永瀬先生が、短く言った。
「みんなで、一緒に食べる。そうだよな」
その瞬間──先生が、ちらりとこちらを見た。
本当に、一秒あるかないかの一瞬で。
けれど、その目の隅に、ふっとやわらかさが滲んだ気がした。
「飾り付けは?」
「子どもたちが作ってるわよ。折り紙とか、画用紙とか」
「廊下にも飾りたいわね」
「ツリーは会場に大きいのを一本。あとは病棟ごとに小さいのを」
会議はどんどん弾んでいく。
私は資料を見ているふりをしながら、ときどき先生の横顔を盗み見た。
──さっきより、すこし柔らかい気がして。
背中のあたりに残っていた朝の冷たさが、ゆっくり溶けていくのを感じた。
***
午後。
院内学級の教室には、紙のこすれる音と、ハサミの小さな開閉音が続いていた。
冬の日差しが斜めから入り、机の上の折り紙を明るくしている。
紙を切る音と、折り紙を折る小さな指のリズム。
それだけで、ここが今だけ“特別な場所”みたいに思えた。
「先生! ツリーできた!」
「お、いいなそれ」
永瀬先生は、子どもたちの作品を一つひとつ手に取っては、本当に感心したみたいに声をあげる。
大げさじゃないのに、子どもたちは嬉しそうだった。
「ミカ、それは?」
「サンタさん!」
ミカちゃんが赤い折り紙を掲げる。
点滴のチューブが揺れて、紙の影と一緒に机へ落ちる。
「ひげ、細かいな。すっげぇ上手じゃん」
「えへへ」
永瀬先生は、子どもと話すときだけ、余計な力が全部すとんと抜ける。
その変化が、遠くから見ていてもわかる。
その様子を、私は教室の後ろから見ていた。
子どもたちの表情を見るたび、胸の奥がそっとあたたまる。
足元では、クロが静かに座って、しっぽだけ、光に合わせてゆっくり揺れている。
(子どもたちと一緒にいる時の先生の顔、やっぱり好きだな)
さっきまでの“よそよそしさ”が嘘みたいに、
永瀬先生は子どもたちを相手にすると、肩の力がすっと抜けていく。
「……でもさ」
ユキくんが、折り紙を折る手を止めてぽつりと言った。
「パーティー、ママも来るんだよね」
「来るぞ。楽しみにしてたぞ」
先生が頷く。
「じゃあさ……ママが楽しいのがいいな」
その一言で、胸の奥がきゅっと鳴った。
「ぼくがびょういんだから、かなしいのやだなって思って。
だから……クリスマスは、いっぱい笑っててほしい」
先生がそっとユキくんの頭に手を置く。
その大きな手に包まれた瞬間、ユキくんの肩が、安心したみたいにすこし下がった。
「じゃあ、お母さんたちも笑えるパーティーにしような」
「うん!」
ユキくんは、また折り紙に向き直る。
さっきより少しだけ丁寧に、角を揃えている。
(この子たち……)
胸がじわっと熱くなる。
自分だって不安でいっぱいなはずなのに、
誰かを安心させたいって願ってる。
(……私も、そうだった、かもしれない)
あの頃の病室が、ふっと蘇る。
点滴スタンドのタイヤが床をこする音。
白いカーテンの向こうから聞こえる、誰かの咳。
面会時間のたびに、母の目の下に薄くできるクマ。
父の大きい手が私の指を包んで、ときどき少し震えていたこと。
──そして、私が笑うと、二人とも少しだけ、ほっとした顔をしたこと。
『元気だよ』『ここ楽しいよ』
あの頃の私は、その言葉に自分を押し込めていた。
本当は寂しくて、家に帰りたくて仕方なかったのに。
そうやって少し背伸びをしていた。
(……この子たちも、きっと同じなんだ)
ミカちゃんがカードを書き始めた。
小さな手で、一文字ずつ丁寧に。
『ママ、パパ メリークリスマス
いつもお見まいに来てくれてありがとう──』
そこまで書くと、ミカちゃんはちょっとだけペンを止めた。
細い肩が、すこしだけ上下する。
さっきから、書きながらときどき小さく息をついているのが気になった。
でも、「つかれた」とは一言も言わない。
「喜んでくれるかなあ……」
笑ったミカちゃんの表情は、とても軽かった。
その軽さに、逆に胸がぎゅっとなる。
(……うまくいきますように)
口に出さないまま、小さく願った。
できることは限られているけれど、
せめて今日のこの時間も、クリスマスパーティーも、
子どもたちにとって“いい日だった”になりますように。
……絶対に成功させたい、静かにそう思った。
***
授業が終わると、教室には私と永瀬先生だけが残った。
子どもたちが作った飾りを、段ボール箱に詰めていく。
紙の触れる音が、さっきまでの賑やかさの名残みたいに続いていた。
クロは教室の真ん中で、子どもたちを見送ったあと、
静かに伏せたまま私たちを見ている。
「……すごいですね、子どもたち」
私は、手を動かしながら言った。
「自分のためだけじゃなくて、お父さんやお母さんを喜ばせたいって」
「……ああ」
先生が、小さく頷く。
「あいつら、自分でわかってんだよ。
自分が入院してることで、親がどんだけ心配してんのか」
「だから、せめて“楽しそうな姿”を見せたいんですよね」
そう言った瞬間、クロが小さく鼻を鳴らした。
教室の静けさに、ほんの一瞬だけ柔らかい音が混ざる。
気配を読むように、こちらを見上げていた。
先生は、その音に気づいたのか視線を落とした。
「……それを叶えてやるのが、俺たちの仕事だ」
その声は真面目で、でもどこか、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「だから……頑張ろうぜ」
「……はい」
頷いた瞬間、先生の目尻にふっと小さなしわが寄った。
笑ったのか、照れたのか、そのどちらもなのか分からない。
「先生、ありがとうございます」
「……何がだよ」
「クリスマスパーティー。先生が“大きくやろう”って言ってくれたから」
「子どもたちのためだ。当たり前だろ」
先生は、わざとらしいほど視線をそらした。
「でも──」
言いかけた時。
「それに」
先生が、わずかにこちらを見た。
「お前が、頑張ってるから」
(……え)
「お前がいなかったら、ここまで準備進んでねぇし、子どもたちもこんなに浮かれてねぇよ」
心の奥で、ゆっくりと固まっていた何かがほどけていく。
ふと見ると、クロがこちらをじっと見ていた。
さっき鼻を鳴らしたときと同じ顔で、
まるで“それでいいんだよ”とでも言うみたいに、しっぽを一度だけ揺らした。
***
夕方。
仕事終わりに、私は何となく足が向くまま、いつもの公園へ歩いた。
昼間のにぎやかさとは違って、冬の空気は静かで、息をすると胸の奥がひんやりした。
ベンチに腰を下ろすと、クロが足元で丸くなりかけて、
でも落ち着かないように一度まわって、私の横に座り直した。
(……今日はまだ来てないか)
先生がいないベンチが、必要以上に広く感じる。
避けられている、と決めつけるほど悲観じゃないけれど、
“どうなんだろう”と、胸の奥がそわつくのは止められなかった。
クロが鼻を「ふすっ」と鳴らし、私の膝に顎をのせてくる。
「……平気だよ」
そう言いながら、自分が平気じゃないのはわかっていた。
ただ、昼間みたいに“仕事の顔”をしてる先生じゃなくて、
あのときみたいな、素の顔で話せたらいいのに。
そんなことを思っていた、その時──
「……よう」
「せ、先生……!」
「悪い。外来伸びてさ」
少し息が上がっていて、本当に急いで来たみたいだった。
温かい缶コーヒーが差し出され、いつものベンチに腰掛ける。
「……ありがとうございます」
缶の熱が手に移って、少しずつ体の緊張がゆるんでいく。
夕風だけが二人の間を抜けて、落ち着いた静けさをつくっていた。
しばらくして、私はそっと切り出した。
「……先生」
「ん」
「この前の……その、花火のときのことですけど」
言葉にした瞬間、胸が鼓動で跳ねる。
「後悔、してますか……?」
先生は一瞬だけ目を見開いて、それから缶を一口飲んで小さく息をついた。
「……いや。そんなことはねぇよ」
「でも……」
「怖かったんだよ」
「……え?」
「お前が後悔してねぇかって」
先生は、気まずそうに笑った。
「若いのにさ、年食った医者とキスして。しかも職場の人間と、だぞ?」
視線が宙のどこかに泳ぐ。
「変な噂立ったらどうすんだ、とか……
そういうの全部考えたら、余計ビビって、どう接していいのか分かんなくなった」
落ちていく声が、冷たい空気にじんわり溶ける。
(先生も、怖かったんだ)
自分のことより、私のことを先に考えて
「私も、同じです」
気づけば、そう口にしていた。
「先生が後悔してるんじゃないかって。
“やっぱりやめとけばよかった”って思ってるのかもって。
迷惑だったんじゃないかって……怖かったです」
先生が驚いたようにこちらを見て、
少しの間のあと、ふっと力の抜けた笑みをこぼした。
「……お互い、同じこと考えてたのかよ」
「……そうですね」
「クリスマスパーティー、成功させような」
先生が、空を見上げたまま言う。
「はい」
「それが終わったら……ちゃんと話そうな」
“これが何かの名前になるなら、その時に”──そう続けられた気がして、私は小さく頷いた。
「……はい」
先生の横顔が、ほんの少しだけほっとしたようにゆるむ。
そのタイミングで──気づいたら、先生の手が私の頭にそっと触れていた。
なでる、というほどでもない。
風で乱れた髪を整えるみたいな、短いひと撫で。
「あ……」
触れた瞬間、先生自身が小さく息を呑んだ。
自分でも驚いたみたいに目が揺れて、指先がそっと離れていく。
「……悪い。つい」
視線をそらしてそう呟く声は、どこか気まずそうで。
でも、“本当は触れたかったんだ”って気持ちが、その一言ににじんでいた。
その「つい」がうれしすぎて、目の奥がじんと熱くなる。
クロが尻尾をぶんぶん振る。
オレンジの夕焼けが、公園と、私たちの間の空気までそっと染めていった。
***
翌朝、クロと一緒に、いつものように病室を回っていた。
「おはよう、ユキくん」
「あ、篠山さん、クロ! おはよー!」
「今日も、飾り作る?」
「うん! もうちょっとで完成!」
ユキくんが見せてくれた画用紙には、まだノリが乾ききっていない星がいくつも貼られていた。
(みんな、本当に楽しみにしてる)
次の病室に向かおうとした、その時。
「篠山さん…」
廊下の向こうから、看護師さんが早足でこちらに向かってくる。
足音だけが、やけに重く響いた。
マスクの上の目が、はっきりと焦っている。
「ミカちゃんが……」
(え……?)
手の中のリードを握り直す。
鼓動が、一拍飛んだあと、ドクンと大きく跳ねた。
「昨日の夜から熱が三十九度以上出てて……今、永瀬先生が診てるんだけど」
「ミカちゃん……」
私はクロを連れて、病室へと向かった。
***
ミカちゃんの病室の前に着くと、いつもは半分開いているドアが、きっちり閉じられていた。
ドアノブに触れた指が、そこで止まった。
中の気配の強さに、踏み込むことができなかった。
「三十九度六分です」
「解熱剤、さっき入れました」
「SpO₂は?」
「九十七あります」
モニターの電子音が、いつもより速い気がした。
器具のかすれる音、ドアの向こうで誰かの足音が聞こえる。
「篠山さん」
看護師さんが、ドアの前で私の肩を押さえた。
「ごめんね、今は中に入らないで」
「……はい」
ドアのすぐ横の壁に背中をつける。
クロが、不安そうに鼻を鳴らした。
(大丈夫、大丈夫……)
そう心の中で繰り返す。
でも、手のひらはじっとりと汗ばんでいて、
足が震えそうになるのを、必死にこらえる。
「採血回します」
「尿も取れました」
「レントゲン、ポータブル呼んで」
誰かの足音と器具の音がするたびに、
中で小さな体が必死に耐えている光景だけが、勝手に頭に浮かぶ。
熱の数字とモニターの音が、全部ミカちゃんの呼吸に直結している気がして、
胸の奥が、じわじわと冷たくなった。
リードを握る手に力がこもる。
クロが、その手の甲をぺろりと舐めた。
「……クロ」
クロの体温だけが、現実につながっている気がした。
***
どれくらい時間が経ったのか、うまく掴めなかった。
他の子の病室を回りながらも、ミカちゃんの状態がずっと頭のどこかに引っかかったままだ。
やがて、病室のドアが開いた。
出てきた看護師さんの肩が、さっきよりわずかに落ち着いている。
「ひとまず、今のところは急激に悪くなっている感じではない……かな」
そう言ってから、少しだけ声を落とした。
「ただ、原因がまだわからないから、しばらくは厳重に経過観察」
「……そう、ですよね」
胸の奥で固まっていたものが、安心と不安のあいだで形を変える。
そのすぐあと、奥から永瀬先生が出てきた。眉間の皺は深いままだった。
「先生……ミカちゃんは」
「まだ断定はできねぇ。採血とレントゲンの結果見てからだ」
語気は落ち着いているのに、声の芯だけが少し強い。
「熱は解熱剤で抑えられてる。呼吸も今のところは保ててる、現時点ではな」
「……はい」
「ただ、少なくとも今日明日は、個室でがっつり様子見る」
喉まで出かかった言葉を、一度飲み込む。
でも、飲み込んだところで消えてはくれなかった。
「クリスマスパーティーは……」
言った瞬間、後悔が胸の底で弾けた。
先生の眉が、ほんのわずかに動く。
「パーティーのことは、今は考えなくていい」
短くきっぱりした口調。
冷水を浴びせられたようだった。
「一番大事なのは、あいつの命と身体だ」
「……はい」
胸が、きゅっと狭くなる。
でも、先生の目は真っ直ぐ私を捉えていた。
責めるようでも、突き放すようでもなく、
“同じ方向を見ている”という言葉のない合図みたいに。
「先生」
息をひとつ整えて、顔を上げた。
「私、できることがあったら、何でもやります。
ミカちゃんにも、他の子たちにも……
“無理はさせないけど、諦めさせすぎない”場所を作りたいです」
その言葉に、先生の視線がほんの少しやわらぐ。
「……頼もしくなったな」
その声を聞いたとき、
先生も同じように不安と戦っているんだと、ふと思った。
「検査が一段落したら、短い時間ならクロを連れて様子見に入ってもらうかもしれねぇ。
そのときは、ミカを落ち着かせる役、頼む」
「はい」
それだけ告げて、先生は再び病室へ戻っていく。
閉まりかけたドアの向こうから、モニターの一定のリズムがかすかに響いた。
窓の外を見ると、空は一面の灰色だった。
クリスマスパーティーまで、あと二日。
飾り付けで賑やかだった病棟が、少し遠くに感じられる。
胸の奥に、静かに黒い不安が広がる。
それでも──
私はリードを握り直し、クロの頭をそっとなでてから、ナースステーションへ向かった。
(今の自分にできることをしよう)
ミカちゃんにも。他の子たちにも。
そして──先生の支えにも、なりたい。
不安をごまかさないまま、それでも前へ歩き出した自分の足音が、灰色の廊下に静かに続いていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます