第37話 少年は逃走す=深淵の黒夢
——黒い、真っ黒い夢。
まるで溺れている夢のように息苦しく、
まるで熱の時に見る夢のように恐ろしい。
「はぁっ、はあっ、はあっ、はあっ!」
暗く、狭い通路を全力で駆け抜けていく。
後ろから、
だが、短い手足を必死に動かしてるのに、なかなか前に進んでいかない。
「……頑張って、頑張って夜都! 後ろは見ちゃダメ!」
手を引かれている。
自分の右手を引きながら、少し前を走る女の子がいた。
長い黒髪を揺らして、真っ直ぐに前を見ながら必死に走る女の子。
(……あれ、アタシこの子知ってるかも)
意識のどこかで、後ろ姿に記憶が重なる。
昔、幼馴染の男の子と遊んでいた時。夕陽が沈んで、辺りが夕焼けの橙から夜闇の紫紺に変わる頃。
「……夜都、帰ろう」
男の子を迎えにきていた、少し年上の女の子がいた。
(あ、あの子、夜都のお姉さんだ)
意識の中で、璃菜はそのことに気がついた。
だが夢の中の場面は、璃菜の意識に関わらずに続いていく。……夜都はまだ十歳くらい、お姉さんは中学生くらいの歳だろうか。二人は必死に逃げ続けている。
「はあっ、はあっ、……あっ!!」
疲労によって、足を上げる高さが足らずにちょっとした小石に足を取られる夜都。バランスを崩し、スローモーションのようにゆっくりと倒れる。
ズシャアッ!! 補助魔法などにより体感以上の速度が出ていたのか、倒れた夜都の体はそのまま地面を十数メートルも滑っていく。
「ぐあぅううっ……っ!!」
「夜都っ! 立って!!」
すぐにお姉さんは駆け寄るが、背後に迫る凶悪なプレッシャー……身の毛のよだつ気配が、すぐそこまで来ていることが分かってしまう。
「……夜都、落ち着いて聞いて。お姉ちゃん、ここでちょっと足止めしてるから、あんた先に逃げな」
「ダメだよ! 姉さんも一緒に逃げよう!!」
璃菜の見る夢の視界には、お姉さんの顔は逆光になっていて、よく見えない。……それでも、幼い弟を安心させようと口元が笑っているのだけは分かった。
「馬鹿。あんたがいたら足手纏いだって言ってんの。……絶対に、振り返っちゃダメよ?
「でも、でも……!!」
(——あぁ、この夢は、夜都の夢なんだ)
その時になって、璃菜の意識はそれを理解した。
だってさっきからずっと、胸が締め付けられるように痛い。
この夢の主人は、この後起こる出来事を知っている。
何度同じ夢を見ても、その時に何もできなかった自分を何度も何度も、呪って呪って呪い続けてきた。
「……やだよ。おねえ、一緒に行こうよ」
「泣くなよ、バカ。……大丈夫、お姉ちゃんが強いの、よく知ってるでしょ? 絶対に後から追いつく。約束する。——さぁ、行って!!」
「うああ、あぁあぁぁぁっっっっ——!!!!」
夢の視点は真っ暗な通路の奥へ必死に走り出す。
胸が痛くて、息が出来ない。
取り返しがつかないことをした後悔で、小さい心臓が押し潰されそうになっている。何度も足を止めようとするたびに「振り返っちゃダメ」という姉との約束だけは、ちゃんと僕が守らないと、と思って必死に前へと走り続ける。
「夜都ーっ、止まるなーー!! ……テメェの相手はこの私なんだよ!! ——来い、『白面金毛九尾狐——“
背後から激しい戦闘音が聞こえる。
悍ましい怪物の叫び声と、武器が激しく打ち付けられる金属の衝突音。禍つ呪詛と
脚が動く限り、夜都は泣きながら振り返らず走り続けた。……どれだけ走っただろうか。夜都はふと、背後の音が、全く聞こえないことに気がついた。
「……姉さん?」
思わず、本当に思わず約束のことも自分が逃げなくちゃいけないことも忘れて、夜都はうしろを振り返ってしまう。
「あ」
ただひたすら真っ直ぐに伸びた通路。
その遥か彼方、視界の先の先。
「振リ返ルナ……ッテ、イッタノニ。約束、マモラナカッタノ?」
(………………!!)
背後から、大きな手のひらのような黒い靄に掴まれたお姉さんが、虚な眼に不気味な光を宿して夜都に向かって呟く。
物理的に声が届くような距離ではない。
それなのに、その声はまるで耳のすぐ側で呟かれたかのように吐息さえ感じられて、
「……約束ヲヤブル悪イ子ハ————死ネ!!!!!」
「「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」」
「うおっ!? ……び、びっくりしたぁ。璃菜、目が覚めた?」
「ぁぁぁぁぁぁぁ…………………………あ、れ?」
喉の奥から掠れた絶叫を残しながら、璃菜は
「アタシ……今、寝て……?」
「……うん。28層で戦った、バジリスク・ラミアってボス覚えてる? アイツが変質したのは、『深淵災異』っていう、
「そう…………」
璃菜は、目を瞑って今し方まで見ていた夢の光景を思い出す。——暗闇の中に引きずり込まれたお姉さんは、ラミアと同じ『昏い神気』に覆われていた。
「……ねぇ、夜都。聞いてもいい?」
「……ん、なに?」
お姉さんに助けてもらって、自分だけ生き延びて、どんな気持ちだったか。遺された人が、その後どんな想いで過ごしてきたのか。……璃菜は、もう聞かなくてもわかっていた。
「ううん……やっぱり、なんでもない」
「そうか。……もうすぐ29層のボスフロアだ。まだ、休んでていいよ」
「うん……」
——遺された者の痛み。
幼い日に、あれだけ怖がりだった少年の背中は、今は見た目よりもずっと広く、がっしりと逞しかった。
(…………)
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