第13話:岐路に立つ声
夜の海は、昼間とは違う顔を見せる。
波の音は静かで、風は肌を撫でるように優しい。
私のアパートの窓から見えるその景色は、まるで心の揺れを映しているようだった。
康彦は、再びこの部屋を訪れていた。
再会の夜から数日。二人は言葉を交わし、沈黙を分かち合い、過去をなぞるように時間を過ごしていた。
けれど、今夜は違っていた。
何かを決めなければならない——そんな空気が、部屋の隅に漂っていた。
「美月から連絡がありました。予定日が近いそうです」
康彦の声は静かだったが、その奥に揺れがあった。
私は湯呑を手に取り、目を伏せた。
「そう……よかったわ。元気な赤ちゃんが生まれるといいわね」
「麻衣子さん」
彼が名前を呼ぶと、私はゆっくり顔を上げた。
「僕は……このまま、あなたのそばにいてもいいんでしょうか」
その問いに、私は言葉を失った。
窓の外では、漁船の灯りがゆらゆらと揺れていた。
その光が、二人の沈黙を照らすようだった。
「あなたには、守るべきものがあるわ」
私は静かに言った。
「美月も、これから生まれてくる子も。あなたがそばにいてあげなければ」
「でも、僕は……麻衣子さんを失いたくない」
康彦の声は、苦しげだった。
「二人で過ごした時間が、僕の中で生きている。忘れられないんです」
私は、彼の手にそっと触れた。
その手は、あの日と同じ温もりを持っていた。
「私も、あなたを忘れられない。でも、それだけじゃ、前には進めないのよ」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
康彦の問いに、私は答えられなかった。
心も体も私は彼を求めている。
けれど、理性は彼を遠ざけようとしていた。
「私たちは、選ばなければならないの」
私は言った。
「過去に戻るのか、それとも未来に進むのか。どちらかを、はっきりと」
彼は目を閉じ、深く息を吐いた。
「僕は……麻衣子さんと未来を歩きたい。でも、それは誰かを傷つけることになる」
「そうね。だからこそ、選ぶのよ」
私は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
海の向こうに、夜明けの気配があった。
「今夜は、ここで考えて。答えは、あなたの中にある」
私の声は、静かで、けれど確かだった。
康彦は頷き、私の背中を見つめた。
その姿は、強くて、儚くて——彼の心を揺さぶった。
選ぶということは、何かを手放すこと。
それでも、選ばなければ、前には進めない。
その夜、二人は言葉を交わさず、ただ同じ空間に身を置いた。
それぞれの心が、静かに答えを探していた。
――つづく。
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