第10話 立ち合い

 少女が構えを取った。


 剣の柄に手をかける。腰を落とす。重心を低くする。足を肩幅に開く。膝を曲げる。いつでも動ける姿勢。教科書通りの構え。基本に忠実。無駄がない。独学ではないだろう。誰かに教わった構え。


 悪くない。


 エルフィは動かなかった。構えを取らない。手を下ろしたまま。足も揃えたまま。無防備に見える。隙だらけに見える。風が吹いている。髪が揺れている。


 少女の目が細くなった。挑発と取ったのかもしれない。舐められていると思ったのかもしれない。唇を引き結んでいる。悔しそうな顔。負けず嫌いな顔。


「いつでもいいぞ」


 エルフィは言った。


 少女が動いた。


 速い。若さがある。勢いがある。迷いがない。躊躇がない。踏み込みが深い。足音が響く。土煙が上がる。剣を抜く。一息で間合いを詰める。


 振り下ろす。


 上段からの一撃。力強い。速い。狙いは正確。頭を狙っている。当たれば致命傷。本気だ。手加減していない。


 エルフィは横に一歩動いた。


 それだけだった。


 剣が空を切った。少女の体が流れる。バランスを崩す。踏み止まれない。勢いが殺せない。つんのめる。前のめりに倒れそうになる。


 エルフィの手が伸びた。


 少女の腕を掴む。引く。足を払う。少女の体が宙を舞った。一瞬、浮いた。そして、地面に叩きつけられた。


 どさり、と音がした。


 土埃が舞い上がった。草が散った。鳥が飛び立った。少女は仰向けに転がっていた。目を見開いている。何が起きたのか分かっていない顔。呼吸が止まっている。口が開いたまま閉じない。


 一瞬だった。


 構えてから、転がるまで。数秒もかかっていない。


 少女は動かなかった。仰向けのまま、空を見ていた。青い空。白い雲。風が吹いている。草の匂いがする。何も変わらない。世界は何も変わらない。変わったのは、自分だけ。


 エルフィは少女を見下ろしていた。


「終わりか」

「…………」


 少女は答えなかった。


 しばらく、そのまま転がっていた。呼吸を整えている。目を閉じている。何かを考えている。何かを噛み締めている。


 やがて、目を開けた。


 空を見ていた。まだ、エルフィを見ない。見られない。


「……何も、できなかった」


 少女が呟いた。小さな声。震えている声。


「剣を振ることすら、できなかった。いや、ちゃんと振ったのに。当たらなかった。かすりもしなかった」


 少女の声が詰まった。


「あたし、毎日、毎日、鍛錬してきた。朝から晩まで。剣を振って。魔法を練習して。強くなりたくて。誰にも負けたくなくて」


 少女の目から、涙が溢れた。


 悔しいのだろう。情けないのだろう。自分の弱さを突きつけられた。どうしようもない現実を見せられた。努力してきたことが、何の意味もなかった。そう感じているのだろう。


「……でも」


 少女が体を起こした。ゆっくりと。痛みをこらえながら。


「でも、あたし」


 立ち上がった。足が震えている。膝が笑っている。それでも、立った。


 エルフィを見た。真っ直ぐに。涙で濡れた目で。


「……もう一回」


 少女が言った。


 エルフィは黙って少女を見ていた。


 涙を流しながら、それでも立ち上がる。負けて、悔しくて、泣いて、それでも諦めない。また挑もうとする。


 馬鹿だ。無謀だ。勝てるわけがない。何度やっても同じだ。結果は変わらない。


 でも。


 この目は、嫌いではなかった。


「……いいだろう」


 エルフィは言った。


 少女の顔が変わった。涙が止まった。唇が震えた。何かを言いかけて、言葉にならなかった。代わりに、深く頭を下げた。


「ありがとう、ございます」


 声が震えていた。感謝と、決意と、悔しさが混じった声。


 少女が構えを取った。さっきと同じ構え。でも、目が違う。さっきよりも鋭い。さっきよりも真剣。負けることを知った目。だからこそ、諦めない目。


 エルフィは待った。


 少女が動いた。


 さっきよりも速い。さっきよりも鋭い。踏み込みが深い。狙いが正確。剣の軌道が変わっている。さっきは上段からだった。今度は横薙ぎ。学習している。考えている。同じ失敗を繰り返さないように。


 エルフィは体を沈めた。


 剣が頭上を通過する。空を切る音がした。少女の目が見開かれる。外した。また外した。


 エルフィの掌が、少女の腹に触れた。


 押した。軽く。ほんの少しだけ。


 少女が吹き飛んだ。三歩分。後ろに飛ばされた。尻餅をついた。手をついた。転がった。土埃が舞った。


 また、一瞬だった。


 少女は地面に座り込んでいた。息を切らしている。体が震えている。掌が擦りむけている。血が滲んでいる。


 でも、目は死んでいなかった。


 起き上がろうとしている。また立とうとしている。


「……もう一回」


 少女が言った。三度目。


 エルフィは少女を見ていた。


 馬鹿だ。本当に馬鹿だ。何度やっても勝てない。分かっているはずだ。それでも立ち上がる。それでも挑もうとする。


 昔、似たような者を見たことがある。


 ミゼルナ。あの子も同じだった。何度負けても立ち上がった。何度倒されても起き上がった。諦めなかった。


 でも、ミゼルナの目と、この少女の目は違う。


 ミゼルナの目には、執着があった。エルフィに認められたいという執着。エルフィの隣にいたいという執着。歪んだ渇望。


 この少女の目には、それがない。ただ純粋に、強くなりたい。自分の限界を超えたい。それだけ。


「……いいだろう」


 エルフィはまた言った。


 少女が立ち上がった。足が震えている。体が軋んでいる。それでも、構えを取った。


 三度目の戦いが始まった。


 結果は同じだった。一瞬で終わった。少女は地面に転がった。


 四度目も同じだった。五度目も。六度目も。七度目も。


 何度やっても、結果は変わらなかった。少女は一度もエルフィに触れられなかった。一度も。かすりもしなかった。影すら踏めなかった。それでも少女は立ち上がり続けた。


 日が傾き始めた。


 空がオレンジ色に染まっていく。影が長くなっていく。風が冷たくなっていく。虫の声が聞こえ始める。夕暮れの気配。一日の終わりの気配。


 少女は地面に倒れていた。仰向けに。大の字に。息を切らしている。全身汗だく。服が土で汚れている。擦り傷だらけ。青あざもできている。髪がほつれている。髪留めがどこかに飛んでいった。


 もう立ち上がる力もないようだった。


 エルフィは隣に立っていた。見下ろしていた。


 少女の目は、まだ死んでいなかった。悔しさと、疲労と、それでも消えない何かが宿っていた。


「……あんた」


 少女が言った。息を切らしながら。


「……本当に、強いね」


 エルフィは答えなかった。


 少女が笑った。疲れ切った笑い。でも、どこか清々しい笑い。


「全然、かなわなかった。一ミリも」


 少女が目を閉じた。


「でも、楽しかった」


 そう言って、少女は黙った。


 エルフィは少女を見ていた。


 変わった子だ。本当に。


 負けて、悔しくて、泣いて、それでも楽しかったと言える。そういう強さを持っている。心の強さを。


 嫌いではなかった。


 空が暗くなっていく。東の空に星が見え始める。夜が近づいている。西の空はまだ赤く、一日の名残が漂っている。


「……帰るぞ」


 エルフィは言った。


 少女は目を開けた。エルフィを見上げた。


「……うん」


 小さく頷いた。


 立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。足に力が入らない。何度もやり直して、何度も失敗して、ようやく立ち上がった。ふらふらと。よろよろと。エルフィの肩を借りようとして、やめた。自分の足で立とうとした。


 二人は歩き出した。


 城門へ向かって。城下町へ向かって。ゆっくりと。一歩ずつ。


 夕焼けの中を、二人の影が長く伸びていた。

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