別れ

 大島宅を出た後、登はその足で世話になった沢木半平を訪ねた。既に日も傾き始めていたが、今夜は夜通し歩くつもりで出立の挨拶をする。


 世話になった礼だけを告げ、仔細を語ることは避けたのだが、十ほど年嵩の半平はすべて心得た様子で「承知しました」とうなずくだけだった。恐らく半平も土方の噂をとっくに耳にしており、大島と共にそれが登に届かぬよう画策してくれた一人だったのだろう。


 半平は下手に引き留めることはせず、ただ「道中、何卒お気をつけて」と、目尻の皺を深めて言った。


 登は最後にもう一度、深く頭を下げ、借りていた離れへ身を下げた。


 元々登の持ち物など、二、三枚の着物と刀だけだ。普段は着けない袴を履き、旅支度はあっという間に終わった。


 土間で草鞋を結んでいると、不意にザリと下駄が小砂利を踏みしめる音が耳に届く。


 わずかに視線だけを上げれば、華奢な足首と淡い市松の小袖の裾が見えた。


 登は薄く口元をゆるめ、草鞋を結び終えてからゆったり顔を上げた。


 ヨネは土間の出入り口に立ったまま、花びらのような唇をきつく引き結んで、俯いていた。伏せられた大きな目には、今にも溢れ出しそうな水の膜が張っている。


「おヨネちゃん。長い間、世話になったね」


 登は敢えて明るく声をかけ、いつもの調子で編み込み結んだままだった深緋の組紐を解いた。背に広がった髪が邪魔だったが、とっくに髷など不要とされている今の時代、ただ結ぶだけなら代わりはいくらでもある。


「これは返すよ。ありがとう」


 差し出しつつ、上がり框から腰を上げようとした瞬間、それまで動かなかったヨネが飛ぶように駆け寄って、登の肩をぐっと押した。大して強い力ではなかったが、半端な体勢だった登はそのまま圧され、再び座る格好になってしまう。


「おヨネちゃん?」

「わたしの代わりに、組紐それをお供させてください。他には何も望みませんから」


 目にはすぐにも溢れそうな水膜が張っているのに、声は気丈で、しっかりしていた。


「何も?」


 登が首をかしげて訊き返せば、ヨネはうなずいて、登の手にあった組紐を取る。そうして正面に立ったまま、登の髪を丁寧に結い直し始めた。華奢な指先が癖のない髪を梳き、すくう度、そこから響くくすぐったさが頭から首、首から胸にと伝って下りてくる。


 しばらくして、ヨネの指が止まった。いつものような「終わりましたよ!」という明るい合図はなかったが、代わりにぽたり、膝に置いていた登の手に雫がひとつ降ってくる。


「おヨネちゃん――……」


 顔を上げると、ふっと目の前に影が差し、登の唇にやわらかいものが触れた。


 軽く触れるだけのつたなさだったが、登は避けることなく受け止める。と、焚き染めた香のような、淡い香りが鼻腔をかすめた。


「……甘い匂いだなあ」


 唇が離れ、妙な夢心地に苦笑して呟く。


「だって、先生。料理した魚は喜んで食べるけど、生臭いにおいはお嫌いでしょ」


 鼻をすすりながら、顔を真っ赤にしたヨネがか細い声で答えた。


 思わず登は、目を見開いた。


 ――魚屋を営む半平やヨネと接する時、態度に出したつもりはなかったのだが。


 潮風に生臭さが混じったような魚介のにおいを、登は確かに苦手に思っていた。どんなに無意識でも、それらのにおいは、相馬に妻子を殺された弁天台場を髣髴とさせたからだ。


 ああ、会いに来る度、身なりに気を遣っていたのは……本当に、登のためだったのか。


 今さらながらに気が付いて、腹の底から込み上げるような愛おしい熱が心の臓を炙る。登はたまらず、目の前にあった細い腰を引き寄せた。


「っ、せんせ――」発せられた驚きの声ごと小さな唇に噛み付き、吸い上げる。滲み出る甘さを取り込むように舌でなぞって、ヨネの呼吸を全部奪い取った。


 さんざ暴いて、ヨネどころか登自身の息もわずかに上がる頃になって、ようやく解放する。腰が砕けた様子のヨネを隣に座らせて、登は互いの吐息がまだ触れ合うほど近くにあるその火照った頬を、指先で優しく撫でた。


「すまない」小さく、ささめく。


 ぎゅっと、ヨネが苦しそうに顔を歪めた。


 それでも、登はその頬にもう一度だけ唇を寄せ、「すまなかった」と謝罪する。


「こんな卑怯な男のことは忘れて、幸せになりな」


 やわい頬に、次から次へ雫が流れ落ちる。


 登は美しいほどの水滴を拭うことはせず、ヨネから身を離し、立ち上がった。


「元気で」


 ひと言置いて、刀を取り、足を踏み出す。


 後ろでかすかな嗚咽が聞こえていたが、登は振り返らなかった。振り返らず、ぐっと息を詰めるように歩を進め――無心に、浜松を後にした。

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