第2話 秋風の色に溶ける声
王都の空には、秋の色が差し始めていた。
夏の熱はもう感じられず、風の中には金木犀の香りがほんのりと混じる。
石畳の上を行き交う人々の足取りは軽く、露店では焼き栗や果実酒の香ばしい香りが漂っていた。
王都南通りの並びの中に、静かに佇む一軒の道具店
―― 《 ミファリリシア道具店 》
木製の看板がやわらかな光を受け、扉の前に吊るされた小さなベルが風に揺れている。
扉を開けると、金属と木の香りが混ざる温かな空気が迎えてくれる。
店の奥では、栗色の髪の若い女性―― シアが、木箱を整理していた。
指先が紙の上をなぞり、シアは小さくつぶやく。
「保存食、少し減ってる。次の仕入れで補充かな」
その声には、店を守る日々の静かな責任感が滲んでいた。
ベルが鳴る。
「こんにちは、シアちゃん」
「いらっしゃいませ」
シアは棚に並んだ魔法道具を拭きながら、顔を上げた。
入ってきたのは、近所に住む仕立て屋の女性―― カリナさんだった。
針箱を抱えながら、にこやかに挨拶してくれる。
「やぁ、シアちゃん。今日もきれいにしてるねぇ」
「こんにちは、カリナさん。お仕事の帰りですか?」
「そうなの。魔法灯の芯と、糸の補充に来たのと……ちょっと噂話を聞いたのよ」
「噂話?」
「このお店の名前の由来よ。ほら、『ミファリリシア道具店』って、娘さんの名前から取ったって話」
「あぁ……それ、よく言われます」
外の光が、店の扉に淡く金色の縁を描いた。
「やっぱり本当なのね。いい話じゃない。ご両親が、あなたが生まれて名前を付けた時、嬉しくて店名まで変えちゃったんでしょ?」
「はい……。嬉しくないわけじゃないんですけど、なんだか恥ずかしくて」
「ふふ、照れちゃって可愛いわね。でも、街の人はみんな知ってるわよ。『シアちゃんの店』って」
シアの頬がふわりと紅くなる。
「もう。カリナさんまで」
「ごめんごめん。でも、いい名前だと思うよ。響きが柔らかくて」
「ありがとうございます。両親も喜ぶと思います」
「そうそう。そういえば東門の方、またモンスターの話が出てたわよ」
「えっ、またですか?」
「うん。畑を荒らす獣が出たって」
「王都も油断できませんね……」
シアは東の空を見た。
「まったくだよ。じゃ、魔法灯の芯2本と、糸を2巻きもらうね」
「はい、ありがとうございます。またお店に来てくださいね」
「もちろん。また寄るわ」
ベルが軽やかに鳴り、扉が閉まる。
外の風が一瞬だけ店の中を通り抜けた。
静寂が戻ったのも束の間。再びベルが鳴り、低く落ち着いた声が響いた。
「いらっしゃいませ……あ、オルディンさん」
「やあ、シア嬢。今日もいい風だな」
「ええ。すっかり秋らしくなってきましたね」
「そうだな。北の森も葉が落ち始めている。季節が変わるのは早いものだ」
背筋は真っすぐで、年齢を感じさせない。
その眼差しは鋭くも優しく、戦場を知る者の静けさを湛えていた。
「今日はどんなご用件ですか?」
「少し遠出をする。南の地方で、オークの群れの噂があってな。捜索と確認だ」
風の音にまぎれて、どこか遠くで荷馬車の軋む音がした。
「南ですか……ずいぶん遠いですね」
「そうだな。だから、戻るのにしばらくかかるだろう」
聞きながら、シアの指先がそっと重なり合った。
「それで、準備を」
「うむ。ここの品は信頼できる。少し多めに道具を頼みたいんだ」
シアがカウンターの端を撫でるように整える。
「ふふ、ありがとうございます。それで、どのような道具を?」
「携帯ポーションを六本、補助用の札を数枚。それと、魔法の探索用品を数セットと麻縄を二巻き。それくらいだ」
オルディンの指が机の端を軽く叩き、戦場の癖がのぞく。
「では、三日ほどで準備できます。錬成術士さんにも依頼しておきますね」
「ああ、構わん。信頼してる。お前の選ぶ道具は外れがない」
オルディンは言葉に出ない感謝を胸の奥で温めている。
棚の奥で揺れた瓶の影が、一瞬だけ長く伸びた。
「……恐縮です。嬉しいです」
「ふっ、そんな顔をするな。褒めたつもりなんだが」
「だって、素直に褒められると照れますから」
二人で笑う。その笑い声が、木の壁に柔らかく響く。
外の風が、吊るされたドライハーブを揺らした。
少しの沈黙のあと、シアはハーブティーを注いだ。
安らぎを感じてほしくて、湯気の立つ杯をそっと差し出す。
「ハーブティー、どうぞ。秋の薬草を入れてみました」
差し出したされたハーブティーを受け取りながら、オルディンが外套を少しゆるめる。
「ほう……香りが良いな」
「今年の南の丘で採れたものです。風邪にいいって聞きました」
「ありがたい。―― ふむ、確かに飲みやすい」
「最近、夜は冷えますからね」
石畳を歩く人の声が遠くやわらかく届く。
「そうだな。焚き火をするにはいい季節だ」
「王都の外で焚き火なんて、ロマンがありますね」
シアは胸の奥がほっと緩む安堵を感じた。
店の外で子どもたちの笑い声が澄んで響いた。
「ロマンか。俺のは、だいたい戦いの前の火だがな」
「そんな言い方しないでください」
「はは、冗談だ」
オルディンは、カップをそっと置く。
微笑みながら窓の外を見た。
「……オルディンさん」
「ん?」
「初めてお店に来られたときのこと、覚えてますか?」
ハーブティーの湯気が、細い糸のようにゆっくり天井へ昇っていった。
シアの胸の中で、あの日の記憶が静かに息を吹き返した。
私の脳裏に情景がゆっくりと浮かび上がる。
―― 1年半前。
冬が名残を惜しむように、王都の屋根に最後の雪を留めていた頃。
朝の空気は冷たく澄み、吐く息が白く漂った。
石畳の隙間に凍った水が光り、路地を抜ける風が、まだ冬の匂いを運んでくる。
それでも、季節は確実に変わろうとしていた。
市場では小さな蕾をつけた枝が並び、子どもたちが春色の布を振り回して走っていた。
店の看板の上には、冬鳥が一羽、羽を休めていた。
扉の隙間からは、薪を焚く匂いと、微かに甘いハーブの香りが漂う。
まだ寒さが残る季節。
いつものように店の中で、布を手に取って瓶の埃を拭いていた。
窓の外では、光がゆらゆらと踊り、薬草の影が木の壁に模様を描いている。
店の中は静かで、薪のぱちぱちという音が唯一の響きだった。
お湯の入ったポットからは白い湯気が立ち、手を温めるようにカップを包んでいた。
「……春が来たら、今年も賑やかになるかな」
そんな独り言をこぼした瞬間、扉のベルが「からん」と鳴った。
冷たい空気が一気に流れ込み、私は思わず肩をすくめた。
ゆっくりと扉が開き、ひとりの男性が現れた。
高い背、厚手の外套、そして短く整えられた灰色の髪。
手には武器の類はなく、ただひとつ、古びた革の鞄だけを提げていた。
彼の歩みは重く、足音が木の床を静かに叩いた。
その瞬間、店の空気が変わったように感じた。
まるで風そのものが止まったかのように、空気が静まり返る。
「……蒼印の護符を置いていると聞いたんだが」
低く、しかし落ち着いた声。怒っているわけではないのに、どこか張り詰めた響きをしていた。
「え、あ……はい。ただ、少し値は張ります」
声が少し震えていたのを覚えている。
「構わん。安物を持つよりは、確実なほうがいい」
戸棚の上段から青白い光を帯びた小札を取り出す。
札面に刻まれた銀線が淡く脈打ち、空気をわずかに冷やした。
彼は頷き、一歩ずつ近づきながら蒼印の護符を見定めた。
その動作は静かで、丁寧で、しかし無駄のない所作だった。
近くで見た彼の顔は、厳しかった。
額には深い皺があり、目元は鋭く、まるで長い年月を戦いの中で過ごしてきたような陰を帯びていた。
その表情を見て思った。
―― 威圧される。話しかけづらい。
けれど、それは不思議と、嫌な怖さではなかった。
彼の背にある静かな哀しみのようなものが、私の胸の奥に残った。
「……本物か。線の揺らぎがない」
彼は指先で札の縁をなぞり、目を細めた。
「王都以外じゃ、こうはいかん」
その声音に、長年戦場を歩いた者の静かな確信があった。
「これをひとつ、もらおう」
「は、はい。ありがとうございます」
彼は金を置き、軽く会釈して店を出ていった。
それが、私とオルディンさんの最初の会話だった。
扉のベルが再び鳴り、冬の風が入ってきた。
その音を聞きながら、しばらく動けなかった。
それが―― オルディンさんとの最初の出会いだった。
その後、何度かオルディンさんは店を訪れた。
最初は必要な道具だけを無言で選び、会話も短く、すぐに帰ってしまった。
けれど、ある日、差し出した道具を受け取る時、オルディンさんがぽつりと言った。
「……ここの品は、使いやすいな」
「え?」
「無駄がなく、丁寧に作られている」
その一言で、胸の中の氷が少し溶けた気がした。
それから少しずつ、言葉が増えていった。
「王都の市場は賑やかだな」
「風の匂いが変わった」
そんな何気ない一言を交わすようになった。
それがいつしか習慣となり、気づけば、店の常連になっていた。
今でもあのときのことを鮮明に覚えている。
私は、静かに息を吐く。
―― そして今、秋の光の中で。
彼の声は、あの冬の日と変わらない静けさを湛えていた。
私は、目の前で不思議そうな顔をしている彼を見つめながら、少し笑った。
「はい。あの時、すごく怖かったんですよ」
「怖かった?」
「ええ。顔が険しくて、声も低くて。まるで怒ってるのかと思いました」
シアは、指先で薬瓶の肩を軽く整える。
「はは。そう見えたか」
「ええ。まだ冬の名残があって、外は寒くて。厚い外套を着て、近寄りがたくて」
飲みかけのハーブティーから湯気が細く立ちのぼる。
「……そうか。あの頃は、戦場の癖が抜けていなかったな」
「でも、話してみたら全然違いました。物静かで、落ち着いてて。気づけば、何度も来てくださる常連さんに」
吊るしてある薬草が、乾いた香りをほのかに広げた。
シアは、何かを思い出したように頬がゆるむ。
「そうだな。気づけば、この店の灯りが落ち着く場所になっていた」
「嬉しいです。そう言ってもらえるのが、一番の励みです」
オルディンは笑った。その声は、今も静かで落ち着いている。
ハーブの香りが漂い、陽が傾いていく。
「東門の方は、どうですか? モンスターが畑を荒らしたと聞きいたのですが……」
「小さな群れらしい。討伐隊がうまく動いている」
シアの整えた瓶列が、まるで息を潜めるように静かに並んでいた。
シアは髪の毛を耳の後ろにそっとかける。
「よかった。王都の外が静かになれば、街の空気まで柔らかくなる気がします」
「人は、知らないうちに外の気配を感じ取っているからな。緊張が抜けると、笑い声も増える」
「オルディンさんは、その変化、やっぱりわかるんですか?」
杯の底を見て、オルディンが小さく頷く。
「戦の匂いが薄れると、風の音がよく聞こえる。……それだけでも、十分だ」
「なんだか、いいですね。その言い方」
「歳を取ると、そういうものにしか価値を見いだせなくなるのかもしれん」
シアは胸元で小さく息を吸う。
「いえ、きっと贅沢な価値観ですよ。風の音をちゃんと聞けるなんて」
「そう言われると、少し救われるな」
その言葉に、私は少し黙った。
彼の声には穏やかさの裏に、深い影が混ざっている気がした。
「……オルディンさん」
「なんだ?」
木のカウンターに落ちた光が、ゆるやかに形を変えていた。
シアのまつ毛がふるりと揺れる。
「気をつけてくださいね。南の地方って、オーク以外にも危険な魔獣が出るって聞きました」
「大丈夫だ。無理はしない」
「本当ですか?」
シアの声が、戦い慣れた心を少しだけ柔らかくする。
「本当だ。シア嬢に心配されると、守らなきゃと思ってしまう」
「ふふ、それなら安心です」
オルディンが立ち上がり、鞄を持ち直す。
その手は、戦士らしく硬く、だが穏やかだった。
「三日後に取りに来る。いつものように頼む」
「はい、必ず良い品を揃えます」
小さなため息を吸い込み、笑顔に変えて送り出した。
ベルが鳴り、外気が流れ込む。
その風には、どこか懐かしい香りが混じっていた。
シアはカウンターの上を整えながら、静かに微笑む。
―― 今日もまた、変わらぬ日常が過ぎていく。
店内の灯が、ゆらりと揺れた。
その穏やかさの中に、かすかに秋の余韻と―― 灯のように優しい温もりが残っていた。
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