第十一話:叡智の森のイレギュラー
【WARNING! WARNING!】
甲高い電子の悲鳴が、荘厳な静寂の聖域を引き裂いた。
粉砕された強化ガラスの破片が、まるでスローモーションのように宙を舞う。そこから飛び込んできたのは、一体の異形だった。
犬の骨格を持ちながら、その全身は黒曜石のような禍々しい光沢を放つ甲殻に覆われている。
瞳があったであろう場所には、無機質な単眼レンズが埋め込まれ、単眼レンズがぎらりと赤く瞬くように光っていた。
「警告。外部より、システムを介さない物理的侵入者を検知」
ミロクの端末は、表情一つ変えずに淡々と告げる。
「対象はメタキメラ。脅威度ランクはC。名称は『リジェネレーター』。元は誰かのエーテルギアだった個体と推測されます。特徴は、高い自己修復能力です」
「チッ、厄介なのが出やがったな!」
歴戦の勇士の瞳が、侵入者を鋭く射抜く。
「二人とも、俺から離れるな。そしてよく見ておけ。これが実戦だ」
そう言うと、響は腕に装着したゴツい腕時計型の『ギアバイザー』の側面にあるボタンを押し込んだ。
彼の視界にだけ、半透明の操作ウィンドウ――『デプロイメント・インターフェース』がARのように投影される。
「エリア・デプロイメントを展開する。驚くなよ」
「エリア……デプロイメント?」
悠真が問い返すよりも早く、世界が揺らいだ。
足元の床から、壁の本棚から、そして天窓から降り注ぐ光から、まるで陽炎のようなノイズが走り、空間全体が青白い光のデータに包まれては再構築されていく。
ほんの数秒の出来事。
気づけば、周囲の光景は先ほどと何一つ変わっていなかった。ただ一つ、割れたはずのガラス窓が元通りになっていることを除いては。
「ここは、現実世界を完全にコピーした鏡像空間だ。メタキメラを感知すると、ギアバイザーを通してこの空間を展開できる。この中での破壊は現実には一切影響しない。だから、遠慮なく叩き込めるってわけだ」
響はニヤリと口角を上げると、インターフェース上で自身の『コネクターカード』に、ガントレットの絵柄が描かれた『ギア・ライセンス』を重ね合わせた。
「――ギア・リベレイション!」
承認の掛け声と共に、響の右腕が眩い紫電に包まれる。
光が収束した時、そこには黒曜石の艶を持つ、禍々しくも美しいガントレットが装着されていた。
手の甲では、紫水晶のコアが脈動するように明滅している。
武装型エーテルギア、『
「グルルルァァッ!」
リジェネレーターが金切り声のような咆哮を響かせ、床を蹴った。
黒い弾丸と化したその突進は、並の人間であれば反応すらできずに引き裂かれるであろう速度だ。
しかし――。
「遅い!」
響はそれを紙一重でいなすと、リジェネレーターの脇腹に深々と拳を叩き込んだ。
凄まじい衝撃音が響き渡り、メタキメラの体がくの字に折れ曲がって吹き飛ぶ。
だが、リジェネレーターは壁に激突する寸前で体勢を立て直すと、何事もなかったかのように四肢で着地した。
先ほど叩き込まれたはずの脇腹の甲殻には、傷一つない。
「……なるほどな。速い上に、タフか」
響が舌打ちをした。
その瞬間だった――。
「先生、私も!」
凛とした声と共に、氷華が悠真の前に躍り出た。
彼女は迷いなくギアバイザーを操作し、白狐のカードを呼び出す。
「ギア・リベレイション!」
蒼氷色の光の中から、気高く美しい純白の子狐――『
「悠真は下がっていてください。あなたは、私が守ります」
氷華は振り返り、強く、しかしどこか不安げな瞳で悠真を見つめる。
悠真は何も言わず、ただこくりと頷いた。
そして、自分の手のひらの上に、小さな相棒『ピリカ』を実体化させる。
(戦闘力ゼロの俺にできることは、一つだけだ。この状況を、敵の能力を、そして味方の動きを、誰よりも正確に分析すること)
眠たげな藍色の瞳の奥に、静かな闘志の光が宿った。
「白妙、行きます!」
氷華は決意を固めると、息を吸い込み、その唇が起動の言霊を紡いだ。
「――
その言葉をトリガーに、白妙が甲高い鳴き声を上げる。
その体は瞬く間に吹雪を模した光の奔流へと変わり、蒼氷色の嵐が氷華の体を包み込んだ。
光が晴れた時、そこに立っていたのは、巫女装束をベースとした白と水色の戦闘服を纏う、気高き『巫女武者』だった。
「ほう……」
響が感嘆の声を漏らす。
氷華は腰に携えた白銀の鞘から刀を抜き放つと、リジェネレーターへと肉薄した。
響と氷華、二人の戦士が、自己修復能力を持つ獣を挟み撃ちにする。
「ソニックロア!」
響のガントレットから放たれた不可視の衝撃波が、リジェネレーターの体勢をわずかに崩す。
その一瞬の隙を、氷華は見逃さない。
「はぁっ!」
鋭い気合と共に放たれた氷の刃が、リジェネレーターの右前足を斬り飛ばした。
しかし、勝利を確信する間もなく、斬り飛ばされた足は黒い粒子となって霧散し、その断面から新たな足が瞬時に再生する。
「なっ……!?」
氷華の驚愕は、致命的な隙となった。
体勢を立て直したリジェネレーターが、その鋭い爪で氷華に迫る。
「させるか!」
響がすかさずカバーに入り、リジェネレーターを殴り飛ばす。
しかし、動きは徐々に速さと鋭さを増していく。このままではジリ貧だ。
「氷華! 奴が再生する瞬間を狙え! 再生にはエネルギーを使うはずだ! その瞬間だけ、コアの防御が手薄になる!」
その声は、絶望的な戦況を切り裂く、一本の鋭い光のようだった。
声の主は、悠真。
彼はピリカを肩に乗せ、戦場全体を俯瞰するように静かに見つめていた。
「無茶を言うな! 再生の瞬間なぞ、コンマ数秒あるかないかだぞ!」
響が叫び返す。
だが、悠真は冷静に言葉を続けた。
「響先生は奴の左側面を攻撃。三秒後、奴はカウンターで右に跳躍する。氷華はその着地地点に、最大の攻撃を叩き込め!」
それはもはや指示ではなく、未来を告げる「預言」だった。
響も氷華も、一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべる。だが、悠真の藍色の瞳に宿る絶対の確信を見て、二人は覚悟を決めた。
「……面白い! 乗ってやるぜ!」
響が吼え、悠真の言葉通りにリジェネレーターの左側面へと突っ込む。
メタキメラは予言通り、その攻撃をいなして右へと跳躍した。
その先には――氷の刃を構えた氷華が、待ち構えていた。
「――
白銀の閃光が、リジェネレーターの胴体を両断する。
甲高い悲鳴と共に、メタキメラの上半身と下半身が無残に切り離され、再生もされない。
今度こそ、終わった。誰もがそう確信した――その瞬間だった。
最後の力を振り絞り、上半身だけになったリジェネレーターが、床を滑るようにして――悠真へと襲いかかったのだ。
「しまっ……!」
不意を突かれ、反応が遅れる。
死を覚悟した悠真だったが、間一髪で体を捻り、致命傷だけは避けることに成功した。
だが、鋭い牙が彼の左腕を深く引き裂き、鮮血が宙を舞った。
「あ……」
その赤い色を見た瞬間、氷華の世界から音が消えた。
彼女の蒼氷色の瞳から、すっと感情が抜け落ちる。
「……よくも、悠真を――」
絶対零度の声が、戦場に響き渡る。
彼女の体から放たれた凄まじい冷気が、リジェネレーターを、床を、壁を、一瞬にして凍てつかせた。
「許しません!」
氷の彫像と化したリジェネレーターに、氷華は無慈悲な刃を振り下ろす。
一度、二度、三度――。
やがて、メタキメラは断末魔を上げる間もなく、粉々のかけらとなって砕け散った。
そして、氷華はすぐに悠真のもとへ駆け寄ると、震える手で彼の腕を取った。
「悠真! しっかりしてください! 今すぐ手当を……!」
悠真は、氷華が応急処置をしてくれるのを受けながら、砕け散ったリジェネレーターを眺めていると。
「――核ごと破壊したため、ドロップアイテムは確認できません」
ミロクの端末の無機質な声が響く。
その言葉通り、リジェネレーターの残骸からは、何も残っていなかった。
だが、その時。
「ピィ?」
悠真の肩に乗っていたピリカが、ふわりと飛び立った。
そして、バラバラになった核の破片を、小さなくちばしでこつこつとつつき始める。
すると、バラバラになった核の破片から、一枚のカードが淡い光と共にせり上がってきたのだ。
【スピード・ハイパー】
「アーツ・プラグイン……だと?」
響が目を見張る。
ピリカは嬉しそうにそのカードをくちばしでつついた。
次の瞬間、カードは眩い光の粒子となってピリカの体に吸い込まれていく。
ピリカの全身が光に包まれ――光が収まった時、その翼と長い尾にあった美しい虹色の模様が、鮮やかなエメラルドグリーンへと変化していた。
その様子を見ていたミロクの端末が、初めてわずかに目を見開き、そして告げた。
「……能力の吸収を確認。このタイプのエーテルギアは、私のデータベースに一件だけ記録があります。二百年前の英雄――『救世主』が使役したものと同タイプです」
その言葉に、誰もが息を呑む。
響は険しい顔で悠真に向き直った。
「典堂。そのアーツ・プラグインについては、後で詳しく説明する。それまで、絶対に使うな。いいな」
静寂の聖域で起きた、イレギュラーな戦い。
それは、少年が自らの運命の、ほんの入り口に立ったに過ぎないことを示していた。
――――――――――
近況ノートにエーテルギアカードのイメージを掲載いたしました。
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