第八話:白狐と少女
あの忌まわしい訓練が終わった、その夜。
金沢領内でも屈指の名家・
夕食の席で、
しかし、ベッドに横たわっても心は安らがない。
まぶたを閉じれば、あの光景がまざまざと蘇る。
炎をまとった巨大な虎――
時間がスローモーションのように流れ、悠真の驚愕した表情、そして自分の喉から
耳の奥では、いまだに紅蓮の咆哮がこだまのように反響している。
気持ちを抑えきれず、氷華はベッドから飛び起きた。
クローゼットから道着をつかみ取り、逃げるように部屋を飛び出す。
向かった先は、母屋から渡り廊下でつながる一棟の道場だった。
板張りの床のひやりとした感触が、裸足の足裏に心地よい。
道場の中央に立ち、壁際に立てかけられていた木刀を手に取る。手にずしりと伝わる重みが、わずかに心を落ち着かせた。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
呼吸を整えると、氷華は無言で素振りを始めた。
ヒュッ、と空を裂く音だけが、静まり返った空間に鋭く響く。
何度も、何度も、無心に木刀を振る。
汗が滲み、息が荒れ、思考が押し出されていく。
ただひたすらに、体を動かし続けた。
――だが。
ふと、脳裏をかすめた最悪の可能性。
『もし、響先生の介入があと少しでも遅れていたら?』
『もし、自分の氷壁が間に合っていなかったら?』
ぞくり、と背筋を冷たい悪寒が走る。
その瞬間、握りしめていた木刀から力が抜けた。
カランッ。
乾いた音を立てて、木刀が床を転がる。
糸が切れた人形のように、氷華はその場に崩れ落ちた。
完璧な白神家の跡取りとしての仮面が音を立てて崩れ落ち、そこに残ったのは、ただ無力感に苛まれるひとりの少女だった。
「……っ!」
抑えようとしても、指先の震えが止まらない。
――そのときだった。
ふわりと、肩に何か温かいものが触れた。
驚いて顔を上げると、道場の隅からついてきていた相棒が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
月明かりに照らされて、真っ白な毛並みがきらきらと輝く。
つぶらな水色の瞳には、主の心の揺らぎが映っていた。
「
かすれた声で名を呼ぶと、白妙は「くぅん」と悲しげに鳴き、氷華の頬にそっと舌を這わせた。
ざらりとした舌の感触と、確かな温もり。
そのぬくもりが、氷華の心を張り詰めていたダムを、音もなく決壊させた。
「……ごめ……なさい……」
ぽつりと落ちたその言葉とともに、大粒の涙が頬を伝う。
「ごめんなさい……! 私がもっと強ければ、悠真を……あんな目に遭わせずに済んだのに……!」
一度あふれ出した嗚咽は、もう止められなかった。
相棒の前で初めて見せる、少女としての弱さ。
氷華はただ、子供のように泣きじゃくる。
白妙は何も言わず、黙って主の涙を舐めとり続けた。
その仕草は、どんな慰めの言葉よりも雄弁に、氷華の心を癒していく。
――脳裏に浮かぶのは、八年前の記憶。
吹雪の中、メタキメラに襲われた自分を、小さな背中でかばってくれた幼い悠真の姿。
あのときも、私は何もできなかった。
そして、今日も――結局、変わっていない。
自分の無力さに、唇を血がにじむほど噛みしめる。
――違う。
――変えるんだ。
――私が、変わらなければ。
恐怖も、後悔も、すべて力に変える。
濡れた瞳のまま、氷華は顔を上げた。
その瞳には、もはや怯えはなく、鋼のような決意が宿っていた。
「白妙、付き合って」
声はまだかすかに震えていたが、その奥には揺るぎない覚悟があった。
「――
詠唱に応え、白妙が一声高く鳴く。
その体を中心に、凍てつく吹雪が道場を包み込んだ。
白妙の姿が霧のように消え、無数の氷の結晶となって氷華に降り注ぐ。
光の奔流が全身を包み、装いを再構築していく。
千早を思わせる純白の上衣に、澄んだ空のような色の袴。
腰には氷でできた一振りの刀。頭にはキツネ耳のついたフード、腰には白妙を彷彿とさせるふさふさの尾。
――戦場の巫女が、そこに立っていた。
氷華がすっと床に指先を触れると、道場の板張りが一瞬にして白銀の氷原へと姿を変える。
腰に差した氷の剣を、静かに抜いた。
今日、訓練場で無我夢中に生み出した氷壁。
それは、白妙との絆から生まれた咄嗟の防御だった。
白妙を実体化できるようになってから、両親とともに繰り返し練習してきた技。
練習していなければ、と思うと背筋が冷える。
――けれど、それだけでは足りない。
守るだけでは、大切な人は守りきれない。
脅かす牙そのものを砕く刃がなければ。
あのとき、無意識に手にした氷の剣を、今度は意志をもって制御する。
氷華は、自分自身との戦いを始めた。
鋭い剣閃が空を裂き、足を踏み込むたび、氷の床が軋む。
美しい氷の華が咲いては散り、散っては咲く。
その舞は祈りであり、誓いだった――
悠真を守り抜くという、氷華の決意の証。
「……もう二度と、あんな思いはしない」
その小さな呟きは、夜の闇に溶けていった。
「今度は私が、悠真の盾になる!」
その決意に応えるように、白妙の力が奔流となって氷華の体に流れ込む。
氷の剣が雄叫びを上げるように唸り、道場内に幻想的な吹雪を巻き起こした。
◇ ◇ ◇
どれほどの時が流れただろうか。
東の窓が白み始め、道場に朝の光が差し込む頃、氷華はついに膝をついた。
全身は汗で濡れ、息は荒く、体力は限界を迎えていた。
けれど、その顔には一片の曇りもない。
神衣を解くと、白妙がぽん、と元の姿に戻り、疲れ果てた主の隣にちょこんと座った。
氷華はその頭を優しく撫でる。
「ありがとう、白妙。あなたのおかげで、目が覚めたわ」
柔らかな毛並みの感触を確かめるように手をすべらせながら、氷華は穏やかに微笑んだ。
――事件の夜を越えて、少女はまた一歩、強くなった。
大切な人を守るための、本当の強さを、その胸に刻んで。
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