Re:Feather 外伝短編集 ~魔物娘たちの知られざる日々~

白井黒也

そのリザードマンは強さを知らない

私は誇り高き戦士の血を継ぐ、リザードマンの魔物娘のライアだ。


リザードマンと言えば、昔は沼地に根を張り、全身が鱗に覆われ、まさに“トカゲそのもの”だったらしい。


力こそ価値。戦いこそ誇り。

そういう種族だったと、物心つく前から聞かされてきた。


けれど時代は変わった。


魔王が代替わりしてからというもの、リザードマンは全員が女となり、姿も人間に近い“魔物娘”の形へと変容した。


もちろん今でも沼地に住む者達はいる。

誇りを守り、伝統を貫き、古き戦士の在り方を続けている同族も少なくない。


けれど時代が変われば、生き方も変わる。

人間と恋に落ち、手を取り合い、人里へ移り住む者も現れた。


私の母も、その一人だ。


◇ ◇ ◇


母は、生まれた土地は沼地であり、生き方も昔のリザードマンそのものだった。


厳格。容赦なし。強さこそ誇り。

物心ついた頃には、私はもう木剣を握らされていた。


「戦士に休みはない。立て、ライア」


幼い私には、その言葉が怖かった。

木剣は重く、足は震え、何度倒れても母は立たせた。


泣きそうになっても、手加減は一度もなかった。


正直――訓練中の母は嫌いだった。


いや、嫌いだと思い込もうとしていた。

そうでもしないと、胸の奥が折れてしまいそうだったからだ。


けれど訓練が終わると、家の中にはいつも優しい匂いがした。


台所から漂う、甘い焼き菓子の匂い。

父が、ぶきっちょな手つきで作ったお菓子を嬉しそうに皿に並べている。


「ほらライア、頑張ったご褒美だ」


母は腕を組んでそっぽを向く。


「甘やかすな。戦士は己を律してこそだ」


口ではそう言うくせに、父に押し切られると、ほんの少しだけ口元がゆるむ。


その瞬間の母を見るのが、私は好きだった。


怖くて、厳しくて、近寄りがたいはずなのに。

あの笑みだけは、なぜか胸が温かくなる。


甘い菓子をほおばりながら、父に頭を撫でられながら、私は小さく息をついた。


「……強くなりたい」


それが、幼い私の最初の願いだった。


そして、その訓練場の端には、いつも一人の少女がいた。


同い年くらい。

小柄で、静かで大きな一つ目だけが、じっとこちらを見ていた。


動かない。声も出さない。

助けるでも、笑うでもなく、ただ見ているだけ。


最初は気味が悪いと思った。

けれど不思議と、視線を向けられると背筋が伸びた。


彼女の名は、エルザ。

サイクロプスの魔物娘で、近所で鍛冶屋を営む家の娘だと後で知った。


訓練が終わったある日、母がふと空を見上げながら言った。


「――いつかあの子に、剣を打ってもらうことになるだろう」


唐突な言葉だった。

私は思わず、汗だらけの手を握りしめた。


エルザはまだ小さく、鍛冶屋の槌より大きな荷物も持てないような少女だったのに。


母は続ける。


「戦士には、己の刃を託せる相手が必要だ。あの子は…折れん目をしている」


その時は意味がよく分からなかった。

けれど、エルザの動かない視線だけが胸に残った。


言葉もなく。距離も近づかず。

ただそこに在り続けた。


あれが――私とエルザの、最初の関係だった。


◇ ◇ ◇


ある日の訓練が終わった後、母は背を向けて家へ戻っていった。


「休むなよ。戦士はそこで止まったら終わりだ」


それだけ言い残して。


正直、膝はもう笑っていた。

腕も痛いし、喉は焼けるみたいに乾いている。

でも――やめたくなかった。


母に言われたからじゃない。

自分で決めたかったのだ。

“強くなりたい”って。


夕暮れの土の上に、木剣を振る音だけが響く。

何度も足がもつれ、倒れ込みそうになりながら、それでも立ち上がる。


ふと視線を横に向けた。


――いた。


訓練場の端。いつもの場所に、いつものように、無言で立つ少女。

大きな一つ目が、まっすぐこっちを見ている。


今日も喋らない。笑わない。

ただ――見ている。


胸がざわついた。


(なんなんだ、あいつ。ずっと……)


気づけば足が勝手に前へ進んでいた。

汗で湿った手で木剣を握りしめたまま、私は彼女に向き合う。


「…なぁ。ずっと見てるけど――何が楽しいんだ?」


自分でも驚くくらい、声が震えていた。

少女は瞬きもせず、ただ立っていた。

風が草を揺らす音だけが耳に残る。


長い沈黙。


やがて、小さな唇がかすかに動いた。


「……強い」


たった、それだけ。

思わず眉を寄せる。


「強くなんか、ない。全然だ」


少女は小さく首を横に振った。


「……立つ。何度も」


その言葉が痛いほど胸に刺さった。

私は、黙って立ち尽くしていた。


彼女は、私を笑っていたわけじゃなかった。

傷つく姿でも、倒れる姿でもなく、“立ち上がる姿”を見ていたのだ。


呼吸が少しだけ楽になった気がした。


「……お前、名前は?」


「…エルザ」


それだけ言うと、また黙り込む。


けれど、もう十分だった。


夕暮れの土の匂いと、汗の味と、たった一言の会話。

それが、私とエルザの“最初の一歩”だった。


◇ ◇ ◇


それからだ。

訓練が終わるたび、私は自然とエルザの方へ足が向くようになった。


別に仲良しになったわけじゃない。

手を振るでもなく、笑い合うでもない。


ただ――話す。


ほんの数言。

短くて、ぎこちなくて、会話と呼べるかどうかも怪しい。


「木剣、重い?」


「重いに決まってる」


翌日。


「つらい?」


「つらくても立つんだよ」


また別の日。


「お母さん、強い?」


「強すぎて手も足も出ないさ」


そんなやりとりが、いつの間にか日課になっていた。


不思議なことに、訓練の苦しさは変わらないのに、胸の重さだけは少しずつ軽くなっていった。

倒れても、泣きたい日があっても、夕暮れの端に立つエルザを見ると、背筋が伸びた。


あの一つ目は相変わらず無表情で、何を考えているのか全然わからない。


でも。


「……立つ。何度も」


最初に言われた言葉だけが、ずっと胸の奥で灯り続けていた。


だから私は木剣を握る。エルザは黙って見ている。

それだけで、十分だった。


◇ ◇ ◇


訓練が続いたある日。

私は珍しく、一本も倒れなかった。


膝は震えていたけれど――倒れなかった。


母が家に戻り、夕暮れが地面を赤く染める頃。

私はいつものように、端に立つエルザの方へ歩いた。


「今日は…倒れなかったぞ」


いつもより少しだけ胸を張って言う。

エルザはじっと私を見つめ、やがてほんのわずかに首をかしげた。


「……痛い?」


「痛いに決まってるだろ。全身バキバキだ」


エルザは一瞬だけ目を瞬かせ、口元が、かすかに上がった。


笑った。

本当に、気づかなければ見落とすほどの、小さな、小さな笑み。


胸がぐっと熱くなる。


「…お前、今笑ったか?」


思わず身を乗り出すと、エルザは小さく視線をそらした。


「…少し」


その答えが可笑しくて、私は鼻で笑った。


「なら、もっと笑わせてやるよ。次は倒れずに走ってみせる」


「…期待する」


その言葉は無表情よりずっと温かくて、どんな褒め言葉よりも胸に沁みた。


その日からだ。

訓練で倒れても、母に叱られても、立ち上がる理由がひとつ増えたのは。


エルザを笑わせたい。

それはまだ幼くて、拙くて、理由にもならない理由だったけれど。

間違いなく、私の力になっていた。


◇ ◇ ◇


その日も、いつものように訓練は終わった。


息は荒く、腕は重い。でも、足は自然と訓練場の端へ向かう。


そこにいつものようにエルザがいた。


「今日は…二回だけ倒れた」


言ってみせると、エルザは小さく頷く。


それだけのやり取り。

いつも通りのはずだった。


けれど、その時――ふと気づいた。


エルザの手。


青い肌に、ところどころ赤黒い跡が浮かんでいる。


火傷だ。


「…おい、それ、どうしたんだ?」


エルザは視線を落とし、黙り込む。


胸がざわついた。


(まさか…誰かにやられたのか?)


怒りとも不安ともつかない熱が込み上げる。


「誰かにやられたのか?言えよ。そいつ――」


エルザは首を横に振り、ぽつりと言う。


「…鍛冶。火が…強かった」


「お前、鍛冶やってるのか?」


エルザは小さく手を握りしめた。

火傷の跡がきゅっと引き寄せられる。


「…練習。うまく、できない」


悔しそうでもなく、泣きそうでもなく。

ただ真っすぐに、事実だけを口にしていた。


胸の奥が熱くなる。


(こいつも…戦ってるんだ)


火と鉄と、自分の不器用さと。

どれだけ痛くても、立ち止まっていない。


エルザはゆっくり顔を上げた。

その一つ目が、真正面から私を捉える。


「私も…強くなる。ライアと…一緒」


風の音が止まった気がした。


言葉は短い。声は小さい。

でも、その一言だけで十分だった。


私は息をのみ、小さく頷いた。


「…ああ。負けないぞ」


エルザもまた、ほんの僅かに頷いた。


剣と槌。戦士と鍛冶師。


まったく違う道を歩いているはずの二人が、同じ方向を見ていると、はっきりわかった。

それが、あの日の答えだった。


◇ ◇ ◇


あれから三年が過ぎた。


幼い腕で剣を支えるだけで精一杯だった私の身体は、

いつの間にかしなやかな筋肉を宿し、振り下ろすたびに足元の土が震えるほどになっていた。


母の稽古は相変わらず容赦がない。


斬撃は寸止めしない。

倒れれば立て、立てなければ這ってでも前へ進め。


そんな日々が当たり前になっていた。

だけど一つだけ変わらないものがある。


訓練場の端の古びた塀にエルザの姿があった。


彼女はこの三年で、背丈が私の肩に届くほどになり、細い腕には鍛冶でついた筋が浮かんでいる。

短かった髪は少し伸び、表情はまだ乏しいのにその佇まいはどこか、大人びて見えた。


「お疲れ様…」


その日の彼女はいつもと違っていた。

視線が泳いでいて、どこか“落ち着かない”ものに感じた。


「……エルザ?」


声をかけると、彼女は一つ目をそっと伏せ、なにかを決意するように深く息を吸った。

そして、彼女は無言で私に一本の剣を差し出してきた。


刃は歪み、鍔は傾き、輝きはない。

それでも、金属の表面には打ちつけられた跡がいくつも残り、

努力の音がそこに刻まれていた。


「……できた。初めて」


かすれるような声。


三年間、ただ見ていたと思っていた少女が――

その沈黙の裏で、ずっと鍛冶場に向き合っていた証。


「……これを、私に?」


エルザは小さく、けれどはっきりと頷いた。


「…ライアが、剣を振るうから。だから…私も、“強く”なりたかった」


その言葉は、刃よりまっすぐだった。


私は両手で剣を受け取った。

重さが、三年という時間そのもののように腕に沈む。


素振りを一度。風が、小さく鳴った。

粗くても、拙くても――そこには命があった。


「……ありがとう。大事にする」


そう告げて別れた後、私は剣を抱えたまま家に戻った。

胸の奥が落ち着かず、歩幅が自然と早くなる。


家に入るや否や、母の元へ向かった。


「母さん。見てほしいものがある」


母は腕を組んだまま振り向き、私の手元に視線を落とす。

エルザが打った、初めての剣。


私は両手で丁寧に差し出した。


「エルザが…自分の手で打ったんだ」


母は無言で剣を受け取り、刃を光にかざす。

指で鍔を軽く弾き、柄の重心を確かめる。


長い沈黙。胸が締め付けられる。

やがて、母は静かに口を開いた。


「粗く、未熟。しかし…真っすぐだ」


その言葉は、刃より鋭く、けれど温かかった。


「これは――持つ者を鍛える剣だ。打った者の心が、そのまま宿っている」


私は思わず息を飲んだ。

母がこんなふうに評価するのを、ほとんど聞いたことがない。


誇り高き戦士である母は、技にも、覚悟にも、厳しい。


その母が――エルザの剣を認めた。

まるで自分が褒められたように、嬉しかった。


「そうか…すごいな、エルザ…!」


堪えきれず笑みがこぼれる。

母は私をちらりと見て、呆れたように、しかしどこか優しく息をついた。


「良い友を得たな、ライア」


◇ ◇ ◇


その夜――なぜだか、胸がざわついていた。


いつもなら、訓練の疲れで落ちるように眠れるはずだった。

身体は火照り、筋肉は悲鳴をあげているのに、眠りだけが遠く、指先から零れ落ちていくようだった。


寝返りを打っても、胸の重さは消えない。


まるで、何かが始まろうとしている気配だけが静かに耳の奥を叩いていた。


私は布団をそっとめくり、床に降り立つ。

夜の空気はひんやりとしていて、汗ばんだ肌をすっと冷ましていく。


家は深く眠っていた。


壁には油灯の微かな光が揺れ、廊下には静寂が満ちている。

足音さえ立てれば、この静けさが壊れてしまう気がして、私は息を潜めながら歩みを進めた。


そのとき、声が聞こえた。


低く抑えた声。

張りつめた弦のような緊張。

普段は滅多に聞かない、険しい気配。


足が止まり、胸が跳ねた。

父と母の声だ。


耳が自然とそちらへ向かう。

気づけば、私は両親の部屋の前に立っていた。


扉の隙間から、微かな光が漏れている。

中で灯りがついているのだろう。


私はごくりと喉を鳴らし、

ほんの少しだけ身を屈めて、耳を寄せた。


「ライアを旅に出すだって!?」


父の声が、震えていた。


怒りなのか、動揺なのか。

聞いたことのない響きだった。


「そうだ。ここにい続けても今以上に強くなれない」


母の声は冷静で、迷いがない。

刃物のように鋭く、真っ直ぐだった。


旅に――出す?


その言葉を耳にした途端、心臓が大きく脈打った。


息が浅くなる。

廊下の冷気が急に遠のき、血だけが熱く流れ始める。


「そんな!あの子はまだ若いんだよ!?」


父の声には焦りがにじんでいた。


「だからこそだ」


母の声は揺れなかった。

揺らぐ余地すらなかった。


「可愛い子には旅をさせよと、人間の言葉にもあるだろう?」


その言葉は淡々としているのに、

どこか突き放すような冷たさがあった。


父は言葉を詰まらせ、吐き出すように叫ぶ。


「君は…あの子が心配じゃないのかい!?」


部屋の空気さえ凍りつくような沈黙。


そして――


「今の弱いままで一生を過ごさせる方が心配だ」


その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


弱い?私が?


訓練を重ね、木剣を振り続け、汗と傷で誇りを磨いてきたつもりだった。


だけど母は見抜いていた。

ここで止まっている限り、私は“戦士”になりきれない、と。


強さは、打ち倒す力。倒されない力。


私はずっとそれだけを追いかけていた。

それだけが唯一の正しさだと思っていた。


でも、この家の中で、同じ敵と同じ風しか知らないままでは、強さは育たない。

母は初めから知っていたんだ。


世界の外に、私が知らない“本当の強さ”があることを。


拳が震えた。悔しさか、恐れか。

それとも、初めて噴き上がる焦燥か。


胸の奥に言葉にならない炎が灯る。


私はそっと扉から離れ、廊下の壁に背を預けた。


暗闇の中、視界が霞む。

でも、ひとつだけはっきりしていた。


強くなりたい。

ただ、それだけだった。


――打ち倒すため。

――戦士として、生きるため。


その夜、私は静かに決めた。


ここを出て、世界へ行く。

強さを手に入れる――そのために。


止まっている方が、きっと“敗走”なのだ。

私は、進まなければならない。


◇ ◇ ◇


眠れない夜は、そのまま朝を迎えた。


空はまだ群青に沈んでいて、夜と朝の境目がどこにあるのか分からない。

家の中は深い眠りに落ち、静寂だけが脈打つように響いていた。


私は机に向かい、震える指で紙を一枚引き寄せる。


言葉は浮かばなかった。


謝罪も、感謝も、別れも、どれを選んでも違う気がした。

けれど、ひとつだけ胸の奥に燃えているものがある。


『強くなってくる』


滲んだ文字を見つめ、息をひとつ吐く。

その紙を机の上に置き、部屋の隅に飾った一本の剣に目を向けた。


エルザが打ってくれた初めての剣。


粗くて、歪んでいて、だけど世界のどんな宝にも勝るくらい、大切な剣。

私はそれに触れないまま、ただ見つめた。


壊したくなかった。

傷つけたくなかった。


持っていくべきは、思い出じゃない。

これから戦うための力だ。


背を向けるのが、こんなにも苦しいなんて知らなかった。


私は静かに旅支度を整え、扉を開けて外の冷気を吸い込んだ。

夜明け前の空気は刺すように冷たく、火照った胸だけが熱かった。


足が向かったのは、鍛冶屋の前。


木の看板はまだ薄闇に沈み、あたりには誰ひとりいない。


エルザは――眠っている。

そう思うと、胸がきゅっと縮んだ。


声を掛ければ、きっと止められる。

あるいは、ついて来ようとする。


揺らぐくらいなら、言わない方がいい。


これは私一人の戦いだ。


そう自分に言い聞かせるように拳を握ったとき――


ギィ、と扉の音がした。


顔を出したのは、エルザの父だった。

煤で黒ずんだ頬、太い腕。私を見ると、目を細める。


「ライアか。こんな朝早く…エルザならまだ寝てるが」


「いや、エルザに用があるんじゃなくて」


声は自分でも驚くほど低く、揺れていなかった。


「ん?」


私は腰の袋を差し出した。

硬貨の触れ合う音が、静寂に小さく響く。


「お父さん。この金で買える武器をください」


その言葉に、鍛冶屋の父の目がじっと私を射抜いた。

弱さも迷いも隠せないほど、真っすぐに。


しばらく沈黙が続き、やがて彼は静かに扉を開き、手招きした。


「……入れ」


工房の奥、壁に掛けられていた剣を一本、ゆっくりと取る。

鋼の刃が薄明かりを受け、微かに白く光った。


差し出された剣は、一目で分かるほど上質だった。

私が持ってきた金では、到底手が届かない代物。


「こ、これは…」


言葉が続かなかった。

エルザの父は、背を向けたまま低く言う。


「餞別だ。持っていきな」


その声には、追及も、怒りも、止める気配もなかった。

ただ――理解があった。


私は胸が熱くなり、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


剣を受け取る手が震えた。

それが恐れか、決意か、自分でも分からなかった。


工房を出ると、東の空が少しだけ白み始めていた。


私は振り返らない。

誰の声も聞かない。

足跡だけが、静かに土を踏みしめていく。


そして――街の外へ。

背中に朝の光が差し込み、影が長く伸びる。

その影の隣には、もう誰もいなかった。


私はひとり、歩き出した。


強さを求めるために。戦士になるために。

誰にも告げず――ただ前へ。


◇ ◇ ◇


街を離れてどれくらい歩いただろう。

朝靄はすっかり消え、陽は頭上まで昇っていた。


背負った荷は軽い。食料も、水も、最低限。


それでも肩は重かった。

初めての“独り”だったからだ。


背後を振り返ると、道はただ細く続いている。

街の影はもう見えない。

けれど胸の奥には、まだ温もりの名残がちらついていた。


私は首を振って前を向いた。

迷うな。立ち止まるな。強さは前にしかない。


そんな言葉を、自分に言い聞かせるように歩き続ける。


最初に違和感を覚えたのは――剣の重さだった。


エルザの父に渡された餞別の剣。

それは木剣よりもずっと重く、振ったこともない本物の鉄だった。


鞘ごと背負っただけで、肩に鈍い痛みが走る。


“これが戦う道具なのか”


そう思うと、胸がざわついた。


冷たくて、重い。

だけどその重さが、前へ進む理由になる気がした。


戻れない。戻らない。

強くなると書き残したのなら、弱いまま帰るわけにはいかない。


私は乾いた喉を無理やり動かし、誰に聞かせるでもなく、小さな誓いを立てた。


「倒す。強くなる。戦士になる……」


◇ ◇ ◇


街道沿いの小さな町に辿り着いたのは、旅に出て数日後だった。


荷は軽くなり、足は痛み、腹は空いていた。

けれど町の門を見た瞬間、胸が少しだけ高鳴った。


ここには村にはなかったもの――世界が広がっているのだと。


酒場は夕刻の喧騒に満ちていた。

粗い声、酒の匂い、笑い、怒鳴り、罵声。

訓練場とはまったく違う“生きた音”だった。


その喧騒の中、ふと壁に貼られた一枚の紙が目に入り、粗雑な似顔絵と汚れた文字でこう記されていた。


賞金首:盗賊バルゴ。危険度:中。賞金:銀貨30枚。


銀貨が欲しいからでも、名声が欲しいからでもない。

そこには明確な条件がひとつだけ浮かび上がっていた。


倒せば――強さを証明できる。


訓練では得られなかった手応えが、ここにはある。

倒すことでしか確かめられない何かがある。

その衝動に突き動かされるように、私は紙を剥がし、カウンターに叩きつけるように置いた。


「この賞金首、どこにいる?」


店主は一瞬あっけにとられたように目を瞬かせた。


「嬢ちゃん、冗談だろ。あいつは傭兵でも手を焼いて――」


「関係ない。教えてくれ」


その声音の奥に宿った真っ直ぐさを、店主は感じ取ったのだろう。

店主はしばらく黙り込み、やがて肩を落とすように答えた。


「街道の外れ。森の廃屋だ。……死ぬなよ」


私は答えず、踵を返した。

死ぬつもりなど毛頭ない。勝つために来たのだから。


◇ ◇ ◇


日が落ち、森の影が濃くなった頃、朽ちた廃屋が姿を現した。

湿った木の匂いが鼻を刺し、風が抜けるたびに軋む音が耳に触れる。

中に踏み込んだ瞬間、肌の表面を冷たい刃で撫でられたような鋭い殺気が走り、背筋がぞくりと震えた。


「嬢ちゃんが来る場所じゃねぇぞ」


暗闇の奥から低く笑う声。

巨躯がゆっくりと姿を現し、獣のような筋肉の腕と背に負った刃が鈍い光を放つ。


賞金首バルゴ。


私は言葉を返さず、鞘に添えた指に力を込め、そのまま一気に剣を引き抜いた。

鉄が擦れる金属音が闇に響き、初めて手にする“殺すための刃”の重みが掌にずしりとのしかかる。

木剣とは比べ物にならない質量が腕を震わせ、心臓が喉元まで跳ね上がる。


怖い――そう思う前に、胸の奥に熱が駆け上がった。

これは訓練じゃない。

倒すか倒されるか、その二つしかない”戦い”だ。


「戦士なら――立て」


バルゴが獣めいた笑いと共に地を蹴った。

突進の勢いは風そのもののように鋭く、振り下ろされた刃の軌跡が空気を裂き、頬をかすめた瞬間、ひりつく痛みが走った。

一撃食らえば終わる――その理解は本能のように体を駆け抜けた。


逃げても、守っても、追いつかない。

だったら、斬るしかない。


足を踏み込み、全身の重みを剣に乗せて振り下ろす。

腕が悲鳴を上げ、肩が軋み、鉄の重みが身体を持っていこうとする。

それでも軌道だけは、まっすぐだった。


鈍い手応えと共に、肉を裂く感覚が腕に伝わり、血が飛び散った。

バルゴが呻きながら距離を取ったその一瞬、荒く乱れた呼吸の奥に、熱が渦巻いた。


倒せる――強さはここにある。


再び迫る巨体。

私は迷わず踏み込み、斬り上げた。


交錯。静寂。

そして、巨体が崩れ落ちる音が廃屋に響いた。


鉄と血の匂いが漂い、息だけが荒く胸を突き上げる。

手は震え、汗と血で剣が滑りそうになっていたけれど、それでも胸の奥では炎のような昂揚が燃えていた。


打ち倒した。

強さを掴んだ。私は戦士だ。

そう言い切るには、十分すぎる現実だった。


この瞬間が、私をさらに戦いへと駆り立て、倒すことこそが強さだと信じ込ませた。

戦士としての最初の“誤解”であり、最初の勝利だった。


◇ ◇ ◇


旅に出てから、どれほどの月日が流れただろう。

私はいくつもの町を渡り歩き、腕試しのような勝負を受け、賞金首を斬り伏せ、名も知らぬ荒事に巻き込まれては勝ち続けた。


粗削りだった剣筋は研がれ、刃の運びは鋭さを増し、酒場では「若きリザードマンの戦士」の噂が囁かれるようになった。

手元には金があり、評価があり、“結果”だけは確かに積み上がっていた。


――強くなった。

そう言われれば、否定できない。


けれど、夜だけはどうしても誤魔化せない。


荒れ地の真ん中。

風が乾いた土をなぶり、焚き火が頼りなく揺れている。

星ひとつ見えない空は、底のない闇のように広がっていた。


私は膝を抱えて座り、静まり返った世界を見つめる。


歓声もない。称賛もない。

敵も、仲間も、誰もいない。


あるのは、火のはぜる音と、自分の呼吸だけ。


袋の中には報酬が詰まっている。

腰には立派な剣が下がっている。

腕にはかつてないほどの力が宿っている。


なのに、胸の奥は凍ったままだ。


「……なんだよ、これ」


自分でも驚くほど、声はかすれていた。

答えなんて、返ってくるはずがない。

私の呟きは、風に切り裂かれて消えていく。


強さとは、打ち倒すこと。

そう信じて旅に出た。それ以外の答えなんて、必要ないと思っていた。


だけど今、焼け付くように分かる。

――どれだけ斬っても、どれだけ勝っても、何も埋まらない。


焚き火の赤が揺れる。

その光に照らされて、腰の剣が鈍く光った。


私は柄に触れ、ゆっくりと立ち上がる。


「まだだ…私は、まだ強くない」


私は歩き出す。

行き先なんて決めていない。ただ前へ。

砂を踏む音だけが、虚しく響く。


誰もいない道を、黒い夜風だけが追いかけていく。

強さを求め続けることだけが、唯一の道標。


空虚と共に歩くその背中を、月なき空が静かに見下ろしていた。

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