第2部: 脱出不能
スターゲイザーの艦内には、表面的には秩序が保たれていた。しかしその下には、静かなパニックが渦巻いている。
リヴィアは艦長席に座り、次々に入ってくる報告を処理し、指示を出し続けている。彼女の表情は冷静だが、灰色の瞳の奥には深い憂慮が宿っていた。
「各区画からの報告をまとめました」デイヴィッドがタブレットを手に近づく。「負傷者は軽傷が12名。時間変動による一時的な方向感覚の喪失や吐き気が主な症状です。深刻な怪我はありません」
「それは不幸中の幸いね」リヴィアが頷く。「心理状態は?」
デイヴィッドは一瞬躊躇する。「...混乱しています。特に、時計の不一致が広く知れ渡ってから。エレナ医師の報告では、クルーの約30パーセントが軽度の不安症状を示しているとのことです」
「予想通りね」リヴィアは溜息をつく。「でも、まだパニックには至っていない。今のうちに対策を」
その時、ブリッジ後方の扉が開き、主任システムエンジニアのサラ・カーンが入ってきた。38歳の女性技師は、普段は落ち着いた雰囲気だが、今は疲労と困惑が顔に表れている。短い茶色の髪は乱れ、作業服の袖をまくり上げたまま、手には厚いデータパッドを抱えている。
「艦長、ワープドライブの診断結果です」サラの声は硬い。
「聞かせて」
「物理的な損傷はありません」サラは言う。「量子真空エネルギー炉、反物質封じ込めフィールド、時空歪曲発生器...すべてのコンポーネントは正常に機能しています」
「それは良い知らせね」リヴィアの表情が僅かに和らぐ。
「ですが...」サラが続ける。「起動しません」
沈黙。
「どういうこと?」
「システムは正常です。エネルギーも十分にあります。しかし、ワープフィールドが形成されないんです」サラは苛立ちを隠せない様子でデータパッドを見る。「まるで...まるで私たちの宇宙の物理法則が、ここでは適用されないかのように」
ユージンが科学ステーションから振り返る。「それは僕の分析とも一致する。ここは...私たちの宇宙とは異なる時空構造を持っている。ワープドライブは特定の物理定数―光速、プランク定数、真空の誘電率―に依存している。もしそれらの値がここで異なるなら...」
「ワープは不可能ということか?」デイヴィッドが尋ねる。
「現状では」サラが厳しい表情で答える。「通常推進も試しましたが、効果がありません。船は何かに『固定』されているようです。動力は正常なのに、前進できない」
リヴィアは目を閉じ、深く息を吸う。それから目を開き、冷静な声で言う。「分かったわ。サラ、ケンジと一緒に推進システムの代替案を検討して。何か、この環境で機能する方法があるはず」
「了解しました」サラは頷き、ブリッジを出て行く。
その直後、船舶AIの合成音声がスピーカーから流れる。
「警告。論理演算エラーが継続中。因果律パラメータに矛盾を検出。時間ベクトル定義不能。座標系基準点を確立できません。推奨される対応策:データ不足により算出不可能」
「AIも混乱しているわ」マリアが呟く。「第4世代統合型AIでさえ、この状況を理解できないのね」
プリヤがセンサーステーションから報告する。「艦長、外部環境の詳細スキャンを完了しました」
「結果は?」
「私たちは...何かの内部にいます」プリヤは慎重に言葉を選ぶ。「時空歪曲現象の中心部、と言うべきでしょうか。周囲360度、あらゆる方向に同じような虹色の歪みが広がっています。最も近い『境界』まで約8万キロメートルですが、その境界自体が不安定に揺らいでいます」
「星は?」
「既知の星座配置とは一致しません。しかし...」プリヤは画面を拡大する。「いくつかの恒星は、位置は違いますが、スペクトル特性が既知の恒星と類似しています。まるで同じ星々を、異なる角度から見ているような感じです」
ユージンが興奮した声で言う。「なるほど...異なる次元では、同じ物理的対象が異なる『投影』として観測される可能性がある。まるで3次元の物体の影が、光源の位置によって異なる形に見えるように―」
「ユージン」リヴィアが遮る。「もっと簡単に説明してくれる?」
ユージンは一瞬戸惑い、それから頷く。「つまり...私たちは恐らく、同じ宇宙の異なる『層』にいるんです。完全に別の宇宙ではなく、私たちの宇宙の...隠れた側面、とでも言うべき場所です」
「脱出できる?」
「理論的には可能なはずです。しかし、方法が分かりません」ユージンは正直に答える。
リヴィアは立ち上がり、ブリッジを一周する。全員が彼女を見守る。艦長の決断を待っている。
「よろしい」リヴィアは決然と言う。「できることから始めましょう。第一に、クルーの士気維持。デイヴィッド、シフトローテーションを通常通り継続。できるだけ日常のリズムを保って」
「了解」
「第二に、情報収集。ユージン、マリア、この現象の完全な分析を。あらゆる理論を検討して。プリヤ、センサーを最大範囲でスキャン。何か、脱出の手がかりになるものを探して」
「分かりました」
「第三に、全クルーへの説明。嘘はつかない。状況は深刻だけど、我々は対処している。パニックを防ぎ、希望を保つ。それが私たちの仕事よ」
リヴィアは艦長席に戻る。「私たちはスターゲイザーの乗員。120名のプロフェッショナル。これまでも困難を乗り越えてきた。今回も同じ。必ず、解決策を見つける」
その言葉に、ブリッジの空気が僅かに軽くなった。しかし誰もが知っている。これは単なる困難ではない。これは、人類が遭遇したことのない種類の危機だということを。
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艦内時間は統一されていない。ブリッジの時計と医療ベイの時計は依然として一致せず、クルーたちは混乱している。「今」が何時なのか、誰も確信を持てない。
リヴィアは船内放送を通じて全クルーに状況を説明した。彼女は事実を隠さず、同時に冷静さと決意を示した。反応は様々だった。
メスホールでは、クルーたちが集まり、不安そうに話し合っている。予定されていた「帰還祝いの特別メニュー」は、誰も楽しめなかった。
居住区では、何人かのクルーが自室に閉じこもっている。エレナ・コヴァルスキー医師は、抗不安薬の処方を増やさざるを得なかった。
しかし、最も深刻な影響を受けているのは、時間の不一致そのものだった。
エンジンルームでは、主任工学技師のケンジ・イトウが、サラと共に推進システムの代替案を模索していた。しかし作業は難航している。エンジンルームの時計はブリッジより遅く進んでおり、シフト交代のタイミングが混乱していた。
「信じられない」ケンジが額の汗を拭う。50代の日本系技師は、通常は落ち着いているが、今は明らかに動揺している。「私の時計では2時間作業したのに、ブリッジに報告すると4時間経過していると言われる。体感と時刻が一致しない。これは...狂いそうだ」
「分かるわ」サラが共感を示す。「でも、私たちは技術者よ。感覚ではなく、計器を信じる。それしか方法がない」
二人は作業を続けるが、問題の根本は変わらない。推進システムは正常だが、機能しない。物理法則が違うのだ。
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ブリッジでは、ユージンとマリアが科学ステーションに張り付いていた。二人は休憩も取らず、データ分析を続けている。
「この重力波パターンを見てくれ」ユージンが画面を指差す。「7つの異なる周波数が同時に存在している。まるで...まるで7つの異なる現実が重なり合っているようだ」
「7という数字」マリアが呟く。「各区画の時間経過も、約7つのグループに分類できる。偶然?」
「偶然ではないと思う」ユージンは興奮している。「これは何らかの構造を示している。7つの『層』。私たちはその層の交差点に捕らわれているのかもしれない」
「でも、なぜ私たちの船が?」
「それは分からない。でも...」ユージンは一時停止し、深く考える。「ワープドライブが関係しているかもしれない。ワープドライブは時空を歪める。もしかしたら、その歪みがこの現象に作用して、私たちを引き込んだのかも」
マリアは生物学者としての視点から考える。「生態系では、環境の変化に対して生物が適応する。私たちも同じよ。この新しい環境に適応する方法を見つけなければ」
「しかし適応には時間がかかる」
「時間...」マリアは苦笑する。「それが最も不確かなものになってしまったわね」
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