第5話 人形になった花魁

 その日、紅梅軒へとやってきたのは、喪服に身を包んだ女だった。年齢は二十代なかばだろうか、髪のほつれと憔悴した顔が印象的だ。

「いらっしゃいませ」若き店主がいつもの笑顔で出迎える。「ええと、貴方様は確か⋯⋯」

「吉原病院で看護婦をしている、原恵津子はらえつこよ。忘れちゃったかしら」

「そうでした。白衣の天使が、今日は〈黒紋付〉をお召になっておいでなので、すぐにはわかりませんでした」

「白衣の天使ね」恵津子は、自虐的な笑みを浮かべる。「毎日、流れ作業で花魁の身体を検査している病院の看護婦だけどね」

「どちらかで、ご不幸がありましたか?」店主が優しい声でいた。

「ちょっと、玉菊たまぎくさんの葬儀にね」

「珍しいですね、看護婦が花魁の葬儀に行くなんて」

「不思議なもので、あのとはなぜだか親しくなっちゃったの。花魁にとって看護婦なんて、うとまれるだけの存在なのにね」恵津子は懐かしそうに笑みを浮かべる。「せっかく、身請けをされたのに、あんなことになるなんて」

 店主はカウンターの隅に置かれた香炉に、火をつけた線香を立てた。高貴な伽羅の香りが漂う。

「上品ないい香りね」恵津子は目をつぶり匂いを楽しむ。

「戴き物の線香ですが、玉菊花魁の供養になればと思いまして」

「ありがとう。きっと、喜ぶわ。新聞や世間の噂話は嘘ばっかり。これじゃ、あの妓も浮かばれないわよね」恵津子は店主に向かって微笑んだ。

「よければ、お話しいただけませんか。真実を知ることが、花魁の供養となると思いますので」

「わかったわ、貴方だけに話してあげる」

 恵津子は、ぽつりぽつり語りだした。


 吉原遊廓で働く花魁は、三千人とも四千人ともいわれており、そのすべてが例外なしに週に一度、吉原病院で検診を受けなければならなかった。このことは〈強制検診〉と呼ばれ、口の悪い者は〈検梅けんばい〉などと言っていた。

 検査当日は、ちょっとした〈見世物〉だ。見世ごとに集められた花魁が、列をなして病院へと向かうからだ。この花魁の行進を一目見ようと物好きな男どもが集まり、なかには、「しっかり、股広げて診てもらってこいよ」などと、はやし立てる者もいた。

 病院では花魁たちは半裸や全裸になって順番を待つ。わずかな医師で大勢の花魁を診察するためには、こうした時間短縮は必要不可欠だった。

 ようやく順番がまわってくると、手袋を装着した医師が機械的に下半身や口の中、全身の皮膚を調べていく。時間にして、わずか数十秒。なんとも、あっけない診察だ。

 それでも受診者の一割から二割が、見世へは帰れずに〈隔離病棟〉に入院させられた。

 玉菊もそんな花魁の一人だった。

 真っ白い壁にタイル敷きの床という衛生的な空間に、規則正しく並べられたベッドで、花魁たちは養生をするのだ。

 普通の病院の病室と、ここ吉原病院の隔離病棟との大きな違いは、窓に鉄格子がはめ込まれていることだろう。もちろんこれは、花魁の逃亡を防ぐためだ。

 特殊なのは病室だけでなく、看護婦の花魁を見る目にも現れていた。冷たく無機質で感情がない目で、花魁たちを観察している。それは彼女たちが、医療従事者であるとともに、花魁の監視者でもあったからにほかならない。

 花魁の病状は逐一、見世へと報告される。入院費はもちろんのこと食事代や雑費なども病院から見世へと請求される。もちろんこれはすべて、花魁の借金となるのだ。

 入院が延びるほど借金がかさみ、病気が治って見世へ戻った時には、身も心も動きが取れない花魁も少なくなかった。

 そんな特殊な病院で働く原恵津子が、監視対象である花魁の玉菊となぜ仲良くなったのかは、今となっては思い出せない。ただ、お互いが磁石のように引き寄せられたのだけは確かだった。

「どう、具合は?」恵津子は玉菊に声をかけた。

 毎日、同じ言葉を投げかける。

「良くも悪くもないわね」玉菊は笑ってこたえた。「でも、ここはいいわよね、大見世も小見世もお職もお茶っぴきも関係ない。みんな平等。大部屋に並べられたベッド上で、退屈な時間に耐えている」

「あら、哲学的なことを言うのね」

「なら、現実的なことを言いましょうか? こうしている間も、借金が嵩んでいると思うと気が気でないわ」

「まさに、現実的ね」

 二人は顔を見合わせ笑いあった。

(この娘は女学校を出てるって言ってたけど、嘘じゃないわね)

 恵津子は玉菊に、育ちの良さを感じていた。

(そんな娘さんが花魁になるなんて、運命って皮肉なものね)

 花魁に干渉してはいけないことはわかっているが、なぜか、玉菊には惹きつけられるのだ。

「ねぇ、私はいつになったらここを出られるの?」玉菊が訊いた。

「それはあなた次第ね。数週間で退院する人もいれば、一年経っても出られない人もいる」

「私はどうかしら? もう二ヶ月もここにいるのよ」

「早く出たかったら、先生の言い付けを守って、まじめに養生することね」

「わかったわ。薬も忘れずに飲むわ」

「忘れるんじゃなくて、嫌がって飲まないんでしょ」

「だって、苦いんですもの」

 二人はまた、笑いあった。

(この娘には、幸せになってもらいたいわ)

 恵津子は心からそう願っていた。

「私ね、夢があるの」突然、玉菊が言った。

「わかってるわ、身請けでしょ。それを望まない花魁は誰もいないもの」

「いいえ、違うのよ。身請けだけは、ごめんだわ」

「あら、どうして?」

「じつはね、私には将来を誓った人がいるのよ。今は大工の見習いなんだけど、年季が明けたら一緒になろうと約束してるの。その人と世帯を持つのが私の夢。だから、身請けは困るのよ」

「じゃ、しっかり稼いで借金を返すしかないわね」

「ええ、あの人が待っていてくれると思ったら頑張れるわ」

「私には、その日が早く来るようにと、祈ってあげることしかできないわね」

「それで十分よ。ありがとう」

 玉菊は屈託のない笑みを浮かべた。

 やがて、玉菊は病も癒えて見世へと帰っていった。

 だが、運命は思わぬ方向へと動き出していた。

 退院を待ちかねていた御内所が笑顔で言う。「滝田さんから、退院したらあんたを身請けしたいと相談があってね」

 滝田とは玉菊のお馴染みさんで、七十歳手前の味噌屋の主人だ。

「今回の入院で、あんたの借金も増えに増えちまったから、あと何年ここにいなきゃならないことか。それを綺麗さっぱり払ってくれるっていうんだから、まさに地獄に仏だよ。あんたは本当に幸せものだね」

 御内所は降って湧いたような身請け話に上機嫌だった。しかし、当の本人の玉菊の顔は暗い。

 翌日、玉菊は適当な用事を告げて見世を出ると、吉原病院に向かった。花魁が一人での外出は廓内だとしても禁じられているが、身請け話がでたあとだけに、御内所も大目に見たのだろう。裏口から恵津子を呼び出す。身請け話のことを伝えると、恵津子の顔も暗くなった。

「本来なら喜んであげたいところだけど、それじゃ大工の修行をしている、いい人のお嫁さんにはなれないわね」

「でも、今回の入院で借金がかさんだでしょう。だったら、いつ年季が明けるかわからない。そんなの待ってたらおばあさんになってしまって、あの人に嫌われちゃうじゃないかって心配なの」

「だったら、どうするの?」

「これを好機として捉えることにするわ。吉原さえでてしまえば、じいさんなんてどうにでもなるんじゃないかしら」

「どういうこと?」

「身請けをされたら、じいさんの言うことを聞いてやらないのよ。もちろん、夜の相手もしてあげない。なにを言われても頭が痛いと、イライラして跳ね除けるの。そのうち愛想を尽かして追い出してしまうはずよ」

「そんなことで、うまくいくわけないでしょ」

「でも、私にはこれしか方法はないのよ」

 その顔は真剣そのものだった。

(もう、私には止められそうもないわね)

 恵津子は玉菊の眼差しから、そう感じた。

「わかったわ、やってみたらいい。後は野となれ山となれね」

「ありがとう。新しい住所が決まったら連絡するわ。時折、訪ねてきてちょうだい」

 身請け話はとんとん拍子にまとまり、玉菊は滝田に連れられて吉原を出ていった。

 滝田は小さな家を借り、そこで玉菊と一緒に暮らし始めた。

「いいんですか、お店は?」玉菊は滝田に訊いた。

 少しの間も一緒にはいたくはないのだ。

「家督はとうに息子が継いでおり、わしは楽隠居の身だ。余生はお前と二人で、ここで暮らすのだよ」玉菊の手を握りしめる。

 玉菊は早速、我儘放題わがままほうだいを言って滝田を困らせることにした。だが、若い娘の我儘が嬉しいのか、困った様子も見せない。

「よしよし、いい子だ。わかった、わかった」

 なんとか、寝所に連れ込もうとする。老いても男の欲望は枯れてはいない。このままでは負けてしまう。

 玉菊の我儘はより一層激しくなり、甲高い声で叫び、物を投げつけては癇癪かんしゃくを爆発させた。

 さすがの滝田もこれには困ってしまった。すたこらと家を出ていった。だが、安心したのもつかの間、数日後には、薬を持って帰ってきた。

 滝田は、紙に包んだ粉末の薬を見せながら言った。「これはね、知り合いのお医者様に無理に頼んで調合してもらった高価な薬なんだ。これさえ飲めば、癇癪も頭が痛いのも綺麗さっぱり治まるよ」

 だが、玉菊は薬を飲まなかった。本当は何の薬かわからないものを、恐ろしくて飲めなかったのだ。滝田は無理にでも飲まそうと策を講じたが、玉菊は必死に拒み続けた。

 さすがの滝田もこれには困ってしまった。すたこらと家を出ていった。だが、安心したのもつかの間、数日後には、屈強な男を二人も連れて戻ってきた。

 男たちは暴れる玉菊を抑え込み、口を開けさせる。滝田はそこに、あの薬と水を流し込む。

「さぁ、飲め、飲むんだ」

 ゴクリ。

 飲んでしまった。

 しばらくして、頭がカッと熱くなった。火箸を押し当てられたような熱さだった。

 記憶があるのは、ここまでだ。気がつくと、全裸で布団の上に仰向けで寝ていた。傍では、同じように全裸の滝田が、手拭いで汗を拭きながらニタニタと笑っていた。

「いや、久しぶりに楽しませてもらったよ」

 やはり、あの薬だ。あれがいけなかったのだ。もう二度と、滝田が持ってきた薬は口にはしない。

 だが、不思議なことにあの薬が欲しくてたまらない。飲むと意識を失うか、意識があっても頭が朦朧として身体は動かず、なにをされても拒むことができなくなる。

 まるで、人形だ。

 滝田は玉菊の身体をおもちゃのように扱った。だが、玉菊はただ受け入れることしかできなかった。

 いつしか玉菊は、自ら進んで薬を飲み人形になった。その頃から、身体に異変が表れた。悪寒と発汗がとまらないのだ。

 だがそれは、薬の量を増やすことで解消された。だが、発作は激しさを増していく。それに伴い、さらに薬の量を増やす必要があった。その繰り返しの末、玉菊は人形を通り越して、醜い廃人と化した。滝田の玉菊に対する興味も薄れ、彼女を見捨てて家を出ていった。

 恵津子が訪ねてきたのは、それから数日後のことだった。住所は早くに教えられていたが、仕事が忙しく訪ねることができなかったのだ。

 玄関で何度声をかけても返事がなかった。

 戸に手をかけると、鍵はかかっていない。

(なんだか、嫌な予感がする)

 思い切って戸を開けると、悪臭が鼻を突いた。

(この臭いは?)

 看護婦である恵津子にはわかる。

(汗と排泄物、そして死臭)

 恵津子は躊躇せずに足を踏み入れる。

 そこで、恵津子は玉菊の無惨な姿を見た。

 顔は土気色となり、目がくぼみ、頬はけ、骨と皮だけになった身体は、薬の禁断症状に耐えるためか、掻きむしって傷だらけになっていた。

(間違いない、これは〈塩酸モルヒネ〉の中毒だわ)

 一目でわかった。

 滝田が玉菊に与えていたのは、〈麻薬系鎮痛剤〉であった。

(こんなことなら、吉原にいた方がよかったのに)

 涙が溢れてきた。

 恵津子の流した涙は、玉菊の乾いた顔の上にポタリと落ちた。


 恵津子は話し終えると、大きく深い溜息を吐いた。

「これでおしまい、これが事件の顛末よ」

「医者や滝田は、警察に捕らえられることはなかったのですか?」店主が訊いた。

「医者は、癇癪をおかすほど激しい頭痛を和らげるために処方した薬だと言うし、滝田は玉菊自らが頭痛を止めるために、大量に薬を飲むようになったと証言したわ」

「それで、おとがめはなしですか」

「吉原病院で毎日、多くの花魁たちを見ていて思うの。様々な苦労の末にここへやってきた人たちだけど、本当に恐ろしいのは、廓の外に出てからじゃないかって」

「吉原さえ出れば、あとはどうにでもなると言った花魁が、うまくいった試しはありません」

「人の幸せとは何なのか、考えさせられるわね」恵津子がまた、深い溜息を吐く。

 ここで、線香が燃え尽きた。残り香が広がる。

「無事に語り終えました。これはお話のお礼です。さぁ、どうぞ」

 店主は淹れたての珈琲を差し出した。




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