きおくのおしおき
@teigenseki
プロローグ
0-1
「診察室」の表札がかかった扉の前。狭く長い廊下には、壁に沿って長椅子が並んでいる。椅子の向かいには低い本棚があり、色あせた絵本がぎゅうぎゅうに詰まっている。
長椅子に座ったコワモテの男が、その絵本を膝の上に広げていた。文字を追うというより、ページの中の動物の数を、ぼんやり数えている。
その横には刑務官が一人、腕を組んで立っている。制服のベルトが、男の肩あたりにくるような身長差だった。
男が仰向けになろうとした瞬間、ガン、と金属の脚を刑務官が蹴った。椅子が小さく跳ねて、男の背に固いものが当たる。
目も合わさず、刑務官は咳払いをひとつ。
男はびくっと起き上がり、あわてて絵本を閉じると、本棚に差し入れ、また小さく椅子に腰を下ろした。
刑務官は大きくため息をつき、さきほど戻した本を引っぱり出して、男の膝に置いた。
「座って、読みなさい」
刑務官の言葉に、男はしばらく置かれた絵本を見下ろしていたが、やがて震える指でページをめくった。
診察室の扉の向こうで、何かが倒れるような音がした。二人が音の方を向いたとたん、勢いよく扉が開いた。
別の大柄な男が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をして、診察室から引きずり出されてきた。両側を筋肉質の刑務官二人にがっちり抱えられ、足をばたつかせている。
「ママー! ママのとこ帰るって言ったろ、せんせぇ!」
扉から、年老いた婦人が心配そうに出てきた。
「豊、豊、お、お願いだから」
取り乱しているというほどではないが、彼女の目にも涙が浮かんでいる。
「お前は誰だ! ママじゃない!」
男が怒鳴る。刑務官はポケットから小さなリモコンを取り出した。
「ショックだ、ショック」
そう言ってボタンを押すと、男の足首のリングからピッという音がし、脚がビクンっと大きく跳ねて、そのまま崩れ落ちた。
「豊!」
婦人も膝から崩れ落ちる。
うずくまり、小さく「ま……ママ」と呟く男。リモコンをしまいながら、刑務官が「ユタカくん、静かに」と言って腕を取り、男を立たせる。
ユタカと呼ばれた男は、よろよろとゆっくり立ち上がった。その後頭部には、拳大のプラスチックの蓋のようなものがひとつ、皮膚に食い込むように埋め込まれているのが見える。
その様子を確かめてから、刑務官が婦人の方を見てうなずく。婦人はよろよろと近寄って、ユタカの背に手を置いた。
「歩いて」
刑務官の声に促されるように、一団は廊下の先の鉄格子の扉を抜けて、外へと出ていった。
一部始終を、絵本を抱えたまま呆然と見ていた男。騒ぎがおさまると、先ほどの扉から担当医が顔をのぞかせた。白衣の胸ポケットにはペンが何本も刺さっていて、困ったような、でも慣れているような顔をしている。
「大丈夫ですか?」
長椅子の横にいた刑務官が、一歩詰めて声をかけた。
「ああ、大丈夫」
医者は額を指で軽く押さえ、手元の紙を一枚めくる。
「じゃあ、次。花田賢治くん」
名前を呼ばれた気がして、絵本を抱えた男──賢治が顔を上げた。刑務官が、その手から絵本をすっと抜き取ろうとする。
「いい、いい……」
診察室の扉のところに立ったまま、医者が慌てて手を出した。
「そのままで。不安だろうからね」
言いかけた言葉を飲み込み、宥めるような口調に言い換える。
刑務官は一瞬だけ不満そうな顔をして、絵本から手を離した。かわりに、賢治の肩に大きな手を置く。
「……行くよ、ケ、ケンジくん」
少し上ずった声で刑務官が言う。
賢治はライオン表紙の絵本を抱きしめて立ち上がり、うながされるまま診察室へと歩き出す。
扉が閉まる直前、うつむきがちな賢治の後頭部に、先ほどのユタカと同じ蓋が、同じ位置に埋め込まれているのが見えた。
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