病院

次の日の朝、俺は腹の底から突き上げてくるような激痛で目を覚ました。

冷や汗が噴き出し、起き上がることさえままならない。

俺の呻き声を聞いた母が血相を変えて部屋に飛び込んできて、すぐに救急車を呼んだ。


意識が朦朧もうろうとする中、医者から告げられたのは「心因性のものですね。強いストレスが原因でしょう」という言葉だった。

昨日の、クラス中の視線が突き刺さるようなあの出来事が、本当に俺の身体をむしばんでいたらしい。

食べ物なんて喉を通リそうもなく、今は腕に繋がれた点滴の管をぼんやりと眺めている。


母は「少し休んだら良くなるから」と俺の頭を撫で、心配そうにしながらもパートの仕事へ向かった。

夕方にはまた迎えに来るという。


昼過ぎ、一人きりの病室が退屈になって、点滴スタンドを引きずりながら廊下に出てみた。

病院というのは思ったより人でごった返している。

そんな人の波の中に、見知った顔を見つけた。


林檎と、桃だ。

二人は突き当たりの病室の前で、上品そうな女性と話し込んでいる。


「林檎、桃……」


声をかけると、二人は驚いたように振り返り、すぐに俺の腕の点滴を見て目を見開いた。


「ミウリ! あんたこそ、どうしたのよ!」


「こちらは嵐山宣子さんのお母さん。同じクラスの一ツ橋美兎くんです」


林檎に紹介され、俺は慌てて宣子さんのお母さん――嵐山ママに頭を下げた。

病室のドアには「面会謝絶」のカードが掛けられている。


「いつも娘がお世話になっております」


嵐山ママの丁寧な挨拶に、俺は恐縮するばかりだった。


「あの、宣子さんの容態は……」


「今は眠っていますが、命に別状はありませんよ。じきに目も覚めると思います」


「そうですか……良かった……」


心の底から安堵のため息が漏れた。

嵐山ママは俺の点滴に視線を移し、「あなたの方こそ、大丈夫ですの?」と逆に心配してくれた。

大丈夫です、と何とか返事をして、俺たちは嵐山ママと別れた。


近くの長椅子に三人で並んで腰掛ける。


「本当に大丈夫なの?」


林檎が念を押すように聞いてくる。

俺は「もう平気」と胸を叩いてみせた。


「でも、良かった。意識不明って聞いたときは、どうなるかと思った」


俺がそう言うと、林檎と桃はきょとんとした顔で顔を見合わせた。


「え? 何言ってんの、ミウリ」


「は? 何が?」


「意識不明ですって? 誰よ、そんなデタラメ言ったの!」


桃が呆れたように言った。


「考えてもみなさいよ。本当に屋上から人が落ちたら、学校中が大騒ぎになるでしょ。全国ニュースにだってなりかねないわ」


言われてみれば、その通りだ。

頭にのぼっていた血が、すうっと引いていくのを感じた。

じゃあ、昨日のあの騒ぎは、一体何だったんだ。


夕方、病室で窓の外を眺めていると、がらがらとドアが開いた。


「よお、生きてるか?」


ひょこりと顔を覗かせたのは、良吾だった。

その後ろには、気まずそうに俯いた浜谷くんが立っていた。


「ごめん……」


ベッドのそばまで来た浜谷くんは、深く、深く頭を下げた。


「昨日は、取り乱して……本当にごめんなさい」


俺は正直に謝った。

昔いじめていたことも、それを忘れてしまっていたことも。


「俺の方こそ、ごめん。全部、忘れてて……」


「いや……理由がわからないのは残念だけど、忘れられちゃったら、もうそれ以上どうしようもないから」


浜谷くんは力なく笑った。

その顔を見ていたら、どうしようもなく胸が痛んだ。


沈黙を破ったのは、良吾だった。

パン、と手を叩き、ニヤリと笑う。


「よし、和解の印だ! ミウリ、お前が諭くんの願いを何でも一つ叶えてやれ! いじめたお詫びってやつだ」


「はあ!? なんでそうなるんだよ!」


「いいからいいから! ほら諭くん、遠慮すんな! 何でも言ってみろ!」


良吾に無茶苦茶にけしかけられ、浜谷くんは照れたように俯いてしまう。


「ちょっと待て、まず願いの内容を聞いてから……」


「ちぇっ、つまんねーな。じゃあ十秒以内に言わなきゃ無効! じゅーう、きゅーう……」


勝手に始まったカウントダウンに、浜谷くんは「待って!」と慌てて手を振る。

良吾はお構いなしに続けた。


「さーん、にー……」


「宣子さんと、文通を続けてあげてください!」


叫ぶようなその声に、俺と良吾は目を丸くした。

浜谷くんは顔を真っ赤にしながら、理由を説明してくれた。


「僕の願いは、動物園で叶ったから……。手伝ってくれた宣子さんに、ちゃんとお礼がしたいんだ」


なんて、いいやつなんだろう。

昨日までの恐怖が嘘のように、胸がじんわりと温かくなった。

良吾が吹き出すように笑い、俺もつられて笑った。


「……ごめん。その願い、叶えてやれない」


俺が言うと、二人の笑顔が止まった。


「嵐山さんから返事が来たんだ。『もう手紙は書けない』って」


「そんな……」


浜谷くんはがっくりと肩を落とした。

俺だって同じ気持ちだ。


気まずい沈黙が流れる。

何か言わなければ、と思った俺は、口を開いた。


「その代わり、じゃないけどさ。……これからは、諭って呼んでもいいか?」


俺の言葉に、浜谷くんは驚いたように顔を上げた。

そして、少しはにかんで、小さく頷いた。

窓から差し込む西日が、俺たちの間にあったわだかまりを、静かに溶かしていくようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る