第2章第1話 ―The Shape I'm in―

 その日はもう、ぐったりと疲れ切ってしまって、家に帰ったら夜ご飯も食べずにベッドに直行。秒で寝落ちして、朝まで一度も起きずに泥のように眠り続けた。


 ひとり親のお父さんが、いつも美味しい料理を手作りしてくれるので、食事だけはきっちりとるのが私の主義。だけど、この日ばかりは、日頃の何百倍も人と話したせいで、エネルギー残量がすっからかんだった。ましてや、あの谷川さんの言葉マシンガンを何発も浴び続けたのだ。


(私のHPもMPもゼロよゼロ! 宿屋で一晩どころか三泊しても回復できないかも)


 朝起きてからも、まだ身体が重い。寝落ちしたせいで、見たかったアニメも見逃しちゃったよ。


 朝食の味噌汁をすすりながらも、頭の中では、昨日の谷川さんの言葉がぐるぐると回り続けている。マトリックスがどうとか、日本盤の帯がどうとか……?

 

(マトリックスって、キアヌ・リーブスだっけ……?)


 でも、あのキャロル・キングのレコード、素敵だったなあ。

 レコード屋巡りって、谷川さんは言ってたけど、レコードって、今でも買えるものなのかな。もし、キャロル・キングのレコードが売ってるなら……それはちょっと、素敵かも。


 ぼんやりと考え事をしながら朝食を食べ終わると、出勤の支度を済ませた父が、いつものごとく、やたら元気に声をかけてきた。


「詩文、おはよう! 昨日はずいぶん疲れて帰ってきたな。もう大丈夫か!?」

 一足早く起きて朝ご飯を作ってくれた後に、自室で出勤の準備をしていたお父さんが、ダイニングで食事をしている私に声をかける。


「制服も着替えないまま寝てたから、また風邪でもひいたのかと心配したぞ!」

「うん、風邪とかじゃなくて、昨日は単に疲れただけだから……」


「それにしても、寝言でうなされながら“う~ん……レヴォン・ヘルム~”って言ってたけど――それって、もしかして、あの、ザ・バンドのレヴォン・ヘルムのことか!?」

 父が私の顔を覗き込みながら、急に目を輝かせて言った。


 父のその言葉で、昨晩の悪夢がフラッシュバックする。

 谷川さんはどうやら「ザ・バンド」という、ある意味では奇妙な名前のバンドが一番好きらしい。そのバンドのメンバーのことは全員深く愛しているのだけれど、特にドラマーのレヴォン・ヘルムという男の存在を偏愛しているようだった。

 キャロル・キングのレコードの次に、谷川さんはそのザ・バンドのレコードを流してくれて、一緒に聴いた。でも、途中で下校時刻を過ぎてしまい、巡回してきた先生に視聴覚室から追い出されたのだけど。

 帰り際にも延々と、レヴォン・ヘルムのドラムやボーカルの素晴らしさについて、篤々と聞かされたのだった。


 夢の中では、谷川さんが視聴覚室で「ああ、レヴォン……レヴォン……」と、ザ・バンドの曲に合わせて不思議な踊りをしている、悪魔的な光景を見続けたのだった。

 

(いや、しかしちょっと待て、父よ? 娘の寝言を逐一メモるな! ていうか、なんで父までレヴォンのこと知ってるの!?)


 心に疑問が過ぎりつつも、私は父の質問に答える。

「うん……まあ、学校の友達に、そういうのを好きな人がいて……」

「えっ!! 詩文、お前、友達できたのか!? 良かったな! しかも、その友達はいい趣味してるな! レヴォン・ヘルムが好きだなんて、それは熱い! よし、今夜は赤飯を炊くか! 父さんがご馳走を作ってやるからな! ハッハッハ! じゃあ、いってきます!」

 私が話し終わるよりも先に、お父さんは食い気味に反応して、そのまま玄関から笑いながら出かけていった。


 父は、今では地方公務員としてお硬い仕事をしているが、どうやら若い頃は、一時期、ミュージシャンを志していたことがあったらしい。

 その頃のことはあまり詳しく聞いたことがないけれど、家にはアコースティックギターやエレキベース、当時買って聴いていたのであろうCDなどが、少なからず残っている。

 お母さんは、私が生まれて少ししてから病気で亡くなり、以来、お父さんは音楽をやめて、男手一つで私を育ててくれたのだ。

 片親であることを気にかけてか、お父さんはいつも、やたらとハイテンションで私に接する。まあ、それも楽しいから良いのだけど、ときどきちょっとうっとおしくなる。

 それでも、お父さんの明るさのおかげで、お母さんがいない寂しさをあまり感じることはない。お父さんと二人の家族生活を、当たり前のものとして送れている。だけど――


「今日は天気がいいぞ。詩文の門出を祝うには最高の日だ~!」

 窓の外から父が叫ぶ声が聞こえてきた。やめてくれ~、ご近所さんになんて思われるか。


(いやいや、何の門出!? 卒業式? 成人式? それとも“友達できました式”!? 谷川さんと父さん、二人して“レヴォン・ヘルム”を熱弁してくるし……なに? これ? 全国民必修科目? 私だけ単位落としてたの!?)


 これまで全然知らなかった私のほうが、むしろおかしいのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、そそくさと登校の準備を済ませて、家を出る。


 ◇


 ワイヤレスヘッドホンをつけて、学校へ向かって歩いていく。神田川沿いの細い歩道を通って、三鷹台の駅前を抜けて、学校のほうへ。

 いつもならば、そのときどきのお気に入りのアニソンとかを聴きながら登校するのだけど、今朝はサブスクで配信されているキャロル・キングの『Tapestry』を検索して探し出し、聴いてみている。


(レコードよりもクリアだけど、印象が全然違うなぁ。同じ音楽なのに、なんか不思議だ)


 いつもの道、駅前から学校に向かう短い通学路には、同じ学校へ向かう女子生徒たちの群れが流れていく。

 私と同じように、イヤホンをして気だるそうに歩く女の子。なんだかわからないけれど、何かのスポーツで使うのであろうやたらと大きな荷物を抱えて一生懸命に歩く女の子。友達と一緒に談笑しながら歩く女の子。

 いつもと変わらない光景がそこにはあった。


 けれども、私一人だけは、前にこの場所に来た時とは大きく変わっているのを感じた。その変化は良いものなのだろうか、それとも悪いものなのだろうか。それは自分でもまだわからなかった。

 もうすぐゴールデンウィークが始まろうとしている。人が変わろうと変わるまいと、季節は勝手に春から夏へと移り変わっていく。私も、自分では意識しないうちに、いつの間にか変わっていくのかもしれない。

 アルバムの半分を聴き終わらない内に、学校についた。


 ◇


「おはよ~! 詩文ちゃん!」

 おそるおそる教室をのぞくとすぐに、谷川さんが弾けるような笑顔で挨拶してくれた。

「お……おはよう~」

 私も今の自分にできる限りの笑顔で明るく挨拶してみる。

「いや~、それでさ~! レヴォンのソロ・アルバムは二枚目もねぇ、これがまた良くて……!」

 さっそく、谷川さんの昨日の話の続きが始まった。よくわからないけれども、まあ、楽しそうに会話できるのは良いことだと私は受け入れてみる。


 教室で私たちが二人で親しく話している様子をみて、クラスのみんなは少し驚いたような、不思議な表情で見ていた。

 谷川さんは、今までクラスの誰かと親しげにおしゃべりをしている姿を見せたことがない。彼女の席は、教室の中でも廊下側の列の真ん中くらいの席。休み時間は、一人で本か雑誌のような何かを一心不乱に読み続けていたし、昼休みにはいつも決まってどこかへ姿を消していた。

 ずっと彼女のことを気にかけていたわけではないのだけれど、今思い返すとそんな印象がある。


 片や、ぼっち脱却のスタートダッシュで盛大にコケてしまった私も、当然のことながらクラスメイトと親しげにお喋りしたことなんてない。

 今までまったく接点がなかった二人が、突然に親友のような雰囲気で接している光景を見れば、何が起きたのかとびっくりしてしまうのも無理はない。

 先生が入ってきて、私は窓際の席に座ると、授業中はずっと、外をぼんやりと見つめながら過ごした。ふわふわと浮かび、流れていく雲。頭の中にはずっと、キャロル・キングの歌が流れている。


 ◇


 昼休み、谷川さんは私の席に自分の椅子を持ってきて、「一緒にお弁当食べよう!」と誘ってきた。

 せっかくできた友達だ。「ガース・ハドソンのオルガンのかっこよさ」について、ご飯粒を飛ばしながら熱く語るような少し風変わりな友達だけど、やっぱり一人で過ごすよりは楽しいものだ。


 ランチを終えると、谷川さんはそそくさと自分のリュックから一枚の紙を取り出した。

「これから職員室に行って、アメリカ民謡研究部の入部届を出してくるね! 詩文ちゃんも一緒に入部届けを出しにいこう!」

 あれ、まだ私、入部するとは明言していなかったような……。でも、谷川さん、変わった子だけど、部活で友達になれるなら……。少し戸惑いも残しつつ、職員室までついていくことにした。


 現在の顧問の先生は、着任して三年目だという、若手の山下麻里亜やました・まりあ先生。眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の知的で大人な女性だ。入部届の紙を受け取った山下先生の言葉に、谷川さんも驚いた様子だった。


「えっ、アメリカ民謡研究部に入部希望ですか? 去年までは誰もいなかったのに、今年はこれでもう、三人になりますね」


 三人……ってどういうこと? 谷川さんと私は、きょとんとして顔を見合わせた。

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