愛する姉(バケモノ)に、最後の口づけを(3)
「エド……」
“タリア”は呆然とした。 予想を完全に裏切るこの真情の吐露に、人の心を弄ぶことを娯楽とする怪物が、初めて「困惑」という感情を覚えたのだ。
「……どうして……?」
エドの手のひらが彼女の頬に密着し、親指が優しく彼女の目尻を擦る。さっきの窒息で滲んだ彼女の涙を、彼が拭い去っていく。
その瞳にもはや憎しみはない。あるのは底知れぬ憐憫と、胸を引き裂くような哀しみだけ。
「どうしてこんなことをするの……」
「どうして最高の希望を見せておいて……それを自分の手で、握り潰させるような真似をするの……?」
彼は身を屈め、彼女の額に自分の額を押し当てた。 互いの鼻先が触れ合う距離。呼吸さえも重なる距離。
「僕がこうして苦しんで……足掻くのを……」
「見ているのが……そんなに楽しい?」
「……タリア……姉さん……?」
その呼びかけは、恋人の囁きのように甘く、優しかった。
そして。 嘘と絶望に満ちたこの部屋の中で。
エドはゆっくりと瞼を閉じ、驚きに微かに開かれたその柔らかな唇の上に、ひとつの口づけを落とした。
「んぅ……!?」
“タリア”の目が大きく見開かれた。 観察し、弄び、嘲笑うことしか知らなかったその瞳に、初めて「空白」の色が浮かぶ。
純粋な悪意と混乱のみで構成された核が、この決意と愛を含んだ口づけによって、かつてない混乱に陥った。無意識のうちに、彼女の微かに開いた唇は、肉体の本能に従い、少年の口づけに不器用に応えようとしていた。
だが、それも一瞬のこと。
エドはゆっくりと体を起こし、その柔らかな唇から離れた。
涙に濡れた瞳が、最後にもう一度だけ、愛憎入り混じる“タリア”を深く見つめる。
「君が……本物の姉さんだったら、どれほどよかったか」
「……残念だけど……君は違う」
言い残し、エドは未練を断ち切った。 彼は“彼女”の上から立ち上がり、背を向け、ドアを開け、一度も振り返ることなく部屋を出て行った。
キスの姿勢のまま固まった“タリア”だけが、薄暗い部屋に一人、取り残された。
“それ”は、虚ろに天井を見上げていた。 華奢な指先が、無意識に自分の唇に触れる。
その時。 先ほどエドの目尻から零れ落ち、“それ”の口元に残っていた涙の雫が、唇の隙間から口内へと滑り落ちた。
「……苦い……」
“それ”は呟いた。 これが、“それ”が初めて味わう、見知らぬ、「悲しみ」という味だった。 言葉にできない、けれど奇妙な悸動を伴う電流が、空っぽのはずの魂を駆け抜ける。
茫然と床から浮き上がり、空っぽになったベッドを複雑な目で見つめ、背を向けて部屋を出た。
だが。 廊下に出た、その瞬間――。
鼻を突く濃厚な、温かい生命特有の鉄錆の臭いが、猛然と押し寄せてきた!
「……まさか!――」
張り付けていた優雅な仮面が崩れ落ちる。 “それ”は残像と化し、濃くなる血の臭いを辿って、厨房へと疾走した!
ドサッ!
「お前!――」
目の前の光景を理解した瞬間、“それ”の輝く瞳から光が消えた。
エドが、血の海に倒れている。 痩せこけたその体は、失血によって激しく痙攣していた。 右手には料理用の鋭利な包丁が握りしめられている。
その刃は、彼自身の脆く白い頸動脈を、深々と切り裂いていた。 鮮血が止めどなく溢れ出し、冷たい床を赤く染めていく。
「ぁ……あ……」
予測を遥かに超えた事態に、“それ”の体が震えだす。 美しい顔の上で、表情制御が完全に暴走する―― 不気味な笑みが浮かぼうとしては、純粋な茫然自失に押し潰され、 冷酷な怒りが爆発しようとしては、名状しがたい切なさに取って代わられる。
最終的に。 “それ”は静かに舞い降り、血の海に膝をついた。 痙攣する小さな体を、壊れ物を扱うようにそっと抱き起こし、胸に抱く。
その時。“それ”の顔に浮かぶ表情は、不可思議なほどに固定されていた。 それは……底知れぬ悲しみと、張り裂けんばかりの心痛に満ちた顔だった。
「どうして……こんなことを……?」
「……理由なんて……ないよ……」
エドは消えゆく命の灯火を燃やし、焦点の合わなくなった瞳をゆっくりと向けた。 目の前にいる“タリア”の表情を見る。
「……ふっ……」
「……そっか……お前でも……そんな顔、するんだな……」
彼は血に塗れた左手を、懸命に持ち上げた。 震えながら、“タリア”の顔へと伸ばす。 死ぬ前に、最後にもう一度……その顔の感触を確かめるように。
ついに。 その氷のように冷たく、粘りつく小さな手が、羽毛のように“彼女”の頬に触れた時。
失血で紙のように白くなったエドの幼い顔に、ゆっくりと…… かつてないほどの、幸福と解脱に満ちた……純粋な笑顔が咲いた。
「……ありがとう……」
パタリ。
小さな手が力なく垂れ下がり、血だまりに落ち、凄艶な血の花を咲かせた。
エドは、おそらくその生涯で最も幸福な表情を浮かべたまま。 彼に最も深い苦痛を与え、けれど最も美しい夢を見せてくれた“姉”の腕の中で、安らかに眠りについた。
死のような静寂が、厨房を支配する。
エドの命が消えると同時に、“タリア”の悲しみに満ちた美しい皮膜が、熱で溶けた蝋のように崩れ落ち、剥がれていく。
偽装が消える。 再び、目鼻立ちのない、惨白で滑らかな……異形の真の姿が露わになる。
だが。 白黒の奇妙な紋様で構成されたその双腕は、優しく抱きしめる姿勢を保ったままだった。 その鋭利な指先で、何度も、何度も、取り憑かれたように。 すでに物言わぬエドの、幸せそうに微笑む幼い顔を、愛おしげに撫で続けている。
今の“それ”は。 その本来何もないはずの顔に。 一体……どんな表情を浮かべているのだろうか?
誰も知らない。 ただ、エドの頬にポツリと落ちた、冷たく、本来怪物のものであるはずのない雫だけが、その答えを知っていた……。
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