「氷室の回廊、千の死顔」(3)
【閲覧注意】 本話には、以下の要素が含まれています。苦手な方はご注意ください!!!
残酷な描写
カニバリズム(人肉食)を想起させる表現
主人公による自傷・自死行為
◇◆◇
通路は、妙に長かった。
揺れる蝋燭の火が、エドの影を歪に引き伸ばす。 下へ行けば行くほど、空気は粘度を増し、肌にまとわりつくように冷え込んでいく。
(……寒い)
エドは身震いし、無意識に細い腕を抱いた。 やがて、足裏の感触が変わった。木の板ではない。カチカチに凍てついた、凍土だ。
階段が尽きる。 頼りない灯りを掲げ、エドは目の前の光景を凝視した。
「ここは……氷室?」
巨大な地下空間。 闇の中に、無数の巨大な氷塊が、まるで墓標のように静かに佇んでいる。森然とした白い冷気が漂っていた。
強烈な違和感が胸を圧迫する。 好奇心に突き動かされ、彼は燭台を掲げ、最も近くにあった氷塊に近づいた。
氷の層は厚く、表面は白く濁っている。 うっすらとだが、中に赤と白の何かが封じ込められているのが見て取れた。 処理された獣肉のようだ。
エドは安堵の息を吐いた。ただの食糧庫だったのか? 彼はさらに奥へと進む。 だが、奥へ行けば行くほど、氷塊の形は……奇妙に歪んでいった。
(これは……何の動物だ?)
エドはある巨大な氷塊の前で足を止めた。 震える手を伸ばし、袖で氷の表面の霜を拭い取る。 燭台を近づける。
揺れる炎が氷面に映り込み、その透明な媒質を通して、中に眠る「それ」を照らし出した。
!!!
瞬間、エドの瞳孔が針の穴のように収縮した。 全身の血液が、一瞬で凍結する。
毛皮はない。 獣の蹄もない。
氷の中に封じ込められていたのは、顔だ。 土気色に変色し、目は固く閉じられているが、口元には未だに人の良さそうな笑みを浮かべたままの、中年男の顔。
――マルクおじさん。
「あ……」
エドの手が痙攣し、熱い蝋が手の甲に垂れたが、熱さなど感じもしなかった。 膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
「な……なんで……」
恐怖が冷たい手となって、心臓を鷲掴みにする。 彼は弾かれたように振り返り、蝋燭の光を周囲に林立する氷塊へと向けた。
彼は駆け寄り、狂ったように次々と氷の霜を拭い取っていく。
ここにはメイおばさん……あそこにはカールおじさん……。 いる。 みんな、ここにいる。
「オエッ……うぅ……」
巨大な恐怖が神経を押し潰し、呼吸さえままならない。 彼はよろめきながら後退り、この地獄から逃げ出そうとした。
だが、振り返ったその瞬間。視界の隅が、最深部の隅にある数個の氷塊を捉えた。
あそこには……何かがいる。 魂の底から湧き上がる、絶対的な戦慄。首がギギギと軋み、強制的にそちらを向かされる。
霜を拭う。 中を見た瞬間、エドの精神は――完全に崩壊した。
「あ……あぁ……」
喉から、壊れたような呻きが漏れる。 そこに凍っていたのは……「自分」だったからだ。
しかも、一体ではない!
ズラリと。 凄惨な死に様を晒す『エド』たちが、そこに並んでいた。
ある者は首にどす黒い絞殺痕を残し、苦悶に顔を歪めている。 ある者は胸を刃物で蜂の巣にされ、血まみれになっている。 ある者は全身に無数の斬撃を受け、乱れ斬りにされた肉塊と化している……。
すべての「エド」が、死ぬ直前の茫然、恐怖、絶望の表情を浮かべたまま、静かに今のエドを見つめていた。
キィィィン――!!!
「ぐっ……あああ……」
鋭利な耳鳴りが脳内で炸裂した。エドは頭を抱え込む。 忘却していたはずの、惨絶極まる死の記憶が、決壊したダムのように理性を飲み込んだ。
――窒息の苦しみ。気管を潰す、あの優しい手の感触。
――肉に食い込む刃の冷たさ。ハナの顔をした怪物が、胸にナイフを突き立てる激痛。
――引き裂かれ、毒殺され、転落死し……。
「やめろ……やめてくれぇぇぇぇ!!!」
数え切れない死。 終わらないループ。 すべての痛みがこの一瞬に重なり、脆弱な神経を狂ったように打ち据える。
「ウプッ……!」
猛烈な吐き気が喉まで込み上げる。 エドは口を押さえ、体の震えが止まらない。
その時だ。 さらに恐ろしい、さらにおぞましい想像が、毒蛇のように脳髄へ潜り込んできた。
彼は思い出した。数分前、キッチンでの出来事を。 彼が手に持っていた、あの肉……。 色はどす黒い深紅で、脂肪が一切なく、キメが異常に細かすぎた「獣肉」。
あれは……。 あれは、まさか……。
「――プツンッ!」
心理の堤防が、決壊した。
「オエェェェェェ――!!!」
エドは凍てついた硬い地面に、激しく膝をついた。 胃袋が激しく痙攣し、胃酸と、言葉にできない恐怖が混じり合ったものが、堰を切って噴き出した。
死寂に包まれた死体博物館の中で。 少年の肺を絞り出すような、絶望的な嘔吐の音だけが、いつまでも響き渡っていた。
「部屋にいないと思ったら……」
聞き覚えがありすぎる声が、頭上から降ってきた。 本来なら優しいはずのその声色は、今は氷水に浸した絹のように冷たく、唯一の出口から幽幽と響いてくる。
「まさか、こんなところまで自分で入ってくるなんて……悪い子ねぇ」
「お……お前……」
エドは魂の底から湧き上がる吐き気と目眩を強引に呑み込み、凍てついた包丁を杖代わりにして、震える体で辛うじて立ち上がった。
「一体……なんの化け物だ――!!!」
「酷い言い草ね、エドちゃん」
薄暗い蝋燭の光の下、“タリア”は優雅にドア枠に寄りかかっていた。 普段の清純さとは異なり、今の彼女の目元には、心臓を凍らせるような妖艶さが漂っている。彼女は狼狽する少年を見下ろし、完璧な笑顔を浮かべた。
「大好きなタリアお姉ちゃんを捕まえて『化け物』だなんて……お姉ちゃん、傷ついちゃうなぁ? ん?」
「黙れェェェ――!!!」
エドは喉が裂けんばかりに絶叫した。
「その姿で、その声で喋るな! 反吐が出るんだよ! 姉さんを返せ! 正体を現しやがれ、この薄汚い……化け物がァ――!!!」
許せなかった。 自分の中で最も神聖な存在が、これほど汚らわしいモノに冒涜されていることが。
「ふふっ……」
“タリア”は口元を隠して笑う。その瞳の奥には、底知れない闇が広がっていた。
「正体? 本当にいいの?」
「まさか……忘れたわけじゃないでしょ?以前、『私』の真の姿を見たお前が……どれほど無惨に死んだかを」
ブォン――!
その言葉は、錆びついた鍵のように、限界を迎えていたエドの脳を強引に抉じ開けた。 名状しがたい恐怖の記憶が、黒い濁流となって脳内に逆流する!
――異常に細長く、ねじれ、引き伸ばされた異形の影。
――呼吸するかのように蠢く、白黒の不気味な紋様で構成された『皮膚』。
――そして……目鼻立ちの一切ない、不吉な記号だけが焼き付けられた、ツルリとした惨白な頭部……。
「あ――! あがあぁ……あアアアアアアア――!!!」
エドは人ならざる悲鳴を上げた。 彼は燭台を投げ捨て、両手で頭を死ぬほど強く抱え込み、狂ったように近くの硬い氷塊に何度も頭を叩きつけた!
ガン!ガン! ガン!
額が割れ、鮮血が流れ出して視界を塞ぐ。 だが、恐怖の残像は脳裏にこびりついて離れない。魂ごとすり潰そうとしてくる。
「はぁ……本当に聞き分けのない子」
エドの狂態を見下ろし、“タリア”は呆れたように首を振る。
「掘り出さなきゃ……これを……掘り出さないと……」
エドは震える手で、右手の包丁を持ち上げた。 焦点は合わず、瞳には狂気だけが宿っている。
「俺の脳みそから……出て行け……出て行けェェェ!!!」
ザシュッ……
ザシュッ……
ザシュッ……
悪夢のような異形の姿を、記憶の中から物理的に掘り起こそうとするかのように。 無意識のうちに、エドは包丁の切っ先を、自分の頭皮に何度も突き立てていた!
「おい! ガキ、よせ――」
流石の怪物も異変を察知し、制止の声を上げようとした。
「うああああああああ――!!!」
ズブリッ!!!
肉を貫く鈍い音。 エドは渾身の力で、包丁を根元まで、自分のこめかみに突き刺していた!
少年の体が、一瞬にして硬直する。 瞳の光が消える。 そして、糸の切れた人形のように、棒立ちのまま後ろへと倒れた。
ドサッ!
氷室に再び死寂が戻る。 凍土の上を、鮮血が広がる微かな音だけを残して。
「……チッ」
“タリア”は階段の上に立ち、心底つまらなそうに溜息をついた。
「刺激が強すぎたかしらね。早まったわ」
“それ”は優雅な足取りで降りてきた。 血の海に沈み、すでに事切れたエドを見下ろし、その声には僅かな未練が混じる。
パチン。
“それ”が軽く指を鳴らす。
次の瞬間。 陰湿で冷たい氷室は消滅した。 代わりに現れたのは、陽光と温もりに満ちた、あの見慣れたログハウスの寝室だった。
“タリア”はエドを優しく、壊れ物を扱うように柔らかいベッドへ寝かせ、甲斐甲斐しく布団を掛けてやる。
熟睡する少年を見つめながら。 “それ”は白皙の手を伸ばし、その掌に不吉な暗赤色の光を纏わせると、エドの綺麗な額にそっと押し当てた。
その直前まで、そこには致命的な風穴が開いていたはずだった。 だが今、傷口は時間を巻き戻したかのように急速に塞がり、傷跡一つ残さず完治していく。
「やっぱり……この不愉快な『記憶』は、もう一度消しておかないとね」
「そうじゃないと、次の『ゲーム』で、私が楽しめなくなっちゃうもの」
暗赤色の光が浸透するにつれ、エドの苦悶に満ちた眉間がゆっくりと解け、呼吸は穏やかで深くなっていく。
全てを終え、“タリア”の完璧な仮面を被ったその顔が、ゆっくりと近づく。 細い指先が、少年の瞼、鼻先をなぞり……。 最後には、その柔らかな唇の上で止まった。
「うふふ……♪」
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