「氷室の回廊、千の死顔」(1)

【閲覧注意】 本話には、以下の要素が含まれています。苦手な方はご注意ください!

残酷な描写

カニバリズム(人肉食)を想起させる表現

主人公による自傷・自死行為

◇◆◇



『……エド……』


『……エド……?』


声がする。 死に絶えたような暗闇の中で、微かな呼び声が響いている。

途切れ途切れの啜り泣く声。それは一本の細い糸のように、エドの沈殿した意識の深海へと垂らされていた。


(……誰だ?)

その声はひどく悲しげで。聞き覚えがあるのに、名前が思い出せない。


『……お願い……早く目を覚まして……』


目を覚ます? どこへ?

エドは無意識に動こうとした。 その時、彼は感じ取った――。

右手が、握られている。とても柔らかく、きめ細やかな手が、優しく彼を包み込んでいる。


ポタ。 ポタ。


何か温かい液体が、手の甲に落ちた。


(……涙?)


その温度に、理由のない胸騒ぎを覚える。 左手でその温もりを確かめようとするが、指先は虚空を掴むだけだ。


(……え?)


確かに、強く握られている「感覚」はある。 手の甲には、涙の湿った感触さえ残っている。 なのに……なぜ目の前は暗闇なんだ? なぜ何も触れられない?




『……ごめんね……エド……本当に……ごめんなさい……』


泣き声が再び響く。 今度は、誰かの手が彼の頭に触れた。 一度、また一度。 慈愛に満ちた、優しい手つきで撫でられる。


「……」


その優しさに、エドは本能的に縋りたくなった。 だが直後、声と感触が急速に遠ざかり始めた。まるで糸の切れた凧のように。


(ま、待って――!)


(行くな!!!)


(誰なんだ!?……一目でいい、顔を……!)


行かないでくれ! 僕を一人で、こんな場所に置いていかないでくれ!


エドは全力を振り絞り、鉛を流し込まれたように重い「腕」を伸ばした。 消えゆく温もりの源へ、なりふり構わず―― 猛然と手を伸ばす!



ブオン――!!!



指先が触れた瞬間、闇が砕け散った。 眩い白光が洪水のように炸裂し、意識は見えざる巨人の手によって深淵から引きずり出され、強烈に弾き飛ばされた!


◇◆◇


「――ハァッ!!!」


エドは弾かれたようにカッと目を見開いた!

目に映ったのは、見慣れた木造の天井。


鼻腔を満たすのは、安らぎを覚える薬草の匂い。 そして……。 どこかで嗅いだことのあるような、微かで、けれど心を蕩けさせるような……甘い少女の香り。

背中の感触も、冷たい虚無ではなかった。 記憶にあるどの寝台よりも柔らかく、暖かい布団の感触がそこにあった。


「……うぅ……」


意識が戻っても、頭はすっきりとしなかった。 代わりに襲ってきたのは、骨の髄まで吸い取られたような、泥のような疲労感。

分厚く暖かい布団に包まれているはずなのに、体の芯には、拭い去れない寒気がこびりついていた。


「僕……どうしたんだ……?」

エドは歯を食いしばり、渾身の力を振り絞って、鉛のように重い上体を起こす。 ぼんやりと周囲を見渡した。 空気には淡い薬草の香りが漂い、窓辺には見慣れた小さな花瓶が置かれている。


「……ここは……タリア姉さんの部屋?」

「……なんで……僕……ここに……?」

頭の中が霧に包まれているようだ。エドは無意識に頭を振った。


「……っ、いた……」

彼は苦痛に呻き、ズキズキと脈打つこめかみを強く押さえた。



ギィ――。


その時、素朴な丸太作りのドアが、そっと押し開けられた。


「ん? あら、やっと目が覚めたのね。エドちゃん」

弾むような声と共に、見慣れた人影がトレイを持って入ってきた。 起き上がっているエドを見ると、その清らかな顔に、雨上がりの空のような晴れやかな笑顔が咲いた。


「タリア……姉さん?」

エドは確かめるように名を呼んだ。 突然現れた彼女の姿に、なぜか心の奥底で、強烈な……違和感が湧き上がる。


「ほら、まずはこれを飲んで」

彼女は水が入ったコップと、数粒の白い錠剤を口元に差し出した。


「ちょっと苦いけど、これを飲んで寝れば、すぐに楽になるわよ」


「……うん、ありがとう」

すぐそばにある温もりを前にして、心の中の警戒心は瞬く間に溶けていった。 エドは聞き分けのいい子供のように、大人しく口を開け、薬をぬるま湯と一緒に流し込んだ。



ゴクリ。


「うぅ……! に、苦いぃ……」


舌を刺すような苦味が口いっぱいに広がり、エドの顔は一瞬にしてくしゃくしゃになった。


「くすっ」


「ごめんごめん~」

彼女は茶目っ気たっぷりに片目をつむり、ピンク色の舌をペロッと出した。

「『良薬は口に苦し』ってね。我慢して偉い偉い。あとでご褒美の飴をあげるから」



(……!!!)


自分にしか見せない、その無防備で愛らしい仕草を見て、エドの心臓がトクン、と大きく跳ねた。

普段はしっかり者の姉が、今はまるで少女のように自分に甘えている。 その「特別扱い」に、少年の耳が熱くなった。


(姉さん……それは反則だ……)


「あ、そうだ!」


タリアは唐突に何かを思い出し、ポンと自分の額を叩いた。


「もう、看病に夢中で、大事なことを忘れてたわ……。エドちゃん、ここでいい子にして待っててね。すぐ戻るから!」


(……久しぶり……?)


(姉さんはずっと側にいたはずなのに……どうしてこんなに『懐かしい』なんて感じるんだ?)



ガチャリ。素朴な木のドアが再び開かれ、エドの思考を遮った。


「随分眠ってたものね。お腹、ペコペコでしょう?」


タリアがトレイを持って入ってきた。それは、出来立ての肉団子スープだ。 じっくり煮込んだ骨付き肉の濃厚な香りと、野菜の甘みが混じり合い、強引なまでに鼻腔をくすぐる。眠っていた味蕾が一気に目覚めた。



ぐぅぅ~~


条件反射のように、エドの空っぽの胃袋が盛大に抗議の声を上げた。


「うぐ……」 エドは気まずさに顔を赤らめ、慌ててお腹を押さえた。


「プッ……ふふ、どうやら相当お腹が空いてるみたいね」

タリアはトレイをサイドテーブルに置くと、目尻を下げて微笑んだ。

「さあ、まずは何か食べましょう。体力をつけなきゃ」


「うん! ありがとう!」

エドは無意識に手を伸ばし、魅惑的な香りを放つスープを受け取ろうとした。 しかし、指先が器の縁に触れる前に、温かく柔らかな手にそっと押し留められた。


「だー・め! 病人は病人らしく、大人しく寝てなさい」


言いながら、彼女は器を持ち上げ、トロトロに煮込まれた肉団子をスプーンで掬うと、口元でフーフーと息を吹きかけた。


「フー……フー……」 優しい吐息には、蘭のような微かな香りが混じっている。


「はい、冷めたわよ。口を開けて――あーん」

スプーンが口元に差し出される。 至近距離にある姉の顔、そしてまるで赤ん坊をあやすようなその仕草……。


(こ、これは流石に……)


エドの頬がカァッと熱くなる。以前も病気の時はこうだったはずなのに、なぜか今日は格別に恥ずかしく、心臓が早鐘を打っていた。


だが、拒めない。いや、拒みたくない。 エドは餌を待つ雛鳥のように、大人しく口を開いた。



パクリ。


「どう? 味、薄くない?」


「ううん……」 エドは咀嚼して飲み込み、満足げに目を細めた。

「すごく美味しい……それに、温かいよ」


「そう? ならよかった~」

その幸せそうな様子を見て、タリアも心底安心したように微笑んだ。

「口に合わなかったらどうしようかと思ってたの。ほら、もう一口」


「ん……♪」


一口、また一口。 その甲斐甲斐しい世話のおかげで、スープの器はあっという間に空になった。


お腹も満たされ、体も温まる。二人はいつものように、他愛のないお喋りをした。


やがて、抗い難い強烈な睡魔が、温かい潮のようにエドを包み込み始めた。



「ふあ……」 エドは欠伸を漏らし、体がずるずると布団の中に沈んでいく。


「眠くなった?」 タリアの声がいっそう柔らかくなる。 彼女はエドの枕の位置を直し、掛け布団を掛け直し、隙間がないようにしっかりと包み込んだ。


「おやすみ。薬が効いてきたみたいね」


「……姉さん……どこへ……?」 エドは重い瞼をこじ開けるが、視界はすでに霞んでいる。


「裏山に新鮮な薬草を摘みに行ってくるわ。明日の支度があるから、少し帰りが遅くなるかも」

タリアは身を屈め、エドの前髪を指先で優しく梳いた。

「もし途中で目が覚めてお腹が空いたら、台所の鍋にスープがあるから。温めて食べるのよ、いい?」


「うん……わか……った……」

エドの意識は急速に遠のき、舌がもつれて、曖昧な返事しかできない。


夢うつつの中、額に温かいものを感じた。 それは蜻蛉(かげろう)が水面に触れるような、軽やかで湿った口づけ。


「いい子ね」

慈愛に満ちた囁きを残し、足音が遠ざかり、ドアが静かに閉まる。


額に残る微かな余韻と香り。 エドは柔らかな枕に頬を擦り寄せ、かつてない安心感に満たされた。


かけがえのない安らぎと共に、意識は久しく忘れていた、甘く夢のない深い眠りへと沈んでいった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る