「嗤う亡霊と、終わらない悪夢」(3)

夕食が終わると、ミウサ師匠は「新婚さんのお邪魔はしないよ」と、わざとらしい口実でニヤリと笑い、颯爽とタリアの山小屋を去っていった。


夜風がコトリと窓枠を揺らし、室内の燭台の光が、やけに暖かく見える。ほどなくして、浴室からザーザーという水音が響き始めた。


(……なんで、こんなことになってんだ?)

エドの声は湯気にほとんど飲み込まれ、顔だけが熟れたリンゴのように真っ赤になっていた。

彼は木のスツールの上でこれ以上ないほど縮こまり、いっそ膝の間に頭を埋めてしまいたい。

タリアのしなやかな指先が肩や背中を掠めるたび、その感触がピリリと細い電流となって項を駆け上がり、ビクッと意に反して体が跳ねる。


「リラックスしなさい、エド。今日は力が入りすぎよ」


「し、してない!」


湯気が立ち込める中、薬草と花の甘い香りが混ざり合い、空気までが淡いピンク色に染まったようだ。

タリアの動きは、まるで壊れやすい薄ガラスを拭うかのように柔らかく、丁寧だ。


「はい、こっち向いて」


「えぇっ!?」


「まだ前が洗えてないでしょ」


「い、いい!自分でやるから——」


「だーめ」


彼女はクスクスと笑いながら、逃げようとするエドの肩を押さえる。


「もう、そんな汗臭い男の子のままじゃ、女の子に嫌われちゃうわよ?」


「で、でも、本当にできるって——」


エドはパニックのまま立ち上がり、出口に向かおうとしたが、運悪く濡れた床に足を取られ——「ドボン!」 盛大な水音を立て、浴槽の中へ仰向けに転げ落ちた。


「ぷっ……あははっ!」

タリアは堪えきれず、銀鈴を転がすような笑い声をあげる。

一歩近づき、手を差し伸べて彼を引き起こそうと—— した、その時。 不意に、彼女の視線がエドの足の付け根あたりに落ち、ピタリと笑い声が止まった。


「……ちっ。ほんと、ガキなんだから。何考えてんのよ」

彼女の目に、一瞬だけ悪戯っぽい光が宿る。エドは引っ張り上げられ、再びスツールに座らされた。


『カァァッ!』

エドの頬は湯気よりも熱く、慌てて「そこ」を手で覆い隠す。


「ち、違う!これは生理現象だ!不可抗力!本当だって!」


「あら、そう?でも、前は……こんなじゃなかったわよ?」


「そ、それは仕方ないだろ……だって、姉さんが……っ」


「ん?私がどうしたって?」


「な……なんでもない!」


エドは顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。

口では必死に否定しながらも、視線だけが情けなくも彼女を追う。


湯気に霞む、タリアの柔らかな横顔。微かに震える長い睫毛。光を帯びた鎖骨。お湯で上気し、ほんのりピンク色に染まった肌……。

視線が、まるで磁石に引き寄せられたように、動かせない。


彼女が彼の額の髪を優しく拭き終えるまで、その甘い拷問は続いた。

浴室から出てきた時、エドの意識は未だにふわふわとして、魂だけが湯気の中を漂っているかのようだった。


タリアは手伝いで濡れた上着を脱ぎ、エドに清潔なガウンを着せると、ベッドサイドで彼の濡れた髪を優しくタオルで拭いてやる。その一連の動作には、当たり前の親しみがこもっていた。

小屋の蝋燭がそっと吹き消され、月の光が薄い紗のように部屋に差し込む。

タリアは布団に潜り込むと、いつもの定位置であるかのように、背後から自然にエドを抱きしめた。


!!!


背中にピタリと密着する、あの驚くほど柔らかく、圧倒的な二つの膨らみ。 冷えかけたはずの体が、再び『カッ』と内側から燃え上がる。


「まだ緊張してるの?」

タリアのクスクスという笑い声が、耳元で夜鳴き鶯のように甘く響く。


「う、うん……」


「おかしな子。数日前までは、自分から『抱っこして寝て』ってせがんでたくせに」


カァァッ!

エドの顔面が、今度こそ沸騰した。


(ああああっ!もう言うなあああ!)


こんな羞恥は耐えられない。穴があったら入りたい。

確かに、昔の自分はタリアに近づきたくて、いつも自分から抱っこして風呂に入ったり、一緒に寝たりして、その胸の柔らかさに安心していた。

そこには邪な気持ちは微塵もなく、ただ純粋な、母親に向けるような思慕があっただけだ。

でも、今は違う。


(……待て)

(違う?)


まるで頭から冷たい水を浴びせられたように、エドの中の甘い火照りが、急速に冷却されていく。

その代わりに浮かんだのは、言葉にできない、冷やりとした——「違和感」だった。


(なんで……『今は』違うんだ?)

(だって……姉さんはここにいる。師匠だって元気だ……)

(これって……俺が一番望んでいた『日常』じゃないか?)

(……『望んでいた』?)


錆びた釘がゆっくりと脳に打ち込まれるような、薄気味悪い感覚が走る。


(なんで俺は……『師匠と姉さんが生きている』この状況を、まるで“当たり前じゃない”みたいに感じてるんだ……?)


(違う……)


(違う、違う、違う……!)


(俺は……何か忘れてるんじゃないか?)


(すごく……『大事』で、『残酷』な何かを)




エドは困惑しながら固く目を閉じ、必死に記憶の底を探ろうとする。


(なんだ……?炎か?血の匂いか?……誰かの、悲鳴か……?)


(……思い出せない。なんでだ……!)


心に刻み込まれているはずの光景が、まるで水に浸った古い画用紙だ。輪郭はぼやけ、色は褪せている。掴もうとすればするほど、それは指の間から溶けていき、後には空白と、肌を刺すような冷たい恐怖だけが残る。




「エド?」


「……うん?」

タリアの心配そうな声が、エドの混乱した思考を遮った。


「どうしたの。さっきから体がピクピク震えてるけど」


「え……そうか?」

(俺、震えてたのか?)

彼はタリアの方へと寝返りを打つ。窓から差し込む月明かりが、間近にある彼女の整った顔をぼんやりと照らしていた。その綺麗な瞳が、不安げに自分を覗き込んでいる。


(……あぁ、姉さんだ。姉さんが、ここにいる。大丈夫だ)

その暖かい体温と、髪を撫でる柔らかな感触は、最高の麻酔薬のようだった。さっきまでの冷たく鋭い違和感は、彼女に見つめられるうちに、再び強引に意識の底へと押さえつけられ、曖昧で遠いものになっていく。


「……なんでもない」エドは首を振った。その声には、自分でも気づかない疲労の色が混じっていた。


「たぶん、姉さんとこんなに近づくのが久しぶりで……ちょっと、緊張してるだけかも」


「ふふ、馬鹿な子」

タリアは、怯えた子猫でもあやすように、優しく彼の髪を掻き撫でる。

「おやすみ。明日はまた山に薬草採りに行くんだから、しっかり寝ないと」


(……そうだ。明日は薬草採りだ。……考えるのは、やめよう)

慣れ親しんだ安心できる体温に包まれ、エドの強張っていた神経が、ゆっくりと、しかし確実に解けていく。

彼女の柔らかな腕の中で、エドは目を閉じ、意識は深く、安らかな眠りの中へと沈んでいった。



…………


どれくらい時間が経っただろうか。


深い眠りの中、エドは何かが自分の体の上に重くのしかかってくるのを感じた。

呼吸がまるで深海の水圧に押さえつけられているかのようだ——重く、冷たく、身動き一つできない。




(……なんだ……これ……息が……苦しい……!)

苦痛の中、エドは本能的に体の上にある「それ」を押しのけようとするが、両腕は鉛のように重く、目を開けることさえままならない。




(う……うぅ……たす……けて……タリア、姉さん……っ)

生への本能か、あるいはその名前が最後の力を呼び起こしたのか。エドの意識が爆発し、この形のない暗黒から懸命にもがいた。


(んん……ぐ……っ……はああああっ!)

猛然と、エドは目を見開いた!


「はっ、はっ……!」

荒い息をつき、ただの悪夢だと思おうとした。 だが、目の前の光景が、彼の全身の血液を、瞬間に凍らせた。


目の前——タリアが、自分の上に跨っていた。

白く、美しく、かつて優しく自分の髪を撫でてくれたはずのその両手が、今、力の限り彼の喉を絞めている!


そして、最も恐ろしいのは……彼女の顔。

彼が熟知し、日夜焦がれたその愛しい面影は……そこにはなかった。

代わりにあったのは、のっぺりとした滑らかな皮膚。目も、鼻もない。

——ただ、左耳から右耳まで、無慈悲に裂けた、巨大な口だけが存在していた。

その口が、彼に向かって、陰湿で歪みきった笑みを見せつけている。


エドは恐怖に叫び、彼女を押しのけようとしたが、四肢は再び金縛りにあったように動かない。

叫ぼうにも、抗おうにも、あの優しかった手が冷たい鉄の万力のように喉を締め上げ、声にならない。


「おま……おまえ……いったい……なに……」


彼にできるのは、喉の奥から「ヒュ……ヒュ……」という、空気の漏れる音を立てることだけだった。



キィィン、と。


刺すような耳鳴りがすべてを圧し、世界そのものが彼の頭蓋の中で狂ったように絶叫している。

裂けた大きな口から、タリアのようでタリアではない、いくつもの声が重なり合った「それ」が響く。その声は耳鳴りを貫通し、直接、脳に焼き付けられた。



「素晴らしい……そう、その恐怖の表情だ」


(やめろ……!)

(誰か……助けて……!)


「ああ……おまえの恐怖は、私が喰らったどの魂よりも、格別に美味だ」


(ぐ……っ!ぁ……!)


肺が燃え盛る炭火のように灼けつく。

本能的に口を大きく開くが、一筋の空気さえ入ってこない。視界の端から急速に黒く染まっていく。まるで墨汁に侵され、飲み込まれていくようだ。

暗闇の中で、目の前の“顔”がぼやけていく。ただ、あの裂けた、歪んだ“笑み”を浮かべる巨大な口だけが、異常なほど鮮明だった。


「エド——」


(あ……)

(タリア、姉さん……)

(……たすけ……)


だが、その思考は、より深い絶望によって断ち切られた。

その冷めきった認知は、窒息の苦しみそのものよりも、エドの心を折った。 彼は、もう、もがくのをやめた。

冷たんさ、不安、焦燥……そういった感情は、もうどうでもよかった。 残っているのは、完全に打ち砕かれた、純粋な“無”だけだ。


意識が体から引き剥がされていく。


その、完全に沈む最後の刹那。 既に焦点の合わなくなった彼の視界の隅が、窓の外の空を捉えた。


その空は……おぞましいほどに、赤かった。

一つの真紅の月が、血の夜空に高く浮かび、まるでこの“饗宴”を冷めた目で見つめているかのようだった。

そして、すべてが……永遠の闇に飲み込まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る