【完結】『覚めない悪夢 ~愛する姉に、最後の口づけを~』
M-mao
「嗤う亡霊と、終わらない悪夢」(1)
「エド……エド、起きなさい——」
パン、パン——
聞き慣れた声が、夢と現の境界から聞こえてくる。
低く、穏やかで、歳月を感じさせる落ち着いた声。
それと同時に、ゴツゴツとした豆だらけの手が、軽く頬を叩いていた。
(この声……この感触……いや、ありえない……あの人は、とっくに——)
エドの喉が微かに震える。
怖い——とうに血に汚れたこの手では、もうこの温もりに触れる資格などないのではないかと。
だが、その渇望は胸の内で膨れ上がり、沸き立ち、心の奥底から溢れ出しそうになる。
やがて、まつ毛が微かに震え、重い瞼がゆっくりと持ち上げられた。
幾重にも重なった木々の葉を抜け、細かな金色の光が降り注ぐ。
風は青草の匂いと、夏特有の熱を運んでくる。
彼は目の前の光景を—— 見慣れないようで、それでいて、胸が痛むほどに懐かしいその光景を、ただ呆然と見つめていた。
彼の傍らには、青い布服をまとった中年男性が、困惑と気遣いの入り混じった表情で、彼を覗き込んでいた。
「ミ……ミューサ師匠……? し、師匠は……生きて……?」
ミューサは一瞬きょとんとしたが、すぐに噴き出し、エドの乱れた髪をくしゃくしゃと掻き撫でた。
「おいおい、寝ぼけてるのか、このガキ。俺に殴られて気を失ったからって、起きた途端に俺が死んだみたいな呪いの言葉を吐くんじゃねえよ、まったく」
エドの唇が微かに開くが、声にならない。 喉に何かが詰まったように、息苦しい。
(これは、夢か? それとも……奇跡か?)
その屈強な胸板を、狂ったように目で探る。
そこにあるのは、過去の戦で負った古傷や、森で魔物と戦った生傷の痕ばかり…… 体を貫通する、あの悍ましい剣傷はない! ルグナーにつけられた、あの無慈悲な痕跡も!
「お、おい! 何しやがるんだ、このガキ!」
ミューサは驚いて体を強張らせ、何とも言えない複雑な表情を浮かべる。
気まずそうに身を引こうとしながら、無精髭の生えた顎をポリポリと掻いた。
「お前、殴られて頭がおかしくなったか? 俺はタリアじゃねえぞ!」
その一言が、エドの最後の理性を粉々に打ち砕いた。 そうだ、傷がない。 これは、現実だ。師匠は、生きている。
(幻覚なんかじゃない……本当だ! 師匠が生きてる!!!)
涙が堰を切ったように溢れ出し、ミューサの輪郭が滲んでいく。 もう、抑えきれなかった。
彼は、その懐かしい胸に、今度こそ顔を埋めた。
「師匠——! 師匠——! 会いたかった、会いたかったんだああああ……! うわああああああ——!!!」
悲鳴のような、引き裂かれた泣き声。
抑え込んできた歳月、心を蝕むほどの思慕、言葉にできなかった苦痛のすべてが、この瞬間、決壊した。
ミューサは一瞬呆気に取られたが、やがて困惑したように溜息をついた。
「お前なぁ、一体どんな夢見てたんだか……起きた途端に、まるで別人じゃねえか」
ボサボサの後頭部を掻きながら、その顔には諦めたような苦笑いが浮かんでいる。
だが、彼はそれ以上何も聞かなかった。
ただ、そのゴツゴツとした信頼できる掌で、エドの背中を、一回、また一回と、優しく叩いていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
エドの泣き声がようやく収まる頃、空高くにあったはずの太陽も静かに西へと傾き、空を茜色と金色に染め上げていた。
大きな影と小さな影。
二人は、まるで本当の親子のように、夕焼けに染まる丘の上、静かに並んで座っていた。
腕の中の温もりが、ようやくエドの心を落ち着かせ始めた。
彼は気まずそうに顔を上げると、師匠の服が自分の涙と鼻水でぐっしょり濡れているのに気づく。
慌てて袖でごしごしと顔を拭った。
「ご、ごめんなさい……師匠……おれ、さっき……悪い夢を……」
「すごく……怖い夢で……師匠も、タリア姉さんも……みんな……みんないなくなっちゃう夢で……だから……目が覚めて、つい……」
「ぶははははは——! 冗談だろ、エド小僧!」ミューサは一瞬きょとんとしたが、すぐに腹を抱えて大笑いした。
「お前と知り合って長くなるが、こんなボロボロ泣くお前は初めて見たぜ! ぶはははは!」
エドは師匠の屈託のないからかいを気にするでもなく、むしろその久しく感じていなかった懐かしさに、照れくさそうに笑ってみせた。
「よしよし、もういいだろう。そろそろ帰るぞ」ミューサは笑うのをやめ、エドの頭をぽん、と叩いた。
「日が暮れちまう。さっさと帰らねえと、今度はタリアの奴に耳を引っ張られて半日は説教だ」
「うん!」 エドは力強く頷き、その顔にようやく心からの笑顔が戻った。
◇◆◇
林の中を、二つの影が疾風のように駆け抜けていく。
前を行くミューサは、体格こそがっしりしているが、その動きは猿のように身軽だ。太い枝を踏みしめる度、水面を点くように軽やかで、ほとんど音を立てない。
対照的に、ミューサの少し後ろを追うエドは、小柄で素早いものの——
パキッ!
踏みつけた枝が、体重に耐えきれず乾いた音を立てる。
ザザッ……
強く蹴りすぎたせいで、葉が揺れ動く。
「お? 少し上達したじゃねえか、エド」
「……え? あ、はい!」不意に声をかけられ、エドは足元を滑らせそうになり、慌てて体勢を立て直す。
「い、一応……お、俺、最近ずっと……こっそり、倍練習してたんで……」
「ほう、その努力は認めてやる」ミューサは笑った。
「だが、呼吸と歩法がまだ合ってねえ。いいか——技術は所詮補助だ。それに縛られて、お前本来の勘を鈍らせるな」
「——はい!」
エドは恭しく返事をしながらも、その胸は微かにざわついていた。
(おかしい……)
はっきりと覚えている—— “昔”の自分なら、こんな高速移動の練習で、師匠についていけるはずがない。
背中どころか、その影すら見えなくなるはずだ。
(なのに、俺は……今、師匠の速度に追いついている?)
◇◆◇
大きな影と小さな影が、ようやく森を抜け出た頃には、村はとっくに柔らかな夕暮れに包まれていた。
ミューサは足を止め、無骨な腕で額の汗を拭う。
その顔には、思い切り体を動かした後の、爽快な満足感が浮かんでいた。
一方、エドはずっとみじめな有様だった。
彼はミューサの傍らに“ぶら下がる”ようにして、その鉄のように硬い太腿に必死にしがみつき、ぜえぜえと激しく息を切らしていた。
「こら——!二人とも、今頃やっと帰ってきたの——!!!」
澄み渡っているのに、妙に張りのある、それでいて耳に心地いい叱責の声が飛んできた。
その瞬間、エドの呼吸が止まった。
肺が焼けるような痛みさえ忘れ、彼はその場に凍り付く。ただ夢遊病者のように、小屋の入り口に立つその人影を、呆然と見上げていた。
夜風が少女の深い紫色の髪を揺らす。
彼女は動きやすい赤の魔術師用短衣の上に、紫の法衣を羽織っていた。
その、本来であればただ優しく、輝いているはずの顔は、今、「怒り」で真っ赤に染まっている。おまけに、ピンと尖った耳が不満そうにピクピクと震えていた。
「おう……そりゃあ……悪い、年だな、物忘れがひどくて……あはははは!」
「へらへら笑って誤魔化さないで、このいい加減なオッサン——!!!」
少女はもう慣れたもの、といった様子で、怒ったふりをしながらも鋭く言い返す。その桜色の唇からは、小さな八重歯がちらりと覗いていた。
一方、エドは——ただ呆然と、そこに突っ立っていた。 “ありえないはず”の顔を、見つめて。 記憶の中で、焦がれるほどに思い詰めたその瞳を、見つめて。
心臓が、ぎゅっと縮こまった。
(タリ……ア……姉さん……)
つん、と鼻の奥が痛くなる。 何の予兆もなしに、涙が熱い筋となって頬を伝い落ちた。
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