Lost Memory ―遺された楽譜を追う、王国剣士の物語―

Child-Dream

第一話 蒼月の夢

 骨の奥まで凍りつくような冷気が、洞窟の闇を満たしていた。

 天井の裂け目から覗く夜空には、蒼い月がひっそりと浮かんでいる。


「……もう少しで村ですよ、サミルさん」


 隣を歩く若い剣士が、震える息を抑えながら笑う。

 額には汗、けれど瞳だけは真っすぐで、まるで子どもみたいに輝いている。


「こんな身も凍る洞窟でも、故郷につながっていると思うと……胸が高鳴ります」


 サミルと呼ばれた男は、肩にかけた革鞄の重みをそっと支え直した。

 その中には――誰にも渡してはならない“何か”が収められている。

 革越しに伝わる、微かな脈動。

 それは、忌まわしくも貴く、大切な品だった。


「……すまないな、ライザー」

「え?」

「私のような年寄りの護衛さえなければ、君はとうに故郷に戻れていただろうに」


 ライザーと呼ばれた青年は、きょとんと目を丸くし、それから首を横に振った。


「何を言うんですか。帰郷と、あなたの護衛。両方を果たせる旅なんて……むしろ光栄ですよ」


 笑いながらそう言う声音に、嘘はなかった。

 それが余計に、サミルの胸を痛ませる。


 ――巻き込みたくは、なかったのだ。


 そのとき。

 カチリ、と足もとが鳴った。


「……?」


 反射的にサミルが足を止める。だが遅かった。

 洞窟にひびく、金属のきしむ音。頭上の岩肌から、鋭い鉄槍が雨のように降り注ぐ。


「危ない!」


 ライザーがサミルの肩を突き飛ばした。

 二人がさっきまでいた空間を、鋭い槍がずぶずぶと穿ち、石片が飛び散った。

 サミルは岩壁に背中を打ちつけ、胸の奥で嫌な音を聞いた。


「……げほっ……!」

「大丈夫ですか!」


 駆け寄ってくるライザーの声。その背後に、まだ見ぬ殺気がじわじわと満ち始めていた。


「罠……追手が、ここを通ると読んで仕掛けたものです」


 ライザーが剣に手をかける。

 サミルは苦痛の中、革鞄を強く抱きしめた。

 ――やはり、これが狙われている。


「ここで、別れよう」


 サミルは、ゆっくりと立ち上がった。肋骨の奥に鈍い痛みが走る。


「……え?」

「今まで護衛してくれて、感謝している。君はもう十分に職務を果たした。これ以上、つき合わせるわけには――」

「……十分? それは逆ですよ」


 ライザーの声が、かすかに震えた。


「あなたは王国から大切な何かを持ち帰り、それを守ろうとしている」

「……」


 サミルは沈黙する。だが、彼には告げておくべきと思った。


「その通りだ。ある方の願いが託された品物で、王国の命運さえ握るかもしれぬ」


 ライザーは、まっすぐサミルを見据えた。


「では、私は尚更あなたをお守りせねば」


 洞窟の奥から、足音が近づいてくる気配がした。

 じわり、と冷たい殺気がにじむ。


「子どもの頃、病弱だった僕を医師のあなたが救ってくれた」


 ライザーは一歩、前へ出た。


「その時から、僕も誰かのために力を注げる人間になりたいと思い――、剣の修養を積んできました」


 サミルは目を閉じた。――彼を巻き添えにして死なせるわけにはいかない。


「今、この力を使わずして、いつ用いろというのでしょうか」


 足音が近い。闇の中から、刃の光がいくつも浮かび上がる。


「サミルさん、僕がここで食い止めます。その間に走ってください」

「いや、私はもう長くはもたん。君は君自身の活路のために――」

「義人のために剣を振るうことこそ、剣士の本懐ですよ」


 ライザーは、剣を抜いた。

 蒼い月光が、刀身にすべった。


「……蒼月流、奥義――」


 洞窟の水脈がうねる気配がした。岩の隙間から染み出した水が、彼の足もとへと集まり、冷気を帯びて霜柱のように立ち上がる。

 盗賊たちの影が、闇からあらわれた。


「行ってください」


 ライザーは振り返らずに言う。


「あなたが戻らなかったら、クローヴィスが悲しみます」


 サミルの息が詰まる。――クローヴィス。

 同時に、自分を行かせるために息子の名を出したライザーの覚悟と誇りが伝わってくる。

 サミルが走ると共に、ライザーが地を蹴った。蒼い光が、彼の剣からほとばしる。


「波切りの太刀!」


 洞窟全体が震え、雪嵐のような冷気が吹き荒れた。

 盗賊たちの悲鳴が、白い霧の中に溶けていく。

 その光景が、蒼い月の光といっしょに――砕けて、暗転した。



「――っ!」


 クローヴィスは、息をのみながら跳ね起きた。

 湿った天井。古い海の匂い。

 目に入ったのは、見慣れた自分の家の寝床。


「……また、あの夢か」


 胸に手を当てると、心臓が暴れているのが分かった。

 父親と剣士。

 洞窟、蒼い月、冷たい風。

 あれが夢だと分かっている。

 けれど、その細部はあまりに精密で、現実の記憶と混ざりそうだった。

 父サミルが海の向こうへ旅に出て、もう何年も経つ。

 なのに、その気配が――こうして夢となって押し寄せてくる。


 コン、コン、と扉を叩く音。


「クローヴィス、起きてる?」


 幼なじみ、イノージェンの声だった。  何かと世話を焼いてくる、村の“姉”のような存在だ。  クローヴィスは返事の代わりに布団を払い、裸足で床に降りた。  扉を開けると、朝の光の中で、イノージェンが眉をひそめた。


「顔色、悪いじゃない」


 クローヴィスは視線をそらした。


「大丈夫」

「絶対大丈夫じゃない言い方だわ、それ」


 ため息をつきつつも、イノージェンは真顔になってクローヴィスへ向き直った。


「……外で話せる?」


 ただ事ではない空気だった。

 クローヴィスはうなずき、上着を引っかけて外に出る。

 まだ陽は低い。

 海の向こうから昇りかけの朝日が、灰色の波をほのかに染めている。潮風に混じって、湿った土と草の匂いがした。


「昨夜、漁師の人たちがね」


 イノージェンは小声で言った。


「北の崖の下にある海底洞窟から、光を見たんだって」

「洞窟……?」


 胸の奥が、きゅっと縮む。さっきまで見ていた夢の冷気が、一瞬で戻ってきた。


「昔、サミルさんが言ってたでしょう? 大陸へ向かうには、村の井戸から続く洞窟を抜けるんだって」

「……」

「王国からの帰り道なら、あの洞窟を使うしかないはず。だったら、様子を見に行く価値はあると思う」


 普通なら、村の大人たちに相談してから決める話だ。

 けれど、クローヴィスの直感が告げていた。それでは遅い、と。


「行く」


 迷いはなかった。

 イノージェンは頭を抱える。


「……ほんとにもう。怖がるとか慎重になるとか、そういう選択肢はないの?」


 クローヴィスは小さく言った。


「怖いよ。でも……行かないと後悔する」


 イノージェンはしばし黙り、それからふっと笑った。


「……分かったわ。一人で行かれても困るし。ついていく」

「ありがとう」

「もう、そう言うところだけ素直なんだから……」



 北の崖へ向かう山道は、潮風に削られた岩肌がむき出しになっていた。

 足もとは悪く、ところどころに濡れた苔が光っている。


「そこ滑るから、ちゃんと見て歩きなさいってば」


 前を行くイノージェンが振り返る。

 クローヴィスは「うん」とだけ返し、足もとと崖下を交互に見ながら進んだ。

 砕ける波の音。飛沫が風に乗って頬にかかる。


(夢の中の洞窟とは違うはずなのに……)


 胸の奥のざわめきだけは、あの夢と同じだった。

 やがて、崖の中腹に口を開けた穴が見えてくる。

 黒い口から、ひやりとした空気が吹き出していた。


「……ここね」


 イノージェンが小さく息をのむ。


「本当に入るの?」


 問いかけに、クローヴィスはうなずいた。


「行かないと、後悔すると思う」


 イノージェンは肩をすくめる。


「じゃあ、せめて私の後ろにいて。私、こう見えて足腰は丈夫なんだから」

「うん」


 二人は洞窟の中へ足を踏み入れた。

 外の光が遠のき、海の低い唸りだけが響く。

 イノージェンの持つランタンの灯りが、濡れた岩肌を照らした。

 壁には古い傷のような溝が走り、その合間から地中の水が染み出している。


「……ここ、どこかで見た気がする」


 思わず漏れた言葉に、イノージェンが振り返る。


「え?」

「夢で」


 それ以上、クローヴィスは説明しなかった。

 うまく言葉にできる自信がなかったからだ。

 けれど、足は迷わない。

 初めて来たはずの洞窟なのに、曲がり角や足場の悪い場所を、ごく自然に避けて進める。

 やがて――前方に、かすかな光が見えた。


「出口……じゃないわね」


 イノージェンが目を細める。

 光は上から差し込んでいた。天井の岩が崩れ、開いた穴から、昼前の光が斜めに射し込んでいる。

 その光の中に、誰かが倒れていた。


「……っ!」


 クローヴィスの胸が跳ねる。

 服はぼろぼろで、あちこち破れている。

 だが、その顔は見間違えようがなかった。

 白いひげをたくわえた頬、穏やかな目じり――幼いころ、眠れない夜に何度も覗き込んだ顔。


「父さん……!」


 声が勝手に漏れる。

 サミル。

 その名を叫ぶより早く、クローヴィスの体は走り出していた。


「ちょっと、待って……危ない――」


 イノージェンの制止は耳に入らない。

 崩れた岩の隙間を飛び越え、光の中で膝をつく。

 サミルの胸に手を当てると、かすかに上下していた。


「……生きてる」


 震える声でつぶやく。

 唇は乾き、顔色はひどく青い。息は浅く、今にも途切れそうだ。


「イノージェン!」


 クローヴィスが振り返る。


「村に知らせて。ブロムを呼んで――」


 そのとき、洞窟の天井から水滴が一つ、ぽたりと落ちた。

 冷たい雫が、クローヴィスの頬を伝う。


「サミルさん!?」


 遅れて駆け寄ってきたイノージェンの叫びが、洞窟に響いた。

 光と暗闇の境目で、サミルの指が、わずかに動いたように見えた。

 クローヴィスは、その手をぎゅっと握りしめた。


 ――その瞬間、自分の人生が大きく動き出したことを、彼はまだ知らなかった。

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