三. 動機、異常

 太一は、まだ年若い少年だった。彼は集落で育ち、外の世界についてほとんど何も知らなかった。 


 ――――


 俺はこの頃、正直うんざりしていた。何をするにしても、大人や村の兄さんたちは「手伝え」とか「働け」とか言ってきて、自由になれる時間なんてほとんどない。

 俺はまだまだ遊んでいたいし、くだらないことで笑っていたいだけなのに、大人たちはそんなこと分かってくれやしない。


 そんなとき、俺は一人になりたくて、誰にも内緒で裏山に登るんだ。

 最初は少しドキドキしていたが、何度も足を運ぶうちに、そこはすぐに俺の遊び場になった。

 この日も、いつもの風景が広がってるのを見たら気分が落ち着いてきた。風が吹くたびに葉っぱがさわさわと音を立てて、鳥のさえずりも心地いい。ここにはうるさい大人もいないし、何も俺に命令する奴もいない。


 自由だ。


 そう感じて、少し楽しくなってきた。


 何気なく足元の小石をカツンと蹴ってみると、思わぬところに飛んでいってしまった。


 すると、何かに当たったらしい。「カアアッ」という声がした。


 『キツネかなにかに当たったんだろう』と思ったが、その声に続いて茂の奥から何かがゆっくりと姿を現した。

 それが目に入るなり、俺の心臓は一気に冷たくなった。



 それは、キツネなんかじゃなかった。



 目の前にいたのは、異形の姿をしていた。四つ足をついているのに、前足は人の手のようだ。それとは別に、もう一対、肩から人の腕が生えている。

 人とも動物とも言い難い不自然な体つきに、裂けたような大きな口がついていた。


 四本の"腕"がゆっくりと動き、俺は見つめられる。その黄金色の眼がまるで獲物を狙う猛禽類のように光り、じっと俺に焦点を合わせて動かない。

 心臓が激しく鼓動し、息が詰まるような圧迫感に襲われる。

 時間が止まったかのような錯覚に陥り、動けない。


 "まずい"

 "逃げろ"   

 "なんだ、コレは?"


 そんな言葉が頭の中をよぎったが、声すら出なかった。体が、すっかり凍りついてしまった。あの眼の奥には何か、人間では理解できない底知れぬ意志のようなものが宿っているように感じられた。生きた心地がしない。


 次の瞬間、俺は必死でその場から駆け出していた。


 足元がふらつき、何度も転びそうになりながらも、俺は走り続けた。

 息が苦しい。胸が痛い。それでも、止まるわけにはいかなかった。






 ――あれから、俺は完全に変わってしまった。


 裏山から駆け下りて家に飛び込んだ俺は、そのまま部屋に閉じこもった。

 家族は心配して声をかけてくるが、誰とも話す気にならなかった。あの恐ろしい姿が、片時も頭から離れない。瞼の裏には、あの不自然な異形の姿が鮮明に焼き付いてしまっている。

 背中を駆け巡る冷たい汗と、不規則に脈打つ心臓が、止まらなかった。


 夜になっても眠れない。いや、眠ると悪夢を見てしまう。


 夜な夜なあの怪物が夢の中に現れ、俺を"じっ"と、黄金色の眼で見つめてくる。

 四本の腕をゆっくりと広げ、俺を包み込むようにして近づいてくる。

 裂けたような口が開いていく。それは何かを囁いているのか、あるいは、ただ俺を喰らおうとしているだけなのか。

 分からない。

 ただ、その引き込まれるような双眸が光る瞬間、俺は全身に冷たい脂汗をびっしょりとかきながら飛び起きるのだ。


 毎晩のように悪夢にうなされて、目が覚めた瞬間には叫び声をあげそうになっている。両親や兄貴が驚いて見に来たことがあるが、俺はただ「大丈夫」とだけ言って、震えるままもう一度布団に潜り込む。そうするしかない。それでも、目を閉じるのが怖い。


 閉じれば、またあの化け物がやってくる気がするのだ。

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