第7話 台座に手を、数式に魂を

 老齢の塔は、昼の陽光を浴びて白くそびえ立っていた。

 空へ向かってまっすぐ伸びる塔は、見上げても見上げても最上階が見えない。

 まるで、天と地をつなぐ巨大な槍のようだった。


 草原から吹く風が、四人の外套を揺らす。


「……着いたな」


 ダリウスは深く息を吸い、どこか満足げに呟いた。

 目の奥にわずかに宿る高揚は、十数年ぶりの“冒険前の匂い”だった。


「よーし! 早速入るわよ!」


 ミラは天真爛漫そのものの笑顔で弾むように言うと、


「入り口探してくる!」


と言って、塔へ向かって駆け出した。


「お、おいミラ! 待て!」


 オットーが慌てて手を伸ばすが、当然届くはずもない。


 エドガーはこめかみを押さえ、深いため息をついた。


「……始まりましたね」


 塔の外周を一周。

 乾いた土が舞い、ミラの足音が遠ざかり、やがて戻ってくる。


「遅かったですね」


 エドガーが諦めたように言うと、


「はぁ……はぁ……なかったよ……入り口……」


 ミラは膝に手を当て、息を切らしていた。


「ミラ、人の話は聞け」


 ダリウスは頭を抱える。


「当然でしょう。形状からして、これは転移型ダンジョンです」


 エドガーは淡々と言い、塔を指さした。


「外周の幅が不自然に狭い。通常の階層構造ではあり得ません」


「てん……い……がた?」


 ミラは首をかしげる。


 すると、オットーが鼻の下をかきながら言った。


「塔の外の見た目と、中の構造が違うんだよ。

 入り口から一歩踏み込んだ時点で、別空間に転移させられるタイプだ」


「へぇ……そんなのが……」


 ミラは目を丸くした。


「まぁ、いろんなダンジョンに潜ったからな」


 ダリウスは当たり前のように肩をすくめる。


「何事も経験だ」


「で、ダリウス」


 オットーがわくわくした様子で前のめりになる。


「転移の仕組みはどうなんだ? どうやって入る?」


「ああ」


 ダリウスは手元のメモをひらりと見て答える。


「資料によると……塔の前の“台座”に手を乗せて、

 三十五歳以上なら第一層に飛ばされるらしい」


 ミラは尊敬の眼差しを向ける。


「ダリウス、すごいね……形見るだけでダンジョン分かるんだ……」


「まぁな」


 ダリウスは照れもせず、堂々と胸を張る。



「それより台座に手を乗せようぜ!」


 オットーが三段腹を揺らしながら、子どものようにワクワクして前のめりになる。


「……まぁ、試してみましょう」


 エドガーは冷静を装っているが、袖の下で指が微妙に震えていた。

(久しぶりの冒険……期待していないと言ったら嘘ですね……)



 四人は台座の前に立った。

 陽光を反射する白い石は、どこか神聖で、どこか不気味だった。

 全員が手を乗せた。


 ——沈黙。


 微動だにしない。


「……反応しないな」


 ダリウスが眉を寄せる。


 エドガーは顎に手を添え、分析モードに入った。


「やはり、ミラさんが十六歳なので条件を満たしていないのでしょう」


 また沈黙。

 ミラは目をぱちぱちさせたのち——


「あっ、わかったわ!」


 突然の閃きに満ちた表情で叫んだ。


 どこから出したのか、チョークを取り出す。


「みんな手を乗せて!」


 言われるがまま、三人は再び台座に手を置く。

 ミラはすかさず台座の縁に数式を書き始めた。


 Y>35 ⇒ X解放条件

 Σ(冒険者年齢)/n ≥ 35

 ∵35≒π×10+5(※なぜかπが混入)

 √ミラ+ダリウス²=愛


「よしっ」


 ミラは胸を張り、キリっと鼻息を鳴らす。

 天真爛漫にして不可解、しかし妙に自信に満ちた顔だった。


 その瞬間——


 ゴッ……!


 台座が震え、微かな光が走る。


「は?」


 エドガーが声を漏らす。


 光は急激に強まった。

 大地が唸り、塔そのものが応えるように脈動する。


「反応した!?」


 ダリウスが驚愕に目を見開いた。


 ミラは誇らしげに腕を組む。


「ほらね!」


「な、なぜだ……? 数学で扉が開く時代なんですか……?」


 エドガーは世界の理を投げ捨てられた研究者のような顔をしていた。


 光がさらに強まり——


 ——四人の姿は、瞬く間に台座からかき消えた。



 次の瞬間、四人は薄暗い空間の中に立っていた。


 湿った空気。

 岩肌から滴る水の音。

 そして、ぽつぽつと並ぶ松明だけが空間を照らしていた。

 半径五メートル以上は闇に溶け、先が見えない。


「……ダンジョン内部だ」


 ダリウスが即座に警戒態勢に入る。


「バ、バカな……入れた……?

 理屈が……っ、理屈が崩壊してる……!

 ダンジョンは因果と法則の塊なんですよ!?

 なぜ“落書き”に従うんですか! なぜ!?」


 エドガーは本気で世界観の崩壊を恐れていた。


「ふっ……まぁな……」


 オットーは理解できていないくせに、

 “俺は全部わかっていた”という顔を死ぬほど頑張って作っていた。


 ミラは胸をドーンと張り、鼻でふん! と笑う。


「どうだ! 私の計算、完璧でしょ!」


 四人の冒険は、予想外の“謎理論”で幕を開けた。


 薄暗い一階層に、滴る水の音がこだました。

 湿り気を帯びた空気が肌をなで、松明の影が揺れる。


 そんな中、ただ一人、ダリウスだけは周囲の闇を見据え、静かに剣に手を添えた。


「……正面に五体。来るぞ!」


 その声と同時に、闇の奥——。

 松明の灯りに照らされて浮かび上がったのは、黄色く濁った目の群れ。


 棍棒、錆びた剣、拳に握られた石。

 素手の二体は、牙をむき出しにして笑っているようだった。


「ギャァァァァッ!!」


 油断していると見たのか、五体のゴブリンが一斉に突進してくる。


「オットー、前線! シールドバッシュ!

 エドガー、即時発射の魔法を!

 ミラは後ろへ!」


 ダリウスは迷いなく指揮を飛ばす。


「了解!!」


 オットーは胸板を張り、まさに“見せ場”という勢いで地面を蹴った。


 ——しかし。


「ぐっ……!」


 疾走した瞬間、ひざがガクン、と沈んだ。


 ——痛風


 まるで神が“中年の悲劇”を突きつけるかのように、激痛が走る。


 オットーは膝を押さえ、歴戦の勇者が最期の言葉を紡ぐような声で言った。


「くっ……ダリウス……すまん……膝だ……

 痛風が……出た……!」


 沈黙。


 あまりにドラマチックな言い方だったせいか、

 ゴブリンまでも動きを止めた。


「……ギ?」


 そのどよめきの中、オットーは真剣な眼差しで仲間に叫ぶ。


「みんな! 前線を下げて、俺の後ろまで来てくれ!!」


 ダリウスはバックステップでゴブリンの剣をいなしながら返す。


「いきなり痛風か! エドガー、魔法はどうだ!?」


「老眼もありますが……ドライアイが来ました!

 目薬をさすので少々待ってください!!」


 真剣な表情のまま、エドガーは鼻先ぎりぎりに魔導書を寄せ、

 次の瞬間、腰のポーチから小瓶を取り出した。


 ——目薬。


 沈黙。


 本日、二度目の沈黙だった。


 五体のゴブリンも、さすがに困惑したように動きを止めていた。


「ギ……ギャ?」


 敵なのに、なんとなく同情しているような声だった。


 薄暗い洞窟の中、

 中年たちの老いとの戦いだけが、確実に進行していた。

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