オトシブミ

里予木一

私には何を刺せばいいのだろう

 今から十年以上も前のことだ。転職と同時に一人暮らしを始めて、新しい自転車を買った。


 自転車といえばママチャリしか乗ったことがなかった私だが、新しい環境での高揚感で、緊張感を抱きながら職場の近所にあった敷居の高い自転車屋に乗り込み、格好いいクロスバイクを選んだ。


 当時は会社の近くに住んでいたから、毎日自転車で通勤していた。桜吹雪の中も、焼けるような炎天下も、舞い散るイチョウの下も、凍えそうな雪の中も。いつだってペダルを漕いで仕事へ向かっていた。


 会社以外にも、一緒に色々なところへ行った。数時間かけて実家へ帰ってみたり、川沿いをずっと走ってみたり。車を持たない私にとって、初めて、道がずっと遠くまで繋がっていることを実感させてくれた得難い存在だ。


 だが、会社から離れた場所へ引っ越してから、次第に乗る機会は少なくなった。通勤は電車だし、遠出するような時間がそもそも無くなったからだ。


 詳しい手入れなんて何も知らない愚かな私は、少しずつ軋みが多くなる自転車も、当たり前のことだろうと諦めていた。十年以上も経つんだから仕方がないと、新しい自転車の購入に思いすら馳せていた。


 そんなある日、不勉強で申し訳ないのだが、自転車には油を差すものだと知った。いや、正確には知ってはいたが、そこまで大事なことだと思っていなかったのだ。だが、自転車屋で動きが悪い時は油を差すように教わった。


 とはいえ私の自転車は十歳以上。もう寿命を迎える頃だろうし、期待はできないなと思いながら、近所で買った潤滑スプレーを、自転車の錆びついた歯車にかけてみた。しゅうしゅうと音を立てて、乾いた地面に吸い込まれるように潤滑油が染みわたっていく。心なしか、自転車が喜んでいるようにさえ見えた。


 そうして、自転車にまたがってみた。そうしたらなんと。走るたびにギシギシと悲鳴をあげていた自転車が、スムーズに走り出すではないか。


 漕ぐたびに鳴る悲鳴と引っかかるような感触に、申し訳なささえ感じるような老体だったのが、多少のガタつきはあれど昔のように元気に走ってくれる。


 その辺の100円ショップに売っているスプレーで、こんなにも変わるのか?

 

 それは私にとって衝撃的だった。


 十年経って、あちこちガタがきて、お世辞にもスムーズに動くとは言い難いし、このまま衰え、限界になったら捨てることになるだろうと思っていた。


 でもたった一つのきっかけで、自転車は元気を取り戻した。以前と同じではないけれど、毎日走っていたあの頃を思い出させるような軽快さだ。


 人間も全く同じとは思わないけれど。


 自分にも、そんな『油』があるのかもしれない。


 色々なことを試してみようと思えた、11月の終わりだった。





11/30 誤字を修正しました

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