5-1. わんわん
「だからメシってのはばーんって焼いてどーんって味付けすんのがうめーんだって。ヒサはこだわりが強すぎんだよ」
「カイこそいい加減料理の作り方ってのを学びなさいよ。あんな博打みたいなものを食べさせられる身にもなって欲しいんだけど」
「お前らカイの当番の度に喧嘩してないか?」
何度目か分からないカイとヒサラの言い合いが街道に響く。
オリヴェルタを出てからすでに十日が経とうとしていた。途中に寄る場所が無く補給はできなかったが、調達した水と食料のおかげで困窮することはなかった。
魔物との戦闘もむしろパーティの親交を深める良い機会になった。俺が守りを固めつつ魔物を引きつけてカイとシズが仕留める。終わったらヒサラに治療してもらう。四人の連携は日を追うごとに増していった。
シズも自分より年下のカイとヒサラを弟と妹のように思っているようだ。たまに鬱陶しがられるところを含めてシズは良き姉のように振る舞っている。
つまり旅は順調そのもので、俺も深く考えることなく楽しんでいた。
そんな生ぬるい状況が大きく変わる出来事に、俺達はアイザで出くわすことになる。
***
「でっか!」
アイザの街が見えてくるや否や、カイは歓声を上げて駆け出した。
「確かにこれは……話には聞いていましたが、実物は壮観ですね」
「普通こんなところに街を作る?」
シズとヒサラはその場で立ち尽くし、俺も言葉を忘れて目の前に広がる街の姿を眺める。
アイザは岩谷の斜面を削って作られた街だった。
そしてアイザはその立地にもかかわらず、これまで立ち寄ったどの街よりも大きかった。谷間を挟んで向かい合うように建物が斜面に連なり、それを石造りの大きな橋が繋いでいる。
街に入ればその規模に見合う活気が伝わってきた。行き交う人々の顔は一様に明るく、物売りの声や雑談が賑やかに聞こえてくる。
ただ残念なことに、その分だけ俺達に奇異の眼差しを向ける人間も増える。
「カイくん、あまりうろちょろしないようにね。何か欲しかったら私が買いますから」
「子ども扱いすんなよシズさん。オレだって身の振り方ぐらい分かってるっつーの」
カイはそう言って渋々シズの後ろについた。
街では基本的にシズが領人として先頭を歩き、俺達が後ろに付き添う形になる。これはどこの街や村でも共通しているようで、すれ違う旅装の集団も豪華な装飾を身につけた人間が戦士や咎人を引き連れていた。中には鎖に繋がれた咎人もおり、それを見たカイが舌打ちをする。
「……ダッセー奴らだ」
「気にするなよ。生まれで人を支配するような連中のことなんて」
「そっちじゃねーよ。あの鎖に繋がれた奴ら、いかにも自分たちが可哀想みたいな面してやがる。逃げることも戦うことも諦めてんだよ」
「カイ、やめなさい」
ヒサラが鋭い口調で諌めると、カイはふんと鼻を鳴らして黙ってしまう。
カイの言い草も分からないでもない。幼い頃から妹と二人でこの世界を生き抜いてきたカイにとって、鎖に繋がれた人生は理解できないのだろう。先ほどの咎人達は肉付きも良く着ている服も汚れていなかった。おそらく奴隷の中ではマシな待遇を受けている。
しばらく苛立っていたカイだったが、露天で売っていた饅頭やら串焼きやらをシズに買ってもらうと次第に機嫌を取り戻し、宿に着く頃にはすっかり元に戻っていた。
「やわらけー。もうオリヴェルタの宿が懐かしく感じるな」
「これから稼ぎに行くんだからまだ休むなよ」
荷物を下ろすや否やベッドに倒れ込むカイを嗜める。
アイザの街でやることは二つだ。一つは水や食料など物資の補給、もう一つは資金の調達。
オリヴェルタで幽鬼討伐の謝礼を貰ったとはいえ、王都までの路銀は心許ない。そもそも王都への通行料を加味するとすでに使える金はほとんど残っていなかった。その金もここアイザですっからかんになるだろう。理由は簡単、俺以外の三人の食費だ。
資金調達の当ては街にある求職所だ。家を修理して欲しい、人を探して欲しい、魔物を討伐して欲しい。数多くの依頼が求職所の掲示板に貼り出され、解決すれば報酬が貰える。依頼主との関係はその場限りのものなので、俺達のような旅の者にも門戸が開かれている。
「大丈夫だって。チャチャッと依頼をこなしてまたうまいもんを食おうぜ」
「お前さっきシズに買ってもらっただろ……」
俺達四人は宿を出て、アイザの中心街から外れた場所にある求職所に向かった。
「すげー人だな」
求職所の入口をくぐった俺達は、ホールに溢れんばかりの人だかりに驚いた。その中には旅装の人間も混じっている。
「んー?」
「カイ、どうした?」
「なーんか見たことある奴がいた気がするんだよ。まー別に興味ねーけど」
カイは奥歯に物が挟まったような言い方をした。気になってホールを見回してみるが、知った顔は見当たらない。
「受付はあちらのようです」
シズはお構いなしにパタパタと受付に向かった。
「シズ姉は楽しそうね。オリヴェルタでも同じような感じだったし」
「オリヴェルタで味を占めたんだろう。領人としての務めを果たしながら金が貰えるんだ。楽しくて仕方ないんじゃないか?」
「これじゃどっちが年上か分かんねーな」
残った三人で待っていると、受付嬢との会話を終えたシズが戻ってきた。
「あそこの掲示板に依頼が貼り出してあるみたいですよ! 気になるものがあったら受付に持って行くそうです。ささ、早くはやく」
「ちょ……落ち着けってシズ」
シズに引っ張られて掲示板の前まで来ると、貼り出された依頼書に圧倒された。
「これ全部アイザの人達からの依頼か。内容を確認するだけでも一苦労だな……」
「裏に隠れてるのもあるみたい。困りごとには事欠かないってわけね」
ヒサラの言うとおり依頼書の内容は多種多様だった。家の修理や人探しに魔物討伐の他にも、病気を治して欲しいとか谷底に川を流して欲しいといった無理難題に近いものまである。
その依頼書の壁を見てふと気付く。
「新しい依頼は人探しが多いな。これってもしかして……」
目に付いた依頼書を一つ手に取ると、カイも一緒に覗き込んでくる。
「『仲間を探しています。見かけた方は以下の宿まで』って、オレたちが泊まってるところじゃねーか」
「そういえば浮かない顔をした奴らがいたな。これを出したのはあいつらか」
「他の依頼もほとんど一緒ね。依頼人は旅の連中で、いなくなったのは女性ばかり」
「ヒサちゃん、それってまさか……」
「シズ姉の想像どおりでしょうね。オリヴェルタの領人が言ったことは嘘じゃなかったみたい」
——アイザの街で最近、若い女性の旅人が失踪するという噂が流れているのです。
「シズ、ヒサラ。この街にいる間はなるべく俺達から離れないようにしよう」
「そうした方がよさそう。まあ、あたしは普段から単独行動なんてしないけど」
ヒサラはそのままシズを一瞥する。
「シズ姉が一番危ないかもね」
「わ、私も皆さんと一緒に行動しますよ!」
「説得力ねー……」
シズの行動力はともかく、アイザに長く留まるのは避けた方がよさそうだ。できれば数日かけていくつか依頼をこなしたいと考えていたのだが、すぐに稼げるものに変更する必要がある。
改めて掲示板の依頼書を見返して、依頼内容と報酬金の額を素早く確認する。金額が高いものはそれだけ依頼内容も難しくなる。俺達の力量で一日二日に完了するもの。店の売り子、人攫い、子どもの世話、異端者の処罰……。
「おいシラセ! あれ! あの依頼がよくね!?」
カイが興奮気味に俺の肩を叩きながら掲示板の一点を指差す。
その先にある依頼書は他から少し離れるように存在した。依頼名は『龍の討伐』。
「あれって……うわ、すごい額だ」
依頼内容もさることながら、提示された報酬金の額を見てさらに驚いた。日銭どころか数年は遊んで暮らせるほどの大金が記載されている。
「依頼主はヘーネ卿……この地域の領主様ですね。それならこの金額を出せるのも頷けます」
シズが依頼を見ながら呟く。
「なーなーあれにしようぜ? サッと行ってぶった斬ってくればいいじゃん!」
「だからあんたは龍とやりたいだけでしょ……」
カイの意気揚々とした態度にヒサラがため息をつく。だが提示された金額には正直惹かれるものがある。今の俺達なら龍に勝てるか? オリヴェルタでも幽鬼を討伐したし——
「止めた方がいいと思いますよ〜?」
不意に後ろから声をかけられて思考が途切れる。振り返れば先ほどシズと話していた受付嬢が立っていた。
「そちらの依頼は返り討ちに遭って亡くなる方が多いので、今は領主部隊の方限定で〜す」
白いブラウスの受付嬢は俺達を見てにっこりと笑う。ゆるふわな話し方の割に言っていることは残酷だ。
「……領主部隊ってなんだ?」
「……領主の直轄部隊よ。功績を残すと登録されるんだってさ」
隣でカイとヒサラがひそひそと話しているのが聞こえる。領主部隊とやらの存在は俺も知らなかったのだが、どうやらシズは違うらしい。
「それは失礼しました。私達も領主様に認められましたら挑戦しますね」
「わ〜頼もしいです。龍の討伐はダメなんですけど、代わりにこっちはどうですか〜?」
受付嬢が手にしているのは真新しい依頼書だった。
「子犬探し、ですか?」
シズが受付嬢から依頼書を受け取る。そこには中央にデカデカと犬の絵が描かれていた。
「『あたくしの大事なキデルちゃんがいなくなってしまいましたの。心配で心配で夜も眠れませんわ。見つけてくださった方にはたくさんお礼を差し上げます。アイザの領人令嬢より』」
「ヒサ、もっと感情込めて読めよ……」
内容を棒読みするヒサラをカイが引いた目で見る。ヒサラはしばらくカイのことを睨んでいたが、大きく息をすると、
「『あァたくしの——」
「いや待てオレが悪かった」
珍しく素直に頭を下げるカイに満足したのか、ヒサラはそれ以上何も言わなかった。
「え……こんなに貰えるんですか?」
依頼書を見て驚く。龍の討伐ほどではないにしても、記載された金額は他より格段に高い。
「お急ぎらしいんですよ〜。たった今執事さんが来られて依頼されていきました。依頼人はその子犬をと〜っても好きみたいで」
「それで掲示板に載っていなかったんですね」
「そ〜なんです〜」
受付嬢の気の抜けた話し方のせいで深刻さが伝わってこない。ただ、それ以上にこの依頼にはどこか胡散臭さを感じる。犬を探すだけだったら領人の部下でもできるはずだ。それを求職所に依頼する理由は何だ?
「……せっかくですけど止めておきます。俺達には土地勘も無いし、依頼人のご期待に添えるかどうか分からないので」
「いいんですか〜?」
「ご期待に添えずすみません。代わりにこっちをお願いします」
掲示板に貼ってあった谷底の魔物討伐の依頼書を受付嬢に手渡す。報酬金は子犬探しよりも少ないが、それでも王都までの旅費をギリギリ賄える額だ。
「私は子犬を探す方でも構いませんが……」
「別に魔物討伐でもいいんじゃない? 足りない分は節約すればいいでしょ、カイが」
「オレかよ!? まー別にどっちでもいいけどよ」
シズは残念そうだが、ヒサラとカイが味方についてくれたので魔物討伐に決まった。特にヒサラは意味ありげな眼差しを向けてきたので、おそらく意図を把握している。
「わかりました〜。ではこちらを受注しますので代表の方は来てくださ〜い」
「あ、私が行きますね」
「オレも行くわ。シズさんだけだと危なっかしーし」
戻っていく受付嬢をシズとカイが追いかけていく。後に残るのは俺とヒサラの二人。
「……悪い、加勢してくれて助かった」
「普通に考えて怪しすぎるでしょ。シズ姉は気付いてないのかな」
「妙な話だとは気付いていると思うぞ。ただ俺達よりも疑り深くないってだけで」
「そうね……シラセさんはそんなに人を信用してないの?」
ヒサラが俺の顔を覗き込んでくる。
「そいういうわけじゃない。元の世界じゃ商売人だったから甘い話を警戒しているだけだ」
本当は人を信用しない時期があったが、それを言う必要は無い。言いふらさないと結奈に約束している。
「それならいいけど。あたし達みたいに人を疑って生きる人間なんて少ない方がいいに決まっているし。それにしても……」
ヒサラは掲示板に目を移し、誰に言うでもなく呟いた。
「……依頼が本物だったとしたら、人より犬の方が高いなんて悲しいものね」
***
「
カイの刺突が決まり、甲殻に身を包んだ魔物は体液を撒き散らしながら崩れ落ちた。
「やっと終わった……」
俺は魔物の息の根が止まっていることを確認するとその場に座り込んだ。体の節々が痛み、メイスを振り続けた右腕は感覚が残っていない。
「お疲れ様です。あまりお役に立てずごめんなさい……」
「仕方ないさ……こんな、地形なら……」
アイザの谷底は元々川の流れるV字谷だったらしく、水が干上がったとはいえシズが魔術を使うには十分な広さが確保できなかった。
仕方なく俺とカイが相手をすることになったのだが、甲殻のせいで攻撃が効き辛い上に、触れたらやばそうな体液を噴き出してきたので迂闊に近付けなかった。結局はヒサラに回復してもらいながら俺が魔物の脚を潰して、動きが鈍ったところをカイが仕留めた。
「また綱渡りみたいな真似して。そのうち本当に死ぬよ?」
「すまん……」
ヒサラが呆れながら治療を施してくれる。今回の作戦も戦闘中に考えたもので、その時には体が勝手に動いていた。幽鬼討伐が頭に残っているのかもしれない。ヒサラの言うとおりだ。
治療が終わり、討伐の証拠に魔物の尾節を切り取って谷底を後にする。街まで戻ってくる頃には夕陽が差す時間になっていた。
街全体が橙色に染まるのを眺めながら、俺達は谷に掛かる石橋を渡る。
「これ食えねーのかな。なんか茹でたら美味そうじゃね?」
「食べてみたら? お腹壊しても知らないから。あと報酬金も貰えなくなるけど」
「魔物を食べる文化は聞いたことが無いですね……神教的には大丈夫なんでしょうか?」
「お前らもっと緊張感を……あれ?」
「どうしたシラセ?」
「いや、あそこにいるのって……」
言いかけて後悔した。気付かなければ何事もなく終わっていた一日が変わる予感がする。
「あー! あの犬!」
カイの指す先には、領人令嬢の依頼書の絵とそっくりな子犬が尻尾を振って俺達を見ていた。
「まだ見つかっていなかったんですね……あっ! 逃げます! 捕まえましょう!」
「ちょっ……」
橋の向こうに走っていく子犬を追いかけるシズ。その姿は人混みに紛れてあっという間に見えなくなる。
「……行っちゃった。カイ、追いかけて」
「しゃーねーな」
ヒサラに言われてカイは木刀を手に駆け出す。〝剣舞〟で強化されたカイならシズに追いつくのも容易なはず。そう思っていた矢先、
「貴様! 咎人のくせに何をやっている!」
「あん?」
カイの前に数人の兵士が立ちはだかった。その鎧にはアイザの街章が描かれている。騒動に気付いたのか周囲の人間もカイの姿を見て騒ぎ始めた。
「す、すみません! そいつは俺達の傭兵なんです」
俺はヒサラと一緒に兵士に囲まれるカイの元に向かった。
「貴様らもこの咎人の仲間か? それにそこの女……」
兵士の一人がヒサラを舐めるような視線で見つめ、その口の端が歪むのが分かる。
「ちょっと詰所まで来てもらおうか。話を——」
「なにヒサに手ェ出してんだ?」
ヒサラの肩を掴もうとした兵士の腕をカイが一瞬で抑える。
「ぐっ……き、貴様……!」
今にも腕をへし折りそうな勢いのカイ。それをヒサラが宥めすかす。
「落ち着きなさい。今はそんなことしてる場合じゃない」
「止めんなよ。こいつも、ここにいる奴らも全員ぶっ飛ばして——」
「っ……この馬鹿!」
ヒサラがカイの頬を叩く音が周囲に響いた。カイが驚いた隙にヒサラが木刀を取り上げると、〝剣舞〟の効力が切れてカイの剣幕が段々と収まっていく。
俺は兵士達に向き直り、落ち着き払った口調で声を張る。
「非礼をお詫びします。我々はアイツォルク領ロフェル村から来た、領人シズカ・ウォル・ロフェルの家来の者です。我々の領人は先ほどアイザの領人令嬢より捜索の依頼を受けた子犬を発見し、保護するために橋の向こうへ走っていきました。我々も後を追わせていただきたい」
兵士達はしばらく言葉を交わしていたが、やがて他よりも手の込んだ鎧の男が前に出てくる。
「貴公の言い分は承知した。だがくれぐれも街で騒ぎを起こさないでもらいたい。特に後ろの二人、領人の家来だろうと咎人が勝手な真似をすれば処分の対象になることを忘れるな。と言っても、そんな稽古用の木刀を扱う咎人の騒ぎなんぞたかが知れているがな」
捨て台詞を吐いて兵士達は持ち場に戻っていった。周りにいた群衆も何事もなかったかのように足早に去っていき、橋の中央には俺達三人だけが残される。
「行くわよ。あんたの鼻が頼りなんだから」
ヒサラが木刀を返すと、カイは受け取るや否や自分の額を峰で打ち付けた。
「……悪い。悪くねーけど」
「ああ、カイは悪くない。あいつらの態度は俺も腹が立った。でも今はシズを探すのが先だ」
「分かってる。早く追いかけねーと」
俺達はカイの嗅覚を頼りにシズを探した。
大通りは迷わず進んでいたカイだったが、裏路地に入ってしばらくすると立ち止まった。
「臭いが混ざって細かい道までは分かんねー。なんでこんなとこに街なんて作ったんだよ」
〝剣舞〟で強化された嗅覚にも限界があるようで、カイは苛立たしげに唇を噛む。
「何か手がかりでもあれば……ん?」
ほんの一瞬、物陰に何かが見えた。その正体を確かめるべく屈み込むと、
「うわっ!? な……なんだこれ?」
顔に当たってきたものを慌てて叩き落とす。見ればそれはシズがオリヴェルタで貰った可愛くない猫のぬいぐるみだった。しかし、オリヴェルタの時とは決定的に違うところがある。
「……こいつ、なんで動いてんだ?」
カイにつままれたそのぬいぐるみは嫌がるように体を捩っている。まるで本物の猫のように。
「魔力の量が増えてるわ。それも闇だけじゃなく光まで。シズ姉が持ってたことで魔力が少しずつ蓄積されていったのかも。でもまさか動き出すなんて」
ヒサラもぬいぐるみに目を丸くしている。
「そんなことって……あっ!」
ぬいぐるみはカイの指を脱して地面にひらりと着地し、俺達を一瞥すると路地の先にトコトコと走っていく。
「ついてこいってことなのかな」
「分からん。でも手がかりが無いんだ。追ってみよう」
ぬいぐるみを追って入り組んだ道を進むと、角を曲がった先に見覚えのある建物が現れた。
「ここ、求職所じゃねーか」
俺達の目の前に屹立する建物。それは昼間に立ち寄った求職所だった。扉にはすでに営業終了の看板が掲げられている。扉の前でくるくると回っていたぬいぐるみは、案内が終わるとそのまま俺のポケットに滑り込んだ。
「行くぞ」
カイは看板の表記もお構いなしに扉に手をかける。俺もヒサラもそれを止めない。
鈍い音を立てて求職所の扉が開いた。
「あれれ? もう営業は終わりですよ〜?」
俺達を出迎えたのは子犬探しを持ちかけた受付嬢だった。受付嬢は持っていたペンを置いてにっこりと微笑む。
カイは話も聞かずに受付嬢に近付き、カウンターを思い切り叩いた。
「……シズさんをどこにやった?」
「シズ様ですか〜? こちらにはお見えになっていませんね〜」
カイの怒気にも平然と受付嬢はゆるふわに返答する。
「しらばっくれんな。てめーらだろ旅の女をさらってるって連中は。何が目的だ? あ?」
「うふ。ばれちゃいました?」
受付嬢の唇が不気味に歪む。
「てめっ……あ!?」
「消えた!?」
受付嬢の肩を掴もうとしたカイの手が空を切る。忽然と消えた受付嬢を探してホールを見回すと、カウンターから一匹の子犬が飛び出して壁際のテーブルに飛び乗った。
それはシズが追いかけていった領人令嬢の子犬だった。
「あの犬……まさか」
「そのまさかですよ〜」
俺の言葉に反応して子犬が声を発したかと思うと、その姿が一瞬で受付嬢へと変化する。
「驚きました? 先ほどは追いかけっこしてくれてありがとうございま〜す。あ、追いかけっこしたのはシズ様でした。てへっ」
「……〝変身〟ね。あんたみたいな人間にはお似合いの祝福だわ」
クソみたいなドジっ子ポーズを取って舌を出す受付嬢をヒサラが睨む。
「わ〜大正解です。物知りなんですね〜、咎人のくせに」
「あんたのスッカスカの頭でも咎人って単語が分かるんだ? えらいね〜すごいね〜ぱちぱち」
ヒサラに煽り返された受付嬢の頬が軽く引き攣る。
「あら〜? 差別対象の奴隷の分際で——」
「誰が奴隷だって?」
刹那、冷たい声と共に受付嬢の首に木刀が当てられる。さっきまで受付カウンターの前にいたカイが、目にも留まらぬ速さで受付嬢の背中に回り込んでいた。
「動くなよ。動いたら殺す。変身しても殺す。この木刀は俺の祝福で強化してある。てめーの首なんざ簡単に斬り落とせるぜ」
「たす——」
「でかい声を出しても殺す。オレの質問にだけ答えろ。シズさんをどこへやった?」
冷や汗を浮かべる受付嬢だったが、その顔にはまだ邪気が残っている。
「言うわけないじゃないですか〜。私を殺したらシズ様の居場所が分からなくなるってこと、気付かないと思いました?」
「……」
カイは無言のままだ。その目は微かに揺れ、殺すべきか白状させるべきか迷っている。
「カイ、そのままにしておいて」
こう着状態を打開したのはヒサラだった。
「手荒な真似はしたくなかったけど、仕方ないよね」
ヒサラはつかつかと受付嬢に歩み寄って、両手で受付嬢の頬を包み目を大きく見開く。
「ちょっと、なに触って———」
「お願いします、あたしにシズ姉の居場所を教えてください。お願いします、シズ姉を攫った理由を教えてください。お願いです。教えてくれますよね? 教えなさい。教えてよ。ねえ?」
ヒサラのものとは思えない、媚びるような艶やかな声がホールに響いた。その声に使命感とも焦燥感ともつかない感情が沸き起こる。胸が苦しい。これはまさか……。
「はわ……え、あ、あ、わ、わ、わ、わわわわわ、私、私は、わたしは、わたし、」
受付嬢の様子がおかしい。瞳が細かく振動し、瞬きもせずヒサラの目をじっと見つめている。先ほどまでの邪気が消えて恍惚の表情を浮かべている。
「教えて? お願い、教えてちょうだい? ね、いい子だから」
「はわわわ〜、は、はわ、わかり、まし。シズ様はみなみ、南のみねにいきま、つれて、はわわわ。うふふふ。りゆ、うふふふっ。りゆ〜はりゅうのいけにえで〜す」
「生贄? それってどういうこと? もっと教えて。お願い、ね?」
「うふふふっ、てへっ。えへへ、わ、あたし、わん、わ〜、わんわん。わわ〜」
「もう、ちゃんと喋らないとダメじゃない。ねえもっと——」
「ヒサやめろ。充分だろ」
カイがヒサラの声を遮った。木刀を受付嬢の首から離し、片手でヒサラの腕を掴んでいる。ヒサラが両手を離すと受付嬢は力なくテーブルに倒れ込んだ。
ヒサラの声が止んだことで胸の苦しさも消えていく。フラつく足取りのままテーブルに近付くと、受付嬢は顔をだらしなく歪めて小さく「わん、わん」と呟いている。目の焦点も合っていない。その淫靡な様は先ほどまでのゆるふわな雰囲気からは想像もできなかった。
「何をやったんだ、ヒサラ」
「〝憐愛〟の力よ。ああやって目を合わせて語りかけると、相手に無理やり憐れみの感情を植え付けてあたしの言うとおりにしてくれるの。普通はここまでしないけど」
「これ、治るのか……?」
「しばらくすれば元に戻るわ。でも感情を植え付けられた時の記憶は体に染み付いて、ふとした瞬間に思い出して悶え苦しむ。もっと憐れみたい、もっとお願いして欲しいってね」
それを聞いて背筋が寒くなる。まるで憐れみのオーバードーズだ。使い方によっては人を意のままに操ることだってできる。
「安心して、本当に必要な時しか使わないから。それにシラセさん達にも向けないし」
「あ、ああ……そうしてもらえると助かる。と言うか、カイは大丈夫だったのか?」
「オレはなんともなかったぜ。ヒサに憐れみなんて感じねーしな。だいたい他人からかわいそーな目ェ向けられんのは二人まとめてだし」
「そうね」
カイの軽い言い方にヒサラの顔が綻ぶ。
「それよりもシズさんを探さねーと。こいつ南の峰とか龍とか言ってたよな?」
「シズ姉の居場所は南の峰。攫った理由は龍の生贄。これだけあれば話は繋がりそうね」
三人で壁にある掲示板を見上げる。
「『龍の討伐』の依頼。この龍が棲むのがおそらく南の峰ね。そしてオリヴェルタで聞いた噂とここに貼ってある人探しの依頼」
「女性の旅人を龍の生贄に捧げているってことか。それでその生贄を誘き寄せるのがこの求職所だったと」
もう一度、倒れている受付嬢に目を向ける。内容に比べて高額な依頼を見せて旅人を誘い込み、そこで別な仲間が攫うという算段だろう。
「別な仲間……?」
思い至った結論を口にすると同時に受付の奥からいくつもの足音が聞こえてくる。そうだ、受付嬢だけでこんな大掛かりなことができるはずがない。
「逃げるぞ!」
慌てて正面の扉から求職所を飛び出す。
「このまま南の峰に行こう! シズも連れて行かれたはずだ!」
「分かってるぜ! って南の峰はどっちだ!?」
「こっちよ!」
困惑するカイと入れ替わるようにヒサラが先頭に立つ。その手には地図が握られている。
「ヒサお前いつの間に!?」
「壁に貼ってあったのよ! ちゃんと見ておきなさい馬鹿!」
「あん!?」
こんな時にも言い争う兄妹に気が抜けてしまわないよう頬を両手で叩く。
アイザの街を出る頃には、辺りは闇に包まれていた。
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