第5話 迷子のランドセルと、優しい死神
僕たちは校庭へ降りた。
夕暮れの校舎は静まり返っているが、僕の耳には相変わらず無数のノイズが届いている。
しかし、その中でもひときわ異質な「静寂」が、その少女の周りにだけ漂っていた。
少女――《残響(エコー)》は、ジャングルジムのそばで立ち尽くしていた。
赤いランドセルを背負い、心細そうに周囲を見回している。
「……見えてる?」綾が小声で聞く。
「ああ。でも、人間じゃないな。質感が薄い」
「あれは物質の記憶が強すぎて、形を持ってしまった現象。放っておくと周囲の情報を侵食して、空間に穴を開けちゃうの」
綾は鎌を構えた。
その表情は冷徹な死神のものだ。
「私が《剪定》する。痛みはないはずよ」
「待て」
僕は綾の腕を掴んだ。
「話を聞いてみる」
「え? でも、残響は言葉なんて……」
僕は構わずに少女に近づいた。
ノイズキャンセリングヘッドホンを外す。
直接、その存在の「音」を聞くために。
――キーン。
鋭い耳鳴り。
その奥から、幼い声が聞こえてきた。
『……ない。……ないよぉ』
「何がないんだ?」
僕が話しかけると、少女は驚いたように顔を上げた。
その顔には目も鼻もなかった。ただ、悲しみだけが張り付いていた。
『おうち……かえれない。まーくん……どこ?』
「まーくん?」
僕は少女の背負っているランドセルに目を向けた。
ボロボロで、傷だらけだ。
その傷の一つ一つから、情報が流れ込んでくる。
――男の子の笑顔。
――「これ、僕の宝物入れ!」という声。
――河川敷での喧嘩。
――川に投げ捨てられるランドセル。
――冷たい水底。暗闇。孤独。
映像がフラッシュバックする。
これは少女の霊じゃない。
捨てられたランドセルの、「持ち主の元へ帰りたい」という執念が作り出した幻影だ。
「……そうか。お前、捨てられたんじゃないんだな」
僕は膝をつき、少女――ランドセルの幻影に語りかけた。
「流されたんだ。事故で」
『……まーくん、ないてる。ぼくがいないから』
「ああ。探してるよ、きっと」
僕は綾の方を向いた。
「綾、この近くに川はあるか?」
「え? 学校の裏に用水路があるけど……」
「そこだ。そこに本体がある」
僕たちは裏門へ走った。
用水路の茂みの中に、泥だらけになった赤いランドセルが引っかかっていた。
幻影と同じ、傷だらけのランドセル。
綾がそれを拾い上げる。
「……すごい執念。ここまで強い想いを持つなんて」
「持ち主の男の子、このランドセルを大事にしてたんだ。中に入ってる『宝物』を守りたくて」
綾はランドセルの蓋を開けた。
中に入っていたのは、泥にまみれた一枚の絵だった。
『お母さん、ありがとう』と書かれた、似顔絵。
「……そっか。今日は母の日だもんね」
綾の目が優しく細められた。
彼女は鎌を消し、代わりにハンカチを取り出してランドセルを拭いた。
「悠人くん、これ、持ち主に返せる?」
「ああ。ランドセルの記憶に住所がある。ここからそう遠くない」
***
チャイムを鳴らすと、目を腫らした男の子と、心配そうな母親が出てきた。
「これ……!」
男の子はランドセルを見るなり、抱きついて泣き出した。
母親も涙ぐんでいる。
「川に落ちてしまって……もう見つからないと諦めていたんです。本当にありがとうございます」
男の子はランドセルから絵を取り出し、母親に渡した。
少し汚れてしまったけれど、想いは伝わったようだ。
その光景を見届けた帰り道。
僕の隣を歩く綾が、ポツリと言った。
「……私、やっぱり死神失格かな」
「なんで?」
「だって、本来ならあの残響は消去すべきエラーだったの。それを君は救って、ハッピーエンドにしちゃった。これじゃ因果律の整理にならないよ」
「でも、世界は壊れてないぞ」
僕は空を見上げた。
夕焼けが綺麗だった。
不思議と、いつものノイズが少しだけ心地よいBGMのように聞こえた。
「それに、お前が言ったんだろ。『剪定』だけが仕事じゃないって」
「……言ったっけ?」
「言ったさ。……まあ、僕の能力も捨てたもんじゃないかもな」
そう言うと、綾はパッと顔を輝かせた。
「本当!? じゃあ、これからも私のパートナーとして頑張ってくれる!?」
「調子に乗るな。あくまで監視対象だ」
「えへへ、よろしくね、相棒!」
綾が僕の背中をバンと叩いた。
痛い。でも、悪くない痛みだ。
こうして、僕と死神見習いの騒がしい日々は、本格的に幕を開けた。
これから起こる数々の事件、そして僕たちの過去に隠された真実を知る由もなく、僕たちは夕暮れの道を歩いていった。
(第1章 完)
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