第3話 騒がしい朝と、量子力学的朝食論

翌朝。

 僕の安眠は、予想通り、いや予想以上の騒音によって破られた。


「おっはよーございまーす! 朝ですよー! 太陽が呼んでますよー!」


 カーテンがシャッ! と勢いよく開けられる音と共に、元気すぎる声が鼓膜を震わせた。

 目を開けると、エプロン姿の綾が仁王立ちしていた。

 なぜか片手にはフライ返し、もう片手には……あれはなんだ、六法全書か?


「……なんだその格好は」


「新妻風死神スタイルだよ! 監視対象の健康管理も私の仕事だからね!」


 綾はえっへんと胸を張る。

 しかし、その背後ではすでにカオスが展開されていた。


「おい娘さん、卵の殻が入ってるぞ。俺の庫内を汚すな」

 冷蔵庫が低い声で文句を言う。


「あー! 私の熱線が! パンが焦げちゃう! 早く出してー!」

 トースターが悲鳴を上げる。


「ちょっとどいてよ! 掃除できないじゃない!」

 自動掃除機が綾の足元にガンガンぶつかっている。


「わわっ! ごめんごめん!」


 綾は慌ててキッチンへ戻り、トースターから黒焦げの物体を取り出した。

 ……あれは、かつて食パンだったものか?


「……炭素の塊を錬成したのか?」


「ち、違うの! ちょっと量子ゆらぎの計算をしてたら時間が……」


「言い訳に物理用語を使うな」


 僕はため息をつきながらベッドを出た。

 ヘッドホンを装着する。ノイズキャンセリングをオンにしても、こいつらの声は脳に直接響いてくるから完全には遮断できないが、気休めにはなる。


 リビングに行くと、テーブルには黒焦げパンと、殻入りの目玉焼き、そしてなぜか白濁したスープのようなものが並んでいた。


「……これは?」


「特製エントロピー・スープ! 冷蔵庫の残り物を全部入れて、確率的に美味しくなるように混ぜてみたの!」


「混ぜるな危険って言葉を知らないのか」


 恐る恐るスープを一口啜る。

 ……味がない。いや、全ての味が混ざりすぎて無になっている。

 まさにエントロピー増大の極致だ。


「で、さっき持ってた本はなんだ」


「あ、これ? 『死神のための現代物理学入門』。悠人くんの能力をもっと詳しく解析しようと思って」


 綾は分厚い本をテーブルに広げた。

 そこには数式と図解がびっしりと書き込まれている。意外と勉強熱心なのかもしれない。


「悠人くんの《万物通話》だけどね、やっぱり特異なのは『受信感度』じゃなくて『復元力』みたい」


「復元力?」


「そう。例えばこの焦げたパン」

 綾は黒い物体を指差した。


「普通の人には『失敗した料理』にしか見えないでしょ? でも、物理的には『パンが焦げた』というプロセス情報の集合体なの。熱エネルギーによって分子構造が変化した履歴が、ここに残ってる」


「まあ、そうだろうな」


「悠人くんの脳は、この『焦げた』という結果から、逆算して『元のパン』の状態や、『私が焦がして慌てた』という過去の情景まで、情報として再構築(レンダリング)しちゃってるのよ」


 彼女の説明は、妙に腑に落ちた。

 確かに、僕は物の声を聞くとき、単に言葉として聞くだけでなく、その物が体験した「映像」や「感情」のようなものがフラッシュバックすることがある。


「つまり、僕は常に世界の『過去』を見せられているってことか」


「その通り! これってすごい負荷なんだよ? 普通の脳なら情報過多(オーバーフロー)で焼き切れちゃう。君がヘッドホンをしてるのは、無意識に情報の流入量を制限するため防衛本能かもね」


 綾は真面目な顔で言った。

 こいつ、意外と賢いのか?


「でも安心して! 私がそばにいれば、余分なノイズを私の鎌で『剪定』してあげられるから!」


「剪定?」


「そう、不要な因果の糸をちょきんって切るの。そうすれば、君の脳への負担も減るはず!」


 綾は自信満々に鎌(ソウル・リーパー)を取り出し、空中で振ってみせた。

 ブンッ! という風切り音がして、テーブルの上の花瓶が真っ二つに割れた。


「あ」


「……」


「……ご、ごめん。手元が狂った」


「お前、僕の脳みそも真っ二つにする気か?」


「ち、違うよ! 今のは調整不足で……!」


 綾が慌てて言い訳をしていると、割れた花瓶から声が聞こえた。


『痛い……痛いよぉ……水が漏れるぅ……』


 か細い、泣きそうな声。

 僕はハッとした。

 ただの物なのに、胸が締め付けられるような感覚。


「……おい、綾。直せるか?」


「え? 花瓶?」


「ああ。お前の道具で、時間を戻したりできないのか」


「うーん、私の懐中時計(クロノ・トリガー)は自分専用だからなぁ……でも、やってみる!」


 綾はポケットから金色の懐中時計を取り出し、何やら呪文のようなものを唱えた。

 

「因果逆転、局所限定……えいっ!」


 カチリ、と音がした瞬間。

 花瓶の破片がビデオの巻き戻しのように動き出し、ピタリとくっついた。

 水も元通りになっている。


『あれ? 痛くない……治った?』


 花瓶の声が安堵に変わる。

 僕はほっと息をついた。


「……へえ、やるじゃないか」


「えへへ、でしょ? 私だってやればできるんだから!」


 綾は得意げにVサインをした。

 その笑顔を見て、僕は少しだけ思った。

 この騒がしい死神との生活も、悪いことばかりじゃないかもしれない、と。


 しかし、その安らぎも束の間。

 玄関のチャイムが鳴った。


「お届け物でーす!」


 モニターに映っていたのは、宅配便のお兄さん……ではなく、黒いスーツを着たサングラスの男たちだった。


「……綾、あれはお前の知り合いか?」


「えっ? うそ、管理局の監査官!? もう来たの!?」


 綾が顔面蒼白になる。

 どうやら、僕たちの平穏な(?)日常は、早くも終わりを告げようとしているらしい。

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