死神候補 【改】

S太郎

第1章:覚醒と出会い

第1話 第1話 量子のノイズ、あるいは世界の悲鳴

世界はいつだって、耐え難いほどに騒がしい。


 僕、高坂悠人(こうさかゆうと)にとって、静寂とは辞書の中にしか存在しない空想上の概念だった。

 物心ついた時には既に、僕の耳――いや、脳は、絶え間ない「声」に晒されていたからだ。


 始まりは、7歳の夏。

 父さんの研究室だった。


「悠人、ここにある『シュレーディンガーの猫』はね、箱を開けるまで生きているか死んでいるか分からないんだ」


 白衣を着た父さんは、いつものように難解な話を子供相手に楽しそうに語っていた。

 父さんは量子物理学者だった。といっても、大学の教授とかそういう堅苦しい肩書きではなく、もっと怪しげな……『世界因果律』とかいうオカルトめいた分野の研究者。

 部屋中には見たこともない機械や、複雑な数式が書かれた黒板が所狭しと並んでいた。


「でもね、父さんは思うんだ。観測される前の状態も、実は『情報』として確定しているんじゃないかって。ただ、僕たちの脳がそれを読み取れないだけで」


 父さんは銀色に輝く奇妙な球体を僕に見せた。

 表面には幾何学模様が刻まれ、内側から淡い青色の光が脈打っている。


「これは『アカシック・レゾネーター』の試作機だ。物質に残る過去の履歴……エントロピーとして拡散してしまう前の『純粋情報』を共鳴させる装置だよ」


「あかしっく……?」


「ふふ、難しいかな。簡単に言えば、物の『記憶』を聞く機械さ」


 その時だった。

 突然、研究所の警報が鳴り響いたのは。


 赤い回転灯。けたたましいサイレン。

 父さんの顔色が変わる。


「……見つかったか。早すぎる」


 父さんは僕を抱き寄せ、部屋の隅にあるシェルターのような頑丈なロッカーに押し込んだ。


「悠人、ここでじっとしているんだ。絶対に外に出てはいけないよ」


「父さん?」


「いいかい、このレゾネーターを持っていてくれ。これは……未来への希望だ」


 父さんは僕の手に銀色の球体を握らせた。

 そして、最後に悲しげに微笑んだ。


「愛しているよ、悠人」


 重い扉が閉まる。

 暗闇の中で、僕は震えていた。

 外からは怒号と、何かが破壊される音、そして父さんの叫び声が聞こえた。


 怖い。助けて。父さん。


 僕は無意識に、手の中の球体を強く握りしめた。

 その瞬間、球体が熱を帯びた。

 青い光が強まり、視界を埋め尽くす。


 ――キーン。


 耳鳴りのような高音が脳を貫いた。

 痛い。頭が割れるように痛い。

 脳の奥底にある何かが、無理やりこじ開けられるような感覚。

 情報の奔流。

 ロッカーの鉄板が、床のコンクリートが、空気中の塵までもが、一斉に語りかけてくる。


『痛い』『怖い』『壊れる』『逃げて』『父さんは』『連れて行かれた』『黒いコートの男たち』『削除』『削除』『削除』――


 それは、物質たちの断末魔だった。

 僕はあまりの情報の多さに意識を失った。


 次に目が覚めた時、研究室はもぬけの殻だった。

 父さんも、機械も、何もかもが消えていた。

 ただ、僕の手の中の球体だけが、砂のように崩れ去り、消滅した。


 そして、その日から僕の世界は変わってしまった。

 壁が、机が、服が、常に僕に話しかけてくるようになったのだ。


***


 あれから10年。

 17歳になった僕は、常に高性能なノイズキャンセリングヘッドホンをして生活している。

 音楽を聴いているわけではない。外の世界の「声」を少しでも遮断するためだ。


「……おい、起きろよ。七時十五分だぞ」


 枕元の目覚まし時計が喋った瞬間、僕は条件反射でアラーム停止ボタンを叩いた。


「痛っ! 叩くことないだろ! 優しく押せよ!」


「うるさいな……分かってるよ」


 僕はヘッドホンをずらし、気だるげに起き上がった。

 目覚まし時計の液晶画面が、心なしか不機嫌そうに明滅している。


 僕の能力――父さんの言葉を借りるなら《万物通話(オムニ・ボイス)》は、成長と共にその精度を増していた。

 幼い頃は単なるノイズだったものが、今では明確な言語として認識できる。

 どうやら僕の脳は、物質が持つ量子レベルの振動パターンを、言語野で強制的に翻訳しているらしい。


 リビングに行くと、冷蔵庫がブーンと低い唸り声を上げた。


「おい悠人、牛乳あと50mlだぞ。昨日言ったのに買ってきてないだろ」


「忘れてたんだよ。帰りに買う」


「ったく、これだから人間は。賞味期限の管理もできないのか」


 冷蔵庫の小言を聞き流しながら、トースターに食パンをセットする。


「あ、高坂くんおはよー! 今日は焼き加減どうする? カリカリ?」


 トースターはなぜか女子高生のようなテンションだ。


「普通でいい。焦がすなよ」


「はーい! 任せて!」


 こんな調子だ。

 僕の家は、一人暮らしなのに常に騒がしい。

 父さんが失踪した後、僕は親戚をたらい回しにされたが、どこに行っても「独り言が多い気味の悪い子」として扱われた。

 結局、高校入学を機に、父さんが残してくれたこの古い一軒家で一人暮らしを始めたのだ。

 皮肉なことに、人間と関わるよりも、家電たちと暮らしている方が精神的に楽だった。


 だが、今日の「声」はいつもと違っていた。


 朝食を終え、学校へ行こうと玄関を出た瞬間。

 世界が、軋んだ。


 ――ザザッ……ザザザッ……


 ヘッドホン越しに、強烈なノイズが走る。

 いつもの物質たちの話し声ではない。もっと底知れない、空間そのものが悲鳴を上げているような音。


「……なんだ?」


 僕は思わず耳を塞いでうずくまった。

 アスファルトが、電柱が、ガードレールが、一斉に怯えている。


『来る』『来る』『修正者が来る』『刈り取られる』『逃げろ』


 何が来るって言うんだ?

 視界がぐにゃりと歪む。

 空を見上げると、晴天のはずの青空に、黒い亀裂のようなものが走っていた。

 まるで、世界のテクスチャが剥がれ落ちるように。


 その亀裂から、何かが落ちてきた。


 黒い影。

 それは重力を無視したような軌道を描き、僕の目の前の電柱に着地した。

 

 ダンッ!!


 着地の衝撃でアスファルトがひび割れる。

 舞い上がった砂煙の中から現れたのは、黒いロングコートを纏った少女だった。

 手には、身の丈ほどもある巨大な鎌のような形をした傘を持っている。


「……痛ったぁ〜」


 少女は着地に失敗したのか、お尻をさすりながら涙目で立ち上がった。

 銀色の髪がサラリと揺れる。

 そして、血の色のような赤い瞳が、僕を射抜いた。


「見つけた。特異点(シンギュラリティ)候補、高坂悠人くんだね?」


 その声は、不思議とノイズ混じりではなかった。

 物質の声でも、人間の声でもない。

 もっと澄んだ、魂に直接響くような響き。


「誰だ、あんた」


 僕が警戒して後ずさると、少女はニカッと笑い、鎌を突きつけた。


「私は死神見習いの綾! 君の世界、ちょっとバグってるから修正しに来たの。悪いけど、大人しく《削除》されてくれる?」


「はあ!?」


 これが、僕の騒がしすぎる日常が、さらにカオスな非日常へと変貌した瞬間だった。

 そして僕はまだ知らない。

 このポンコツそうな死神少女が、僕の失われた過去の鍵を握っていることを。

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