第2話
「な、なんなの……」
私はベッドに横たわる宗佑の姿を見て驚愕した。
彼の顔や腕、露出する肌がまるで石の塊のように灰色、否、鈍色に変色している。そしてその表面をまるで泳ぐように、無数の黒い点が激しく蠢いている。それに同化するように周囲の色彩も鈍化し、更に薄暗く、くすんで見えた。そして室内の四方はその色を失い、徐々に黒い闇へと転化し始めている。
私はその場に固まり、動けなくなった。まるで先程の夢が続いているかのようで、私はその目の前の光景を、しきりに否定した。
「違う! 違う! 違う!」
私は目を閉じて、必死に何度も呟いた。
違う! これは現実ではない! 夢なんだ!
「……じょうぶ? 早妃、大丈夫? 早妃!」
数秒か、永遠か、その幾何を経て、肩に触れた手に驚き、私は目を開ける。目の前には心配そうに私を見る、いつもの宗佑の顔があった。
「早妃? 大丈夫? なんかうなされてたけど……」
「宗佑……」
いつもの宗佑の顔を目の当たりにすると、私は安堵し、そのまま彼に抱き付いた。
「おいおい、どうしたの?」
「ごめん……怖い夢見た……」
そう、今、目にしたものは夢の続き。そして今、目の前に居る宗佑が現実。私はその背中に回された温かい腕に、揺るぎない『現実』を求めた。それに応えるように、宗佑の腕は優しく私を包み込む。
「大丈夫、俺がついてるから」
そう言って、何度も背中をさする彼の手の温かさが胸の内に届き、私は自然と涙が溢れ出た。
翌日。
その日は何故か私は体調が優れなかった。気圧のせいでもなく、二日酔いでもなく、私は朝から頭が痛くて仕方が無かった。
「篠田さん、大丈夫? お薬上げましょうか?」
心配してくれる芳野さんの言葉に甘えて鎮痛剤を貰ったけど、それは気休めにもならず、余計に痛くなった気がする。
「篠田君、これを飲みなさい。少し強い奴だから、きっと効果あるだろう」
数時間置いて、まだしかめっ面の私を見て、今度は課長が手持ちの鎮痛剤を差し出した。
「すみません……」
藁をもすがる思いで、私は鎮痛剤を受け取ると、炭酸水と一緒にそれを体内に流し込んだ。
「少し、休憩室で休んでおきなさい」
日頃細かくて煩わしい課長も、いざという時は理解を示してくれる。
課長の言葉に甘え、私は休憩室に入ると。備え付けのリクライニングソファに倒れ込んだ。
頭まですっぽりと支えてくれるそのソファに腰を下ろすと、薬が効いてきたのか、優しい睡魔が訪れ、私はそれに身を委ねた。
どのくらい眠ったのか? 私は慌てて目を覚ます。
そして、目を瞑る前の記憶を遡る。
そう、私は見積書の作成の途中。頭痛のせいでその見積書は殆ど手付かずの状態。せめて今日中に仕上げないと、他のプロジェクトの資料の準備が遅れてしまう。
私は、こめかみに意識を集中させ、まだ痛みが残っていないかを確認する。まだ頭の奥に僅かばかり痛みの芯は残っているようだが、先程よりはだいぶ落ち着いている。薬が効いたのだろう。仕事が出来ない程じゃない。
私はソファから立ち上がり、シャツとスカートを整える。
その瞬間、テーブルに置いていたスマートフォンが激しく鳴動した。慌てて手に取り、着信者を確認するも、見た事のない番号が羅列されており、私は一瞬ためらった。
しかし私の中で、何故かその電話に出るべきという意識が働き、気が付けば応答のボタンをタップしていた。
「もしもし……」
スピーカーからはわずかに喧騒のような音だけが流れており、私の問いに答える気配はない。だけど私は何故かそれを切る事が出来なかった。そしてその騒音は徐々に近づき始め、昨晩見た夢で聞こえた、あの甲高いノイズ音となった。そしてその音に紛れ、また、誰かの声が聞こえる。
『……を醒ませ……』
『……じゃない! ……すんだ!』
『……いだ! ……まして……』
その声は切羽詰まったように、切実な叫びに聞こえた。
気味悪くなった私は電話を切ろうと、そっと耳元からスマートフォンをずらした。
その刹那、ノイズ音が激しく鳴り響き、私の鼓膜を直撃した。
「きゃああ!」
私は堪らずスマートフォンを落として、そのままソファに倒れ込んだ。
耳を塞ぎ、そのノイズを遮るも、他の音を全て遮断するように、それは直接私の鼓膜と脳内に鳴り響いた。
「いや! やめて! 」
そう叫ぶも、ノイズ音にかき消され、自分の声さえも聞き取れない程。私はソファにうずくまり、そのノイズが立ち去るのを待った。そして、誰かが私の肩を掴んだ。ハッとしてそれに目を開けると、
「きゃああああ!」
私はまたもや絶叫する。
目の前に居たのは、昨晩目にした鈍色の肌をした誰か。宗佑の時と同様に、その表面を無数の黒い点が蠢いている。その誰かは私の肩を掴み、しきりに揺さぶりをかける。そしてまっすぐに私を見つめるその目には瞳が無く、眼球そのものが真っ黒に染まっていた。私は堪らず目を閉じて、今見たものを必死に否定した。
「……さん、大丈夫? ねえ、篠田さん、目を覚まして」
明確な言語が耳に届いた瞬間、ノイズ音は嘘のように消え、誰かの叫び声も途絶えた。そして恐る恐る私はもう一度、目を開ける。
「大丈夫? 篠田さん。今日はもう、早退したら?」
目の前には心配そうに私を見据える芳野さんがいた。私の肩に乗っていた手も芳野さんの手。ついさっきまでは握り潰す程にがっしりと掴まれていた肩も、今は芳野さんの柔らかい手がそっと添えられているだけ。
「す、すみません……ちょっと私、疲れてるのかも……今日は、帰ります……」
咄嗟に私は見え透いた言葉で誤魔化した。
「うん、それがいいかも。一人で帰れる?」
いつもの声音で優しく問いかける芳野さん。しかし、その目の奥にはほんの少しだけ、何かを訝しむ疑念があった。私はそれに気づいていないかのように、彼女から視線を外した。
その帰り道、私はもう一度スマートフォンを開いて、着信履歴を確認した。
ない。
やはり、休憩室で掛かってきたあの電話の履歴は、どこにも残っていなかった。
私は本当に疲れているのか? しかし、あのノイズがまだ耳に残っている。二度も聞こえた同じ音と、誰かの声。それは何かの兆候か? それとも何かの意思? 更にはまざまざと目に焼き付いている、宗佑と芳野さんの鈍色の肌。そして蟲のように蠢く無数の黒い点。忘れたくてもそのおぞましさは、あまりに鮮烈。しかし、だからと言って二人が何かおかしいという訳でもない。おかしいのは私の方。やはりきっと疲れているんだろう。さほど忙しくない仕事に、恵まれた職場環境、さらには優しい同僚と恋人。そのどこに疲れる要素があるのか不明だけど、今の私は休む必要があるのかも知れない。もし、これ以上変なものを見たり、体調が優れなかったら病院へ行こう。
私はそう自分に言い聞かせ、自宅への帰路を急いだ。
この通りを抜けて、突き当りのコンビニの角を曲がれば、自宅のアパートの前の道に出る。
時計の針は十五時。コンビニで軽く食べ物を買って帰って、四五時間眠ろう。何も考えず、今日は休むことにする。私はとやかく考える事を一旦やめる事にした。
まだ少し痛む頭に目を細めながら、私はコンビニの前の信号で立ち止まる。信号は赤になったばっかりで、数分足止めを喰らいそう。その間、コンビニで何を買おうか思案していると、目の前を緊迫した表情の女性が走り抜けていった。
「え?」
ほんの一瞬だったけど、私はその女性と目が合ったような気がした。
そしてそれを追うようにして、黒いSUV車が私の前を突き抜けていった。そのSUV車はまさに黒い鉄の塊。車体も真っ黒に塗装され、フロント、リヤ、サイドのガラスにも真っ黒にスモークが施され、車内の様子を窺う事も出来なかった。そして無機質でありながら、容赦ない威圧感に満ち溢れていた。ほんの一瞬だったけど、私はその車に底知れない『畏怖』を覚えた。
更にその数秒後、激しく鳴り響く急ブレーキ音が私の鼓膜を貫いた。更にはそのブレーキ音に被される誰かの叫び声も、わずかだけど私の耳には届いた。
「え? 事故?」
私はその音の方向に目を向ける。すると、丁度SUV車がブレーキランプを踏んだ後、急発進をしてたちまち消えていくのが見えた。
アスファルトには何も残っておらず、行きすがる人たちは何事もなかったかのように素知らぬ顔。悲鳴はあの女性のものだったのか? よもや衝突したのかと私は不安を覚えたが、何の痕跡もないということはきっと無事なはず。それに誰も見向きもしていない。事故ともなれば、少なからず誰かが立ち止まるはず。
腑に落ちない自分を押さえつけ、私は信号が青になったのを確認すると、目の前のコンビニへと入っていった。
「ごめん……起こしちゃった?」
私がソファで目を覚ますと、部屋には宗佑が来ていた。
「あ、うん……」
付き合ってすぐに、私たちは互いの自宅の合鍵を持ちあっていた。だけどどちらかというと、宗佑が私の部屋に入り浸るのが殆どだった。何かあればその都度、自宅まで駆け付けてくれる宗佑。私はそれに甘えていたし、それに頼ってもいた。そしてそれが当たり前だったし、なんならもう半分同棲しているようなもの。
だから、急に彼が部屋に居る事は、私にとってなんら不思議ではなかった。
「来てくれてたの?」
「うん……なんか心配でさ。もう、頭痛くない?」
「うん、だいぶ、良くなったみたい」
宗佑の言葉に、私は頭が痛かった事を今さらながらに思い出した。しかし、彼の優しい笑顔を見たら、痛かった事なんてもう、どうでもよくなった。
「で、晩御飯作ったから一緒に食べよ。ほら、着替えて」
「うん、ありがと」
帰って来てそのまま、スマートフォンで動画を観ながらいつの間にか眠っていたようだ。
服装も仕事着のまま。私はソファから立ち上がると、部屋着に着替える為に寝室へと向かった。その瞬間、スマートフォンは誰かのメールの着信を受けたようだが、私はそれを見ないまま放置した。個人宛に届くメールなんて見る価値の無いものばかり。正直、宗佑とのメッセージのやり取り以外、確認する必要性など私には無かった。
「ね、早妃……こんなタイミングで切り出すのもなんだけどさ……」
宗佑特製のパスタとサラダに、私が舌鼓を打っていると、彼は急にかしこまった様子で、もぞもぞし始めた。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと……その……」
「だから、どうしたの?」
急に恥ずかしがる宗佑。私は気になってつい、言及する。
「もったいぶらないで言ってよ。気になるじゃん」
「いや、でも、やっぱり……今日じゃないのかも……」
「切りだしておきながら、ずるいじゃん! なに? なんかあったの?」
問い詰められた宗佑は、意を決したように唇を噛みしめると、持ってきた鞄からとあるものを取り出した。そして深呼吸を一度したのち、彼は私の前に跪いた。
「え? え? なに? 嘘?……」
その宗佑の行動に、私の胸は今までに無い程に高鳴った。
そして宗佑は私の目をまっすぐに見つめ、ゆっくりと口を開くのだった。
つづく
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