第3話
◆◆◆第3章 ——観測を手放す日
(三日目の夜。)
時計は夜九時をまわっていた。
明里は寝室で、いつものようにぬいぐるみを抱いて眠っている。リビングには、テレビの音も、BGMもない。
テーブルの上には、飲みかけのビールと、冷めたままの味噌汁。
美冬は、両手を膝の上で組み、陽介の顔を見つめていた。
「……ちゃんと、教えて」
静かな声だった。
「髪の長い沙織さんを、“知ってる”みたいに言ったでしょ。陽菜ちゃん、って名前も。あれ、なんで?」
陽介は目を逸らし、しばらく黙っていた。
キッチンの時計の秒針だけが、部屋の音を独り占めしていた。
「……昔さ」
ぽつり、と陽介が言う。
「大学のとき、俺、沙織と付き合ってたんだ」
美冬は、息をひとつ呑んだ。
知っていた。かつて“少しだけ親しかったらしい”という程度には聞いていた。
でも、その言葉には、もっと深い色がついていた。
「将来の話とかも、してた。結婚したらさ、とか。バカみたいな話だけどさ」
陽介は、自分で笑おうとして、失敗した。
「でも、美冬と会って……変わった。沙織とは別れた。ちゃんと終わったはずだったんだよ」
「……だった、はず?」
美冬が繰り返す。
陽介は、しばらく天井を見上げていた。
「半年前くらいかな。なんとなく、SNSで“知り合いかも”って出てきてさ。見ちゃったんだよ。沙織の、アカウント」
指先が、缶ビールの縁をいじる。
「髪、長くしててさ。隣に、女の子が写ってて。『陽菜、五歳になりました』って書いてあった」
美冬の心臓が、どくんと鳴った。
「“結婚おめでとう”って昔のコメントもいっぱいついてて。あの写真、何回も見た。そのたびに、頭の中で勝手にストーリーがつくんだ」
——もし、あのまま別れなかったら。
——もし、あのまま沙織と結婚していたら。
「仕事で失敗したときとか、家でうまくいかないときとか、ふと考えちゃうんだよ。もうひとつの人生が、どこかで続いてるんじゃないかって」
陽介は手で額を押さえた。
「寝る前に、その“もう一つの人生”を想像してたらさ……だんだん、夢と現実の境目がわかんなくなってきて……」
美冬は、唇をきゅっと噛んだ。
(陽菜の世界……)
「……それ、いつから?」
「正確には覚えてない。でも、ここ数ヶ月は……ほぼ毎晩だったと思う」
毎晩、眠りに落ちる前に、“別の家族”を、陽介は頭の中で何度もなぞっていた。
それはただの妄想かもしれない。
けれど、世界が複数あるとして——
誰かが強く、何度も何度も、ひとつの“可能性”を見続けたら。
その可能性は、ほんとうに、どこかで、骨を持って立ち上がってしまうのだろうか。
美冬の背中に、ひやりとしたものが走った。
「最近……さ。沙織さんが“揺れてる”って、思わなかった?」
自分で聞きながら、答えはもうわかっていた。
陽介は、うつむいたまま、小さく頷く。
「気づきたくなかった。俺が、変な世界を見てるせいで……誰かが、どこかで、ずれてるかもしれないって」
声が震えていた。
「でも、明里といるときも、美冬といるときも、ふっと、よぎるんだ。——“もう一つの家”のことが」
美冬は、ぎゅっと手を握りしめる。
「それが……世界を、歪ませた?」
言葉にすると、馬鹿げている。
でも、沙織の“ズレ”を見続けてきた今の彼女には、笑い飛ばすことができなかった。
「……ごめん」
陽介が、やっと絞り出した言葉は、それだけだった。
「俺がさ。ちゃんと、今の家族だけを見てれば……こんなこと、起きなかったのかもしれない」
(——きっと、それだけが原因じゃない。それでも、そう思わずにはいられないのだろう)
美冬は、胸の奥でそう呟いた。
テーブルの上で、缶ビールが、かすかに揺れた。
美冬は、顔を上げる。
「……だったら、今からは、やめて」
「……え?」
「もう一つの家族を、想像するの。別の世界の沙織さんと、陽菜ちゃんと、自分を。——見るのを、やめて」
それは、責める言葉ではなかった。
ただ、世界の片側を守るための、切実な頼みだった。
陽介は、何度か瞬きをしてから、深くうなずいた。
「……わかった」
そのときはまだ、それがどれほど残酷な決断を生むのか、二人とも、まだ完全には知らなかった。
⸻
その夜、陽介が寝室へ向かったあと。
美冬は、明里の部屋をのぞいた。
小さな寝息。
安心しきった顔で、ぬいぐるみを抱きしめている。
美冬は、そっとベッドの縁に座り、明里の頭を撫でた。
(もし……)
想像してしまう。
もし、明里がもう一人いて。
どちらかを選ばなければいけなくなったら。
——選べない。
絶対に、選べない。
「ママ……?」
明里が、寝言で呼ぶ。
美冬は、思わずぎゅっと抱きしめた。
「……ここにいるよ」
小さな身体が、腕の中で温かい。
離さない。
離せない。
沙織さんは、それを——
手放そうとしている。
涙が、ひとつ、こぼれた。
美冬は、そっと明里を布団に戻し、部屋を出た。
廊下で、胸を押さえる。
(……沙織さん)
どれほどの痛みを、抱えているんだろう。
⸻
その夜、家の近くの公園へ出た。
街灯に照らされたブランコが、誰も乗っていないのに、ほんの少しだけ揺れている。
ベンチに、小さな影がひとつ。
「……蒼太くん?」
声をかけると、振り向いた顔は真っ赤で、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「……せんせい?……」
掠れた声でそう言ったあと、はっとして、
「……美冬、さん」
と、言い直す。
「こんな時間まで、なにしてるの?」
美冬が隣に座ると、蒼太は、空を見上げたまま、肩をすくめた。
「……ママ、また いなくなっちゃったから」
喉の奥に、何かが引っかかる。
「おばあちゃんは?」
「電話してる。……“お医者さんに相談する”って、言ってた」
“お医者さん”では、どうにもならないのだと、美冬は痛いほどわかっていた。
沈黙が、二人の間に落ちる。
やがて、蒼太がぽつりと言った。
「……ママね、ほんとは、二人いるんだよ」
美冬は、横顔を見た。
真剣な顔だった。
「こっちのママと、あっちのママ」
「……あっち?」
「こっちのママは、ぼくのママ。あっちのママは、陽菜ちゃんのママ」
陽菜という名前を知っていることに、美冬は、心のどこかで納得した。
電話の向こうから漏れた声。おばあさんの、ふとした独り言。世界の境界の綻びから、いくらでも情報はこぼれる。
「こっちのママが、“蒼太ー”って言ってくれるときね、あっちで、陽菜ちゃんが泣いてる気がするの」
蒼太の細い指が、自分の胸元をぎゅっとつまむ。
「“ママ、来て”って言ってるのに、ママ、ぼくのほうに ひっぱられてるから」
美冬は、言葉をなくした。
「……そんなこと、ないよ。ママは、どっちの世界でも、ちゃんと——」
「あるもん!」
遮る声は、震えながらも鋭かった。
「ママ、いつも、つかれてる顔してる。こっちにも、あっちにも いなきゃいけないから。身体、バラバラになりそうなんだもん」
蒼太の目から、また涙がこぼれた。
「ぼく、ね。わがまま 言ってるんだと思う」
「わがまま……?」
「“ママ、こっちにいて”って言ったら、陽菜ちゃんが さみしくなるから」
彼は、自分の足元を見つめた。
「だから……ぼくが、がまんしたら、ママ、ちゃんと どっかで眠れるかなって。あっちか、こっちで。どっちかだけで、いいから」
その言葉は、五歳の子どものものとは思えなかった。
「……そんなこと、言わなくていい」
美冬は、震える手で、蒼太の背中をさすった。
「蒼太くんが、我慢なんてしなくていいの。大人が、どうにかするから」
「でも、大人、泣いてる」
淡々としたその言葉に、胸をつかまれる。
「おばあちゃんも、ママも、電話のむこうの人も、みんな、泣いてる」
沈黙。
「じゃあ……ぼくが、決める」
蒼太は、ぽそりと言った。
「ママ、どっちの世界に いるか。ぼくが、きめる」
美冬は、息を呑んだ。
「そんなの——」
「明日ね、ママが もし、迎えに来たら……」
蒼太は、空を見上げたまま、はっきりした声で続けた。
「“ママはいらない”って言う。“陽菜ちゃんのところ行って”って」
その目は、泣き腫らしているのに、どこか冷静だった。
「そうしたら、ママ、あっちに いられるでしょ。ぼくのこと、きにしなくてよくなるでしょ」
「……蒼太くん」
「ぼくね、ママがどこにいても、忘れないから」
言い切るようにそう言うと、蒼太は、やっと美冬のほうを向いた。
「ねえ、美冬さん」
「……なに?」
「ママのこと忘れないでね」
美冬の視界が、涙でぼやけた。
「蒼太くん、今晩は、おばあちゃんと一緒にうちに泊まりにおいで」
⸻
その夜の、さらに遅い時間。
リビングの照明を落とした部屋で、スマホが震えた。
見慣れない番号。
「……もしもし?」
『美冬さん……?』
聞き慣れた声。だけど、少し遠くから響いてくるような音質。
「沙織さん……?」
『はい……遅くにすみません。たぶん、“向こう”の、私です』
向こうの——陽菜のいる世界。
『陽菜、さっき やっと寝てくれて。泣き疲れて……“ママ、いなくならないで”って、しがみついて離れなくて……』
声がかすれている。
『でも、きっと、こっちの世界でも、同じような夜が、何度もあったんだと思います』
「……蒼太くんも、泣いてました」
美冬は、夜の公園のことを話した。
『……そうですか』
沈黙の後、小さくすすり泣く音が聞こえた。
『最近、行き来が多くなってきました。こっちで意識がとんだと思ったら、向こうで目が覚めている。寝ているつもりでも、どこかで起きてる』
「……休めてないんですね」
『はい。いつか、どちらかで、倒れたまま起きないんじゃないかって、怖くなるんです』
少し間を置いてから、沙織は、震える声で続けた。
『でも……なんとなく、わかるんです』
『どこか一つの世界で、“この人は、この世界のものだ”って、誰かが、ちゃんと観測してくれたら——私は、そこに固定される気がします』
そこで、少しだけ声色が落ち着いた。
『ただ……“ここにはいなかった人だった”っていう記憶は、きっと残ると思います。思い出すだけなら、その世界に縛られずにいられるから』
それは、残酷な真実だった。
「そうなったら……もう一つの世界では?」
と、美冬は問う。
『きっと……“いなくなったことになって”しまうんだと思います』
どちらかでは、母親として生きる。
どちらかでは、“もともといなかった人”になる。
『私が決めるべきなんでしょうけど……決められないんです』
『私には、蒼太も陽菜も……どちらも、本当に”私の子”だから』
泣き声が、少しだけ大きくなる。
『どちらかを選ぶことが、どちらかを裏切ることにしか思えなくて……』
「……決めなくていいです」
美冬は、強く言った。
「そんなの、お母さん一人に決めさせちゃいけない」
『でも、誰かが、いつか……』
「たぶん、明日です」
思わず、口からこぼれた。
『……明日?』
「蒼太くん……自分で、決めるつもりです」
そのことを伝えると、電話の向こうは長い沈黙に包まれた。
最後に、か細い声が落ちてくる。
『……あの子に、そんなことをさせたくなかった』
「でも、もう決めてます。五歳なのに……とても、覚悟のある顔でした」
『……そう、ですか』
雨が降り出したような音がした。それが現実の窓か、別世界の窓かは、もうわからない。
『美冬さん』
「はい」
『もし、私が……こちらの世界に固定されたら。そちらでは、私のことを——』
「“いなかった人”として、観測するんですね」
美冬は、静かに言った。
『……はい』
「でも、忘れません」
小さく笑った。
「“この世界では、いない人”。でも、どこかの世界では、ちゃんと母親をしてる人。——そういうふうに、覚えておきます」
電話の向こうで、嗚咽が響いた。
『……ありがとうございます』
通話が切れたあと、美冬はしばらくスマホを握りしめたまま、動けずにいた。
⸻
客間に布団を敷いて、蒼太とおばあさんが休む準備をしていた。
おばあさんが洗面所へ行ったあと、美冬は蒼太の横に座った。
「……ねえ、蒼太くん」
「うん」
「本当に、いいの? 明日、そんなこと言って」
蒼太は、布団の上に正座したまま、自分の膝を見つめていた。
しばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……ぼくね、きのうの夜、れんしゅうした」
「……練習?」
「うん」
蒼太は、小さな拳を握りしめる。
「洗面所の鏡の前でね、“ママは……いらない”って、言ってみた」
美冬の胸が、きゅっと締めつけられた。
「でも……ぜんぜん、言えなくて」
声が震える。
「“ママは”まで言ったら、なみだが出ちゃって。“いらない”が、ぜんぜん言えなかった」
蒼太の目から、涙がぽたぽたと落ちた。
「だから、なんかいも、なんかいも、れんしゅうした。“ママは、いらない”、“ママは、いらない”って」
両手で顔を覆う。
「……ほんとは、いる。すごく、いる」
嗚咽が漏れる。
「でも、ママが、こわれちゃうから」
美冬は、もう何も言えなかった。
ただ、そっと蒼太の背中をさすり続けた。
「ぼく……がんばる」
蒼太は、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「明日、ちゃんと言う。ママに、“陽菜ちゃんのところに いって”って」
その瞳は、五歳の子どもとは思えないほど、強かった。
「そしたら、ママ、やすめるよね」
「……うん」
「ママ、わらえるよね」
「……うん」
「じゃあ、ぼく……」
蒼太は、布団に潜り込んだ。
「ぼく、ママのこと、ずっと おぼえてる」
その小さな声を最後に、蒼太は目を閉じた。
美冬は、部屋を出る前に、もう一度振り返った。
布団の中で、蒼太の肩が小刻みに震えていた。
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