ママが薄く見える朝──消える母の確率分布
奈良まさや
第1話
幼稚園の門の前で、ママ友の姿が“薄く”揺れていた。
「きのう、ママいなかったもん」
そう言ったのは、その足元にいる五歳の男の子。
ただのお迎え忘れじゃない。“存在ごと消えていた”ような言い方だった。
同じ昨日に、矛盾する沙織の目撃情報がいくつも重なっていく。
夫と実家に戻った沙織。
イタリアンで笑っていた沙織。
——もしかして、この人は「二つの世界」に同時に存在している?
そして、どちらにも子どもがいて、どちらからも「ママ」を求められているとしたら——。
◆◆◆第一章 ——沙織と蒼太のいる朝
(一日目の朝。)
朝七時四十五分。薄曇りの空の下、佐伯美冬(三十二歳)は娘の明里の手を引いて幼稚園の門をくぐった。
「ママ、はやくー!」
明里が駆けだそうとしたその横で、美冬はふと足を止めた。
——いた。
いつもの場所に、及川沙織(三十四歳)とその息子・蒼太(五歳)。
だがその姿が、妙に“薄く”見えた。光の具合か、寝不足のせいか。ただ、その違和感はすぐ形を持つことになる。
「おはよう、美冬さん」
沙織が笑う。けれどその笑顔は、“ここにいるのが当然”と自分に言い聞かせているようでもあった。
「おはようございます。蒼太くんも」
蒼太はいつもどおり美冬を見上げ、次の瞬間、ぽつりと言った。
「……明里、ママがいていいな」
「えー、なんで? 蒼太くんもいるじゃん」
明里は笑って近づくが、蒼太は半歩よける。視線は明里ではなく、その向こう——沙織のほうを向いていた。そして、誰に向けるでもなく呟く。
「……ママ、きのう、いなかったもん」
美冬は息を呑んだ。
いなかった? 買い物とかじゃない。お迎えを任せたとかでもない。“いなかった”を、蒼太はまるで“存在ごと消えていた”ようなニュアンスで言った。
「蒼太」
沙織が慌てて頭を撫でる。だがその指先が、まるで触れていないように見えた。
——一瞬だけ、蒼太の髪の上で手が空を切ったように。
次の瞬間、しっかり触れている。美冬は目を瞬いた。
(……いま、見間違い……?)
「ごめんね、美冬さん。この子変なこと——」
沙織はそう続けながら、声の揺れをかくしきれなかった。
⸻
園庭の時計が八時を指しかけた。明里は先生のもとへ走っていく。
蒼太も続くが、途中で振り返り、小さな声で言った。
「きょうのママ……ちゃんと、いる?」
その言葉に、美冬の胸がひやりと照らされる。
沙織は、笑えなかった。顔を向けると——そこには確かに“いる”。けれどその瞬間ごとに、濃くなったり、薄くなったりするような……そんな奇妙な気配がまとわりついている。
(……ちゃんとここにいるのに、どういうこと?)
美冬の脳裏を、淡い寒気がかすめた。
⸻
帰宅途中、スマホが震える。ママ友LINEだ。
〈Aママ〉聞いた? 昨日沙織さん、旦那さんと大ゲンカして実家に帰ったんだって
(……昨日?)
〈Bママ〉え? 昨日イタリアンで友達とディナーしてたよ? 写真上がってた
〈Cママ〉ていうか離婚するかもって前から言ってなかった?
昨日だけの話に、異なる世界が重なっている。まるで、昨日の沙織という存在が分裂しているみたいに。
(昨日……蒼太も“いなかった”って……)
ぞわりとした。
⸻
午後。お迎え時間。
門の前に沙織はいない。美冬は先生に尋ねる。
「今日、及川さんは……?」
先生は一瞬、言葉を探し——
「……お迎えは、おばあさまが来られて」
「沙織さん、おばあさま、体調悪いって言ってたんで、良くなったんですね。良かった」
先生は視線をそらした。
「……そうですよね。沙織さん、忙しいんですかね。最近、おばあさまばかりで」
(……そう? 今朝はいたし、急用じゃない?)
今日の朝、確かにそこにいた。でもそれを証明する証言が、先生から出てこない。まるで——先生の“今日”には、沙織が含まれていなかったみたいに。
蒼太のロッカーを見る。妙に整いすぎている。昨日までついていた泥も、擦り傷も、まるごと消えている。
(ロッカー買い替えたのかしら……? でも、こんな一瞬で?)
違和感はじわじわと形を持ち始めていた。
⸻
夕食の支度中。明里が言う。
「ねえママ。きょうのそうたくんね、“ママ、きのうもいなかった”って言ってたよ?」
美冬は思わず包丁を置いた。
「昨日……“も”?」
「うん。“きょうのママは いる……でも すぐいなくなるかも”って」
(今日の……ママがいる? でも“すぐいなくなる”……?)
昨日は丸ごと抜けていた。今日は“朝はいた”。そのあと——空中を移動するように、いる/いないが細かく切り替わっている。それを感じ取れるのは、この世界に固定されている存在——つまり蒼太だけ。
(あの子……わかってる? 何が起きてるのか……)
美冬の背中が冷たくなる。
⸻
深夜。陽介が帰宅。
「ママ友の及川さんって……あなたは、どんな印象?」
と美冬が聞くと、陽介はぼんやりと答えた。
「……髪、長かったよな?」
「陽菜ちゃん、同じ組だよな?」
美冬は喉がひっくり返るような感覚に襲われた。
「ずっとボブだよ……?」
「陽菜ちゃんって、誰?」
陽介は困ったように眉を寄せる。
「え?……俺、誰と間違えてるんだっけ?」
その誰は——たぶん今の世界の沙織じゃない。
(陽介は……別の世界の沙織を観ている……? だとしたら……昨日の不一致も……)
世界がぐらりと揺れた気がした。
⸻
美冬は夜道へ出る。どうしても確かめたかった。
及川家。角を曲がって視界に入った瞬間、美冬は息をのんだ。
玄関の灯りは消え、表札が外されている。跡が、くっきり残っている。
(……今日の朝は、あった…… 確かに見た……)
そのときだった。玄関横のゴミ袋が、誰かに押されたようにすこし沈んだ。風じゃない。猫でもない。“何か”の存在が触れた痕跡。
美冬は、静かに背筋を震わせた。
(今日の沙織は朝、ここにいた。でも昨日の沙織は——ここには、いなかった)
昨日の沙織が抜け落ち、今日の沙織が不安定に出入りしている——そんな“存在の境界”が、目の前の暗がりに滞っている。
家に引き返しながら、美冬は振り返った。街灯の下に、影が二つ揺れた。
一つは自分。もう一つは——
“今朝の沙織”ではない別の“昨日の沙織”。
影は音もなく滲み、消えた。美冬は走った。涙がにじむ理由がわからないまま。
心のどこかで確信していた。
——昨日の沙織は“まるごと抜け落ちていた”。
——今日の沙織は“揺れながら戻りつつある”。
その移動の隙間に、何かが生まれ始めている。
明里の寝顔を見ながら、美冬は胸を押さえた。
——これはただの失踪じゃない。
——世界のほうが、沙織を“どこに置くか”決めかねている。
そう思えてしまうほど、胸のざわつきは深かった。
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