第29話 ブレブレ

 平日の夜8時。

 まだまだ帰宅ラッシュである時間だが、その日の車内は静かだった。


 それもそのはずだ。同時に10人が自殺の動画は日本中に流れ、この路線を好き好んで使う者はごく少数しかいなくなった。

 乗っているのは、どうしてもこの路線を使わないと通勤や通勤がままならない者が、一部の物好きだけ。


「もうすぐ止まんじゃね!?」


「止まったら、すぐに動画とろーぜ!」

 そう言ってケラケラと不快な声をあげて笑う、大学生風の彼らを、隣の座席に座る木渡さんは睨みつけて、こう言った。


「……穢らわしい」

 その声量は、聞こえないようなボソッとしたものではなく、普通の音量だった。

 その罵倒は、必然的に彼らの耳に届く。


「おい……。そこの女、なんか言ったか?」


「言ったよ。穢らわしいって」

 相手の目も見ないで言い返す木渡さん。

 彼らは立ち上がり、こちらに寄ってくる。彼女の前に立ち、睨みつける。


 10秒ほど経ち、背の高い方が木渡さんに唾を吐きかけた。


 ぺッッ。


 それは、木渡さんのこだわっているでろう綺麗な金髪にかかった。


「調子こいてんじゃねーぞ」

 男はそう言うと、片方が例の高い声で笑う。


 ふむ。


 さっきまでは木渡さんから仕掛けたことだったから静観していたが、そろそろ動くか。

 あと、なんか木渡さんの手が震えてるし。


 自分から言葉の銃口を向けたのなら、打ち返される覚悟くらいしておくべきだと思うが、ここで黙っていたら有川さんに怒られてしまう。

 仕方なく、俺は立ち上がり彼らに視線を向ける。


「あ? なんだよオッサン」

 オッサンか。

 まぁ、おそらく10は歳が離れているだろうから、その認識は仕方がないか。


「こっちのツレが失礼しました。お詫びをしたいからこっちにきてくれませんか?」

 そう言いながら、カバンから財布を取り出す。


「お? なんだ。話が分かる奴じゃねーか」

 笑いながら近づいてくる。

 俺は1万円札を渡す際に、彼の手を強く握った。


「え。あ。ちょっと……。おい! マジで痛いって!」


「あ。すみません。私、力を入れすぎる癖があって。ペットボトルの蓋とか必要以上に強く締めちゃって開ける時に苦労するんですよ」


「いや。そんなことどうでもいい! 骨折れるって!」

 ……まぁ、これくらいでいいか。

 手を離してやると、彼はその場から崩れ落ちた。


「直樹! 大丈夫か!?」

 もう1人の男がやっと駆けつける。


 遅い。遅すぎる。

 加勢するタイミングは、いくらでもあったはずだ。でも、こいつは自分が巻き込まれなくないから1区切りついてから動いた。


 個人的には、こっちの方が腹立たしいな。

 でも、客観的には何もしていないから攻撃する理由が無い。スッキリしないが、こいつはスルーしよう。


「そのお金で、ちょっと良いもの食べて下さい。こんなところにいるより、きっと楽しいから」

 彼は、バケモノを見るような目で俺を見つめる。


 電車が次の駅に着くやいなや、彼らはダッシュで駅を降りる。


「……ふぅ」


 1仕事終えた。

 座席に座り直して、車内の様子を見張る作業に戻る。


「あの……すみませんでした」


「全然良いけど、らしくなかったな」

 これは彼らを罵倒したことではなく、彼らの片方に唾を吐きかけられたことに何の反撃もしなかったことについて言及している。

 このヒトなら、吐き返すくらいのことはするかと思ったのだが。


「……普段は粋がってますけど、ああいうヒト達が苦手で……。翼をいじめていた奴らに似ていて」


「……」


「騙し討ちみたいな形ならいけるんですけど、いざ、目の前で向き合うと震えてきて……。本当に情けないです」

 顔を伏せる木渡さん。

 それを見ながら、俺は先ほどの己の発言を悔いていた。


<らしくなかったな>

 あれは、らしさの押し付けでしかなかった。


 人間なんて、いつどこでブレるか分からない生き物なのに、木渡さんにはいつもの飄々とした態度でい続けることを望んでしまった。

 俺なんか、信念がブレブレなのに。


「……まぁ、みんなそんなもんだよ」

 結果、俺はどうとでも取れることしか言えなかった。


「……」


「……」

 気まずい。


 こんなことなら、俺もプラットフォーム担当グループに立候補すれば良かった。

 有川さん達は、仲良くやっているだろうか。


 数日前の会議を思い出す。

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