アンカー・ライト

朔月 滉

第1話 灰色の逃避行


 雨が、世界を灰色に塗りつぶしていた。

 高層ビルの三十二階、ガラス張りの会議室。窓の外では冷たい雨が容赦なく降り注ぎ、東京の夜景を滲ませている。視界に映る無数の光の粒が、まるで溺れていく蛍のように見えた。


「篠宮さん、申し訳ないんですが」

 クライアントの声が、耳の奥で遠く響く。無機質で、事務的で、そして何より——決定的だった。

「今回のプロジェクトは、このまま進行することが難しいという結論に至りまして」


 朝陽の手元には、三ヶ月かけて作り上げた企画書がある。ページの隅が少しだけ折れていた。昨夜、何度も読み返しながら無意識に触れていた跡だ。そこには、自分が撮りたい映像のイメージ、伝えたいメッセージ、全身全霊を込めた映像の核が詰まっている。


 いや、詰まって


「方向性が違う、とでも言いますか。もう少し、こう……万人受けするものを」

 その言葉が、朝陽の胸に突き刺さる。婉曲な拒絶の常套句。つまり——お前の感性は求められていない。お前のビジョンには価値がない。そう言われているのと同じだった。


「分かりました」

 自分の声が、驚くほど平坦に聞こえた。喉の奥で何かが詰まっているのに、言葉だけは滑らかに出てくる。

「こちらの未熟さで、ご迷惑をおかけしました」


 違う。未熟なんかじゃない。朝陽は、ただ——自分が信じるものを形にしようとしただけだ。けれど、それは「未熟」と呼ばれた。この世界では、自分の感性を貫くことが、成熟していないことの証なのだと。


 会議室を出る。長い廊下の蛍光灯が、規則正しく頭上を流れていく。エレベーターのボタンを押す。下降を示す矢印が、冷たく光る。

 ——下り。

 その文字が、妙に胸に染みた。


 ◇ ◇ ◇


 ビルの外に出た瞬間、雨が容赦なく朝陽を叩きつけた。

 傘を持ってくるのを忘れていた。いや、今朝家を出るときは晴れていたのだ。けれど空は、人間の予定など知らないかのように、突然涙を流し始めた。


 濡れた髪から雫が滴り落ちる。Tシャツが肌に張りつく。それでも朝陽は、雨の中に立ち尽くしていた。動く気力が、どこにも見当たらなかった。


 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。一度、二度、三度——。取り出すと、画面には「プロデューサー 田端」の文字。

 きっと、今回の件を聞きつけたのだろう。慰めか、叱責か、あるいは次の仕事の話か。どれでもいい。どれも、今は聞きたくなかった。


 着信を無視する。けれど、すぐにまた震える。今度は別の名前。そしてまた別の名前。画面が次々と光る。


 ——お前は期待に応えられなかった。

 ——お前には才能がなかった。

 ——お前は、必要とされていない。


 その光が、まるで自分を責めているように見えた。

 朝陽は震える手でスマートフォンの電源ボタンを長押しした。「電源を切りますか?」という無機質な問いかけ。迷わず「はい」をタップする。


 画面が暗くなる。世界との接続が、そこで途切れた。


 ◇ ◇ ◇


 どれくらい歩いただろうか。

 気づけば、朝陽の服はずぶ濡れで、靴の中まで水が染み込んでいた。冷たい。体の芯から冷えていく。けれど不思議と、その冷たさが心地よかった。痛みを感じているということは、まだ生きているということだ。


 都会の喧騒が、雨音に紛れて遠くに聞こえる。車のクラクション。誰かの話し声。ビルから漏れる明かり。全てが、ガラス越しの向こう側にあるような気がした。自分だけが、透明なフィルムで隔てられた世界にいる。


 朝陽は立ち止まり、空を仰いだ。雨が、顔に容赦なく降り注ぐ。瞼を閉じる。雨粒が、睫毛を伝って頬を流れていく。


 それは、雨だけではなかったかもしれない。

 ——でも、今は。

 今は、ただ、逃げたかった。


 朝陽は再び歩き出した。行き先も分からないまま、ただ足を動かし続けた。雨音だけが、耳の奥で鳴り響いていた。


 ◇ ◇ ◇


 気づけば、朝陽は駅にいた。

 どうやってここまで来たのか、記憶がはっきりしない。ただ、足が勝手に動いていた。


 駅の構内は、帰宅を急ぐ人々で溢れている。ビニール傘の透明な天蓋が、無数の花のように頭上を埋め尽くしていた。誰もが、どこかへ向かっている。帰る場所がある。待っている人がいる。


 自分にも、一応そういう場所はある。狭いワンルームのアパート。乱雑に積まれた機材と、洗っていない食器と、誰も待っていない部屋。


 そこに帰って、それから?

 また企画書を書く。また誰かに見せる。また「方向性が違う」と言われる。また、また、また——。

 エンドレスに続く拒絶の連鎖が、目の前に広がっているような気がした。


 朝陽は、人混みの中で立ち尽くした。傘を持たない自分の周りだけ、人々が避けるように流れていく。まるで、川の真ん中に立つ岩のように。


 電光掲示板を見上げる。次々と表示される行き先の名前。どれも知っている場所ばかりだ。東京の、関東の、見慣れた地名。

 その中に——「下り」という文字。


 朝陽の足が、勝手に動いた。改札を抜け、階段を降りる。そこに停まっていたのは、見慣れない行き先を示す深夜の高速バスだった。

「……どこでもいい」

 呟いた自分の声が、やけに遠くに聞こえた。


 窓口でチケットを買う。

「行き先は?」

 係員が尋ねる。朝陽は電光掲示板を見つめたまま、答えた。

「一番……遠いところ」

 係員が怪訝そうな顔をしたが、何も聞いてこなかった。きっと、こういう客は珍しくないのだろう。逃げる人間は、いつの時代もいる。


 受け取ったチケットには、見知らぬ地名が印刷されていた。読み方も分からない。それでいい。知らない場所。誰も自分を知らない場所。

 朝陽はバスの最後尾の席に座った。乗客はまばらで、誰も朝陽に関心を払わなかった。それが、ひどく心地よかった。


 発車のアナウンスが流れる。エンジン音が低く唸る。バスがゆっくりと動き出した瞬間、朝陽は初めて、小さく息を吐いた。

 窓に額をつける。冷たいガラスが、熱を持った額を冷やしてくれた。


 窓の外では、東京の夜景が流れていく。高層ビルの明かり。コンビニのネオンサイン。車のヘッドライト。無数の光が、雨に濡れた窓ガラスを滑り落ちていく。

 それらの光は、朝陽には全てが責める目に見えた。


 ——お前は逃げるのか。

 ——お前はここで諦めるのか。

 ——お前はそれでいいのか。


 朝陽は目を閉じた。瞼の裏に、会議室の光景が蘇る。クライアントの冷たい視線。企画書に書かれた、自分の手書きの注釈。三ヶ月間、寝る間も惜しんで注ぎ込んだ情熱の結晶。


 それが、一瞬で無価値だと告げられた。

 もう、燃え尽きた。朝陽は、本当に燃え尽きてしまったのだ。灰になって、もう何も残っていなかった。


 首から下げているはずのフィルムカメラも、今日は持ってきていない。あれは、自分の分身のようなものだったのに。でも今朝、それを手に取ることができなかった。触れることさえ、怖かった。


 やがて、車内の照明が落とされた。暗闇が、優しく朝陽を包み込む。

 反対側の席では老人が静かな寝息を立て始めた。前の方から、誰かのイヤホンから漏れた音楽が、小さく流れてくる。誰も、誰のことも気にしていない。ただ、それぞれの理由で、夜の闇を旅している。


 朝陽は、深く息を吐いた。

 そして、窓に映る自分の顔を見た。濡れた髪。虚ろな瞳。頬を伝う——雨の跡。

 いや、それは雨だけではなかった。


 いつの間にか、朝陽は泣いていた。音もなく、静かに。ただ、涙だけが流れていた。窓ガラスに映る自分の顔が、雨と涙で歪んで見える。それは、ひどく惨めな顔だった。

 でも、誰も見ていない。この暗闇の中では、誰も自分を見ていない。


 朝陽は、窓に額を押し付けたまま、静かに泣き続けた。喉の奥から、押し殺した嗚咽が漏れる。胸の奥に溜まっていた何かが、ゆっくりと溶け出していくような気がした。


 バスは、夜の闇を切り裂いて、ただひたすらに走り続けた。

 行き先も分からない。戻る場所もない。

 バスの窓から流れる街の光の向こうに、まだ見ぬ朝が静かに待っていた。



 

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