共犯

ことりいしの

前編


 都内に住む中学生の従兄に「へー、晴人の小学校はもう二学期が始まるのか。早いんだな」と言われて初めて、僕は自分が通う小学校の夏休みが短いことを知った。


 言われた後、インターネットで調べてみると、十数年前、うちの市では市内すべての小学校にエアコンを設置することと引き換えに、夏休みを一週間ほど縮小させたんだという。その当時、エアコンが小学生の夏休み一週間分に相当するほどの価値を持っていたのかどうか、まだ生まれてもいなかった僕にはわからない。


 ただ言えるのは――汐谷くんと過ごせる時間を、少しでも長くしてくれてありがとう、ということだけだ。



 僕はいま、小学五年生だけれど、中学校に入学する年には家族揃ってアメリカに行くことが決まっている。商社に勤めているお父さんの海外赴任のためだ。だから、同級生の汐谷くんと過ごせる時間は、あと一年半くらいしかない。


 本当は数年前にはすでに、海外出向の打診は来ていたらしいが、お父さんは「息子の晴人が小学校を卒業するまでは日本にいようと思います」と断ったんだという。会社からは家族と一緒に行かずとも、単身赴任で行ったらどうだろうかなどの提案もされたらしいが、お父さんはこれも断ったらしい。曰く、子どもが健全に育つためには、両親が揃っている方が良い、と。お父さんの主張は、そんな感じだった。

 お父さんはそのときの事をことあるごとにあげつらって、「家族のことを想っての行動だから後悔なんかしていないんだよ」とか、「子どもは、きっちりと両親が揃っている家庭で育つべきだからね」と口にして、こちらが「そうだね、お父さん、ありがとう」と言うまで延々と言い続けた。


 正直、ただの拷問だった。


「アメリカになんか行きたくない」とも、「お父さん、行かないで」とも言っていないのに、まるで自分がお願いしたことを、お父さんが叶えてくれたみたいな構図になっている。

 行きたかったのなら、行けばよかったじゃないか。思わず口から出てしまいそうになる言葉を、口に手をあてて押しとどめたのは一度や二度ではない。

 それだけじゃない。お母さんも「そうね。そうね、晴人はあなたのことをちゃんと考えてくれる、優しいお父さんに感謝しなきゃだめよ」と赤べこのように、お父さんの言うことに頷いてばかりなのも嫌だった。


 でも、今は違う。


 心の底から、お父さんに「そうだね、ありがとう」と言える。


 だって、数年前にアメリカに飛んでしまっていたら、僕は汐谷くんに会えなかったから。




 汐谷くんは、少し変わった子だった。

 今年度の初め、クラス替えが行われた直後の教室で、僕は浮いていた。数人を除いてはクラスで友だちはいなくて、体育や調べもの学習のときにグループを組まなくてはいけないときには不便さを覚えていた。周りでこそこそと聞こえるように陰口をたたく子たちの言葉に耳をすませば、仲間はずれの理由は「鈴城くんは、何を考えているのかわからなくて、一緒にいても面白くない」であるらしかった。なんでそんなことを言われるようになったのかは、まるでわからない。


 じゃあ、君たちはお互いに何を考えているのかわかるんだ。すごいね。


 純粋な賞賛のつもりだったのに、そう言ったら、なぜかその子は泣いてしまった。周りにいたクラスメイトは、鈴城がひどいことを言って泣かせたと囃し立て、事態は担任の教師が出てくるまでに大きくなった。担任教師は僕を黒板の前に立たせて、なじった。「ごめんなさい」と言っても、「反省してないじゃない!」とさらに怒鳴る。

 確かに何が悪いかはわからなかったら、反省はしていない。でも、先生はそんな僕の真意がわかったから怒っているわけではなさそうだった。感情で殴るように、僕に暴言を吐いているような気さえした。

 結局、どうしたら赦してもらえるのかわからなくて、その場で土下座して「ごめんなさい」と言えば、さらに怒られた。


「そんなことしたら、私が教育委員会に訴えられちゃうじゃない! なんてことしてくれるの!」


 先生の言ったことの意味はまるでわからなかった。僕はただ、赦してほしくてやっただけなのに。お父さんはだいたいこうすると、赦してくれるのに。わからないまま何回も床に額をつけて謝れば、隣のクラスの先生がすっとんできて、「こういうことはしちゃダメなんだよ」と諭された。「わかりました」と入ったけど、やっぱりわからなかった。


 その一連の出来事のあと、僕はより一層遠ざけられた。遠ざけられる理由は、「何を考えているのかわからなくて、面白くない」から「何を考えているのかわからなくて、怖い」に変わった。そのあと、ほかのクラスメイトの親が「あの子と付き合っちゃいけないよ」と言っているらしいという噂も聞いた。



 だけど、汐谷くんだけが違った。彼は「確かに、誰が何を考えているかなんてわからないよね」と言って、僕の手を握ってくれた。その手は温かかった。

 誰かに手を握ってもらうなんて、思い出してみれば初めての経験で、僕は自分よりも小さくて細くて、白い手を見つめながら、この温度がなくなってほしくないと思った。

 このやわらかな温度をずっと隣に感じていたいと思った。




 夏休みが明けて、授業が始まるころになると、ツクツクボウシが鳴く練習を始めていた。

 まだ九月初旬だから、まだ都内の学校では授業が始まっていないんだろう。始まっていたとしても、きっと短縮授業ばかりだ。夏休みが少し短いおかげで、僕は汐谷くんと朝から夕方近くまで一緒にいられる。それが、喉をかきむしりたいほどに嬉しかった。


 帰りの会が終わると、毎日、僕と汐谷くんは隣のクラスの澤田と合流して、通学路を歩く。僕はできることなら汐谷くんとふたりだけの放課後を過ごしたかったけど、汐谷くんが澤田もいる方が楽しそうにするから三人でいることが多かった。

 僕の決定の中心は、汐谷くんだ。汐谷くんが嫌そうにするならやめるし、楽しそうにするならやる。僕たちは三人そろって、児童公園に行ったり、家の人がいるのことの少ない澤田の家に行ったりして遊んだ。

 今日は、そのどちらでもなく、僕たちの特別の場所で遊ぼうと前々から三人で決めていた。


 秘密基地だ。



「おい真広、早く走れよ!」

 澤田の、がなるような声が通学路に響く。

 次いでだいぶ後ろの方から、「ま、待ってよ、ゆうちゃん……」と息切れしている汐谷くんの声が聴こえる。

 その声はまるで、サイダーのようにしゅわしゅわとしていて、いちごのように甘酸っぱくて、ラムネの瓶の中に入っているビー玉のようにきらきらしているように聴こえた。

 振り返ると、彼はランドセルと一緒に夕陽を背負って、パタパタとかわいらしい足音をたてて走っていた。汐谷くんは同じくらいの年の男の子の中では、ずいぶんと背や肩幅やからだつきが小さい。男の子に使う言葉ではないかもしれないけど、華奢という方が似合うかもしれない。

 本人は、昔、病弱だった所為で背も伸びないし、肉付きも悪いのかもしれないと言っていた。


「相変わらず、真広はどんくさいな」

 澤田が言う。「相変わらず」という何気ない言葉に、舌打ちをしたくなった。


 汐谷くんと澤田のふたりは、幼馴染だ。同じ保育園出身なんだという。汐谷くんは澤田のことを、ゆうちゃんと呼ぶ。僕のことは、「鈴城くん」と苗字でしか呼ばないのに。

 それがどうにも、汐谷くんと澤田のふたりだけの世界を築いているように感じられて羨ましかった。


 幼馴染というのは、特別な関係だ。

 僕も、汐谷くんと特別な関係になりたい。

 できることなら、時間を遡って、幼馴染とかになりたかった。

 でも、世界はそれを許してくれない。

 もどかしかった。



 

 僕の先を走っていた澤田が、学区の外れにある廃屋へと入る。汐谷くんが後ろからついてくるのを確認しながら、僕も澤田に倣って廃屋へと入った。

 荒川の河川敷に位置するそこは、一軒家の体を成しているが、もうずいぶんと人が住んでいないらしい。床はコンクリートの下地がむき出しになっているし、壁紙はところどことが剥がれ落ちてしまっていた。

 そこは、三人で決めた秘密基地だった。あたりは雑草が生えているだけで、民家も工場も、マンションも何もない。大人たちはこのあたり一帯を指して、危ないから立ち入らないようにと注意しているが、僕たちがここに入るのはもう数えきれないほどだ。それに、床には覚えのない週刊の漫画雑誌やアダルト雑誌が何冊もあるし、お菓子のごみなどが散乱している。誰かと鉢合わせたことはないが、ほかにも誰かがここをたまり場にしているんだろうということは容易に想像がついた。


 僕たちから後れを取るかたちで、汐谷くんも廃屋に入ってくる。彼の履くスニーカーが床に置いてあった何かを蹴ったんだろう。カランと軽い音がした。ここの元住人はもしかしたら夜逃げでもしたのかもしれない。キャビネットや箪笥などの大きな家具から、カトラリーなどの小さなものまで、ありとあらゆる家財道具が放置されている。汐谷くんが蹴ってしまったのも、そういうものなのだろう。


 はあはあと肩で息をする彼に駆け寄って、背中を擦ろうとするが、ランドセルが邪魔でできない。しかたなく首の後ろを擦りながら、


「汐谷くん、大丈夫?」


 と言う。彼から帰ってくる言葉は、わかりきっている。こういう問いかけは、何度もしているから。


「う、うん。だいじょぶ、大丈夫」


 大丈夫。

 それが汐谷くんの口癖らしいということは、かなり前に気づいていた。

 ――大丈夫? 

 そう訊けば、多くの人が大丈夫じゃなくても、「大丈夫」と返すんだろう。それでも何度も何度も「大丈夫?」と訊いてしまうのは、僕自身が、彼から大丈夫という言葉が聞きたいからかもしれない。彼に「大丈夫」と言ってほしいからかもしれない。

「そう」

 だから、と言っても良いかはわからないけど、「大丈夫?」と訊いてしまった後は、ほろ苦い自己嫌悪感に襲われて、素っ気ない応えをしてしまう。今日もそうだった。


 汐谷くんは僕が「大丈夫」と執拗に訊く理由も、訊いたくせにそのあとには大した反応を示さないことにも、特別気にする素振りを見せない。でも、今日は違った。


「鈴城くんって、なんで、いつも俺のことを気に――」

 気に掛けるの?


 そう続くであろう言葉に、びくりとした。突然、背中に氷を当てられたときのような、恐怖とも驚きとも違う、それでもそれらに似た感覚が、身体じゅうを走る。汐谷くんを侮っていたわけじゃない。でも、彼には気づかれていないと思い込んでいる自分がどこかにはいた。

 汐谷くんが、まっすぐに僕を見つめる。

 黒曜石に喩えられそうな、黒く純粋な瞳に、射貫かれる。まるで銃口のようだった。


「おい! 何ちんたらしてんだよ! 晴人も真広も早く遊ぼうぜ!」


 だけど、澤田の言葉によって、汐谷くんの問いかけは遮られた。氷が一気に融かされ、向けられていた銃口は下げられる。硬直していた身体から、力が抜ける。救われたような気がした。


 がくがくとして、今にも座り込んでしまいそうな膝を叱咤し、どうにかそこに立って、留まるように命令する。


「今日は、サッカーだ! サッカーやるぞ」


 いつの間にか、澤田はサッカーボールを手に持っていた。薄汚れて、白と黒の境目が曖昧になっているそれは、きっとここに転がっていたものだろう。ほかにもバスケットボールが転がっているのを見たことがある。


「俺、サッカーは苦手なんだけど……」

「そんなん知ってるよ。っていうか、真広に得意なスポーツなんかないだろ」


 汐谷くんの興味はすでに、サッカーボールに移っていた。黒と白だけで構成されている無機質なそれに、自分の立ち位置を奪われたのはどうにも納得がいかないが、でも救われたのは事実だった。

 とはいえ、そのサッカーボールを持ってきたのが澤田だったということに、嫉妬した。それに澤田は乱暴な一面がある。これ幸いとばかりに、運動神経の悪い汐谷くんを軽くいじったりするかもしれない。ふたりの間でそれがいじめという認識になっていないのは、ひとえにふたりの親同士が知り合いの幼馴染だからというだけだと思っている。


 幼馴染というのはひどく特別な関係で、いろんなことへの免罪符になり得る特別な関係だから。だが、それで汐谷くんが泣いたり傷ついたりしないという理由にはならない。

 僕は、自分ではない誰かの行動や言葉によって、泣き出しそうになる汐谷くんの姿を見るのが好きではなかった。


 だから少し考えて、

「サッカーやるのは別に良いけど、ここは狭いし、サッカーゴールも無いよ」

 と言う。

「それならリフティングでどうだ?」


 そう言いながら、澤田が二、三回リフティングをして見せる。そういえば、澤田は昨年だか一昨年だかまで近所のサッカーのジュニアチームに入っていたんだったな、と思い出す。ポンポンと弾んでいくボールを、汐谷くんがきらきらした目で見ていた。


「これなら場所も必要ないだろ」

「……うん、まあ、そうだね」


 汐谷くんのきらきらした表情に見惚れていると、気が付けば適当な返事をしていた。

「でもリフティングをただやるだけじゃ、面白くねぇよな」

 澤田がにやりと笑う。

「三十回……、いや、二十回続けてできなかったら、俺たち全員分のジュースを買いに行くってのはどうだ?」


 近くにコンビニは無いし、一番近くの自動販売機だって歩いたら五分はかかる。汐谷くんの足だったら、十五分はかかるかもしれない。それがわかっているから、汐谷くんは明らかにムッとした顔をした。


「そんなの、絶対、俺じゃん。やらなくても結果が見えてるよ」

「やってみないとわからないだろ、なあ、晴人」

「うん」

「ほら、晴人もこう言ってんだからさ」


 結果はわかっている。

 汐谷くんは、二十回もリフティングはできない。

 十回だって……いや、五回だってできないかもしれない。彼が負けるのは、結果を待たなくてもわかった。


 だからジュースを買いに行くことになったら、手伝うよ、とでも言って一緒に買いに行こうと思った。ふたりきりになれる絶好の機会だと思った。

 澤田がボールを軽く蹴って、汐谷くんに渡す。


「だから、ほらっ、お前もやってみろよ」


 ボールはゆるく綺麗な放物線を描くように舞い上がって、着地点も簡単にわかるようなものだったけど、やっぱり汐谷くんはうまくキャッチできない。ころころと床に転がったボールを、のろのろとした手つきで拾った。


「ほら、がんばれよ。がんばれ、がんばれ!」


 馬鹿にしたよな澤田の言葉に、汐谷くんはやけくそのようにボールを上に蹴る。真上に、でも高すぎないように蹴れば何回かは続くはずだけど、彼のリフティングは前に前にと進んでしまっていた。ボールばかりを見て、追いかけているからだろう、目の前に壁が迫っていることに気づいていなかった。「危ない!」と言おうとしたときには、すでに壁と激突した後だった。


 ドン、という鈍い音が鳴る。

「いったー……」

 ぶつけた額に当てられていた彼の右手をどける。少し赤くなってはいるが、たんこぶにはなっていないようだった。ほっと胸をなでおろす。


「汐谷くん、大丈夫?」

「……うん、だいじょうぶ、大丈夫」

 それよりもボールは、とあたりを見渡す汐谷くんに、澤田がボールを手渡しながら、「あと、十五回足りないなー」と言う。怪我をしないかとひやひやしていて、回数を数えていなかったが、どうやら五回できていたらしい。


「そんなこと、わかってるよ!」


 怒鳴るようにして言って、ボールをひったくった汐谷くんは、再び、怒りに任せるようにリフティングを始める。さっきよりも雑に進むそれは、あっちへこっちへと飛んでいってしまう。四回目に彼が蹴ったボールは今までよりもめちゃくちゃだった。天井に当たって、ぱらぱらとした粉のようなコンクリート片の雨を降らせ、骨組みしかない壁でバウンドして、そして部屋の隅に置かれていたスーツケースにぶつかってからやっと止まった。

 ぶつかった拍子に、スーツケースが倒れる。ガンと大きな音が響いた。

 ただのスーツケースにしてはやけに重い音だ。大きな石でも入っているかのような、重い音だった。

 それが妙に引っかかった。


 僕は消化しがたい、漠然とした不安を覚えた。広いショッピングセンターや遊園地で迷子になったときと、同じ感覚だった。腹の底で、得体の知れない何かが、蠢めいているような気がする。


「ったく、真広はやっぱりノーコンだな!」

「そんなこと、俺が一番わかってるんだから、笑いながら言わないでよ」


 ふたりがスーツケースに近寄る。ボールを拾うつもりなんだろう。ついでに倒れたスーツケースも直すつもりなのかもしれない。やめた方が良い、そう言おうと思ったけど、スーツケースに手を掛けたのが澤田だったから言うのをやめた。

 汐谷くんが無事なら、それでいい。

 澤田がスーツケースを起こすと、ごろんと何かが床に転がった。倒れた拍子に壊れてしまったのかもしれない。フロント部分が開いていた。

 何気なく床に目を向ける。

 そこに転がっていたのは、紺色のスーツを着た男性だった。


 僕からしてみれば、紺色のスーツを着た男性なんて、お父さんで嫌と言うほど見慣れている。それでもその男性にはぬぐい切れない異様さと違和感があった。それもそのはずだ。動いていないのだ。それい生きている気配もない。


 それは、死体だった。


 初めて見るものだったけど、それが死体であるということを、僕は頭のどこかで理解した。

 皮膚は黒ずんでいるし、見るからにハリがない。髪の毛は脂がまったくなくて、スーパーマーケットで売られていた乾燥わかめのようだった。

 どこからどう見ても、生きていなかった。

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