第二章 『とめどない私達は』 私たちの笑顔 2話
クローゼットを開け、奥の片隅に眠っていたそれに手を伸ばす。自分で触れるのも、目にするのも、何十年ぶりのような心の古さを感じる。けど実際は、ほんの数か月ぶりに過ぎない。
どうして取り出したのか、自分でもよく分からなかった。ただ、なぜか掘り起こしてしまう。タイムカプセルを開けるみたいな感覚で。袋に包まれた黒の装備。ブランドのタグ。
『高校生』を代表するにふさわしい価値を持っていたその服と、しばらく睨み合う。
これを着て外に出ていた。これを着て、よく分からない顔で笑っていた自分がいた。それも全部『思い出』として残っている。嫌な思い出なのか、いい思い出なのか――答えはまだ分からない。
窓の外から、ぽつり、ぽつりと雨音が聞こえた。慌てて外をのぞくと、強い雨が空気を刺激するように落ちていた。
「あめ……」
テレビでは、一週間くらい雨が続くと言っていた。七月の半ば。梅雨なんてとっくに過ぎたはずなのに。
そういえば――あの日も雨だった。ずぶ濡れの彼女が、私の目の前に居て…震える声で…。
「――――」
私は、なんて返したっけ? 曖昧なまま、濁した返事をしたっけ。
「美心? 何してるの? 早く窓閉めなさい?」
心のモヤをかき消すように、お母さんの声が部屋に入る。
「え。ちょ……お母さん、ノックしてよ」
「ノックも何も、ドア開けっぱなしでしょ? それに……なんで制服なんて掘り起こしてるのよ?」
クローゼットから取り出されたそれを見て、お母さんは小さくため息をついた。
「な、なんでもない」
「そ。ならいいけど」
そう軽く言ったあと、「洗濯物」と言ってベッドにパン屋
の制服を置いていった。
「う、うん……」
去ると思ったのに、お母さんは立ち止まり、私の目をじっと見た。
「ねえ、美心」
「な、なに?」
「大丈夫? また前みたいに暗い顔してる。それに……あなたが一番に嫌ってたそれまで掘り起こして……。ねえ、大丈夫?」
いつもよりも深いところに沈んで響く「大丈夫?」は、胸の奥を針で刺されたみたいに苦しくなった。
「だ、大丈夫だよ……ちゃんと」
「そう。それが本当ならいいけど、また前みたいにならないでよ? それだけ」
グッと自分の頬をつねりたくなる。なりたくてなったんじゃないのに。何も分からないくせに、どうしてそんなふうに言えるの? 指先をぎゅっと丸めて、こみ上げる怒りを押し殺した。
「う、うん」
なんとか声を絞り出す。
「心配だから言ってるの……嫌味とかじゃない。ただ、あなたにはちゃんと生きていてほしいのよ」
そう言い残して部屋を出ていった。最後に一言、わざわざ加えるお母さん。その小さな棘みたいな違和感を、私はずっと抱えたまま扉を閉めた。
……何も話せていない。あの時からずっと。一番近くにいるのに、一番話さなきゃいけない人にだけ、言えなくて。
逃げて、黙って、誰にも届かなくて。
外の雨はさっきよりも強くなっていて、ざわめきのように部屋の中まで押し寄せていた。
「私には美心しかいないよ」
大雨の中、暗い学校で。傘もささずに、一人で、ずっと私を待っていた。
「私も……だよ」
口をついて出たのは、そんな曖昧な言葉。本心でもないのに、受け入れるふりをして。どうしていいか分からなくて、ただその場に縋った。
「嵐の前の静けさ」──小説や映画の中で何度も目にしてきた言葉。けれど、それが現実に落ちてくるとしたら、きっと今、この瞬間だ。
指で数えられるほどしか訪れないお客さんに、いつも通りの挨拶をする。でも今日は、常連の三郎さんも、顔なじみのサラリーマンも、誰ひとり現れなかった。
七月の終わり。夏が本番に差しかかるころ。台風の目はゆっくりと近づいてきて、すでに重い空気を震わせている。
夏休みを目前にした学生たちへの、思いがけないサプライズのように。朝からテレビでは休校やリモート勤務のニュースが繰り返され、街じゅうがどこかしんと静まり返っていた。
天気予報は午後からの猛烈な豪雨を告げている。ポツポツと落ち始めた雨粒が、その予兆をささやいていた。でも、私にとっての“嵐”は、雨でも風でもない。
心を揺さぶる何か。理由もわからず、胸の奥がずっとそわそわしていた。
「天気、悪くなる前に帰ったほうがいいね。お客さんも全然来ないし……」
「七月に台風なんて、珍しいですね」
「子どもの頃はさ、雷とか雨とか、すごい天気がくるとちょっとワクワクしてたんだよね。特別な日に感じてさ」
窓の外を見ながら笑美さんはかすかに笑う。
「今は、全然そんなことないけど」
小さな声でそう言い足して、笑美さんは厨房へと戻っていった。
静まり返った店内。こんなに音のない空間が、かえって特別に感じられる。その静けさに溶け込むどころか、心の奥はずっと波打っていた。いやな予感のように。
チャラーン、とドアの音、それと同時に店に入る、女性客。降り始めた雨の中、傘も差さずに。服も被っていた帽子も少し濡れていて、マスクのせいで表情も読み取れない。
「いらっしゃいませ」
いつも通り声をかけたつもりが、どこかで萎縮してしまう。その客は何ひとつ迷わず、レジ横のカゴにあったメロンパンをトレーに乗せ、レジの前へとやってくる。
「一三〇円です」
お金を受け取り、袋に詰めて渡そうとした瞬間──。
「み……」
小さな声が、ふいに耳に触れた。
「みこ……」
「え?」
聞き間違いかと思った。でもその客は、ゆっくりとマスクを外す。見えてきたその顔に、心がひどく揺れた。
「……美咲?」
私がそう言葉にするのと同時に、彼女は店から飛び出していった。
何が起こったのか理解できなくて、体が一瞬止まる。まばたきさえ忘れるくらいに。
追いかけなきゃ──そう思うのに、足が動かない。泥に沈んだみたいに、自由が利かなかった。
「早く追いかけて! お客さん!」
奥から聞こえた笑美さんの声で、張り詰めた混乱がほどける。足元の重さが嘘みたいに抜けて、私は飛び出した。美咲が忘れていったメロンパンを片手に。
バスケ部で足の速かった彼女は、すでにかなり先を走っていた。
私は追いかけた。喉の奥で切れる息を感じながら、それでも足を止められなかった。彼女の背中に、こんなにも必死になるなんて。こんなにも遠く感じるなんて。
必死で走って、少しずつ距離を詰めていく。早かった彼女もどこか失速していて、手が届く距離まで近づく。
追いつかなければ、もう二度と会えない──そんな“別れの匂い”が、濡れたアスファルトと一緒に鼻を刺していて。
「美咲!」
そう叫びながら、彼女の手をつかむ。足が少し痙攣していたけど、そんなことどうでもよい。
「待ってよ。お願いだから」
その瞬間、空が割れたように雨が降り出した。予報よりずっと早く、そしてずっと激しく。
「……みこ」
何ヶ月ぶりだろう、彼女と正面から顔を合わせるのは。
そして──いつぶりだろう、この目で、彼女の“泣き顔”を見るのは。
「み……さき……」
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