笑顔のパン屋さん
@kohina27
プロローグ
目を開ける。焦点がうまく定まらない。寝起きの朝よりも、ずっと酷い。
そんな曖昧な視界の中で、ただ一つだけはっきりしていた。
――家の中が、めちゃくちゃだ。タンスは崩れ、食器は床に散らばり、割れた破片が光を鈍く反射している。
何が起こったのか、脳が追いつかない。
なんとか体を動かそうとするけれど、重くて生温かいものが私の腹にのしかかっていて、どうしたって動けない。
顔を上げ、天井を見上げた瞬間、赤いものがぽたりと落ちてきた。額に、一滴。頬に、また一滴。
少しずつ視界が戻るにつれ、現実は残酷な輪郭を帯びていく。
頭では、とっくに分かっていた。けれど、心は拒んでいた。
知りたくなかった。目を背けたかった。
視界の靄が晴れて、色と光が戻る。でも――そこにあったのは、希望なんかじゃない。
お兄ちゃんが、血を流して倒れていた。私を庇うように、大きなタンスの下敷きになって…。
「お兄ちゃん……?」
返事は無い。目を閉じたまま、動かない。
血が、ぽたりぽたりと私の頬を伝う。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
声が掠れても、枯れても、必死に叫ぶ。生まれたばかりの赤ちゃんが産声を上げる様に。
誰でもいい、誰か助けて――お兄ちゃんを……!
そのとき――「声が聞こえるぞ!」
窓の外から、誰かの叫びが響いた。がらりと家の窓が開き、中年のおじさんとおばさんの顔がのぞいた。
二人は私たちを見て、目を見開き、叫んだ。
「すぐに助けてやる!」
声が上手く出ない私は、かすれ声で「たすけて」と繰り返す。二人は迷わず駆け込み、全身の力を振り絞ってタンスを退けた。
お兄ちゃんの体。動けない私の体。二人は交互に背負いながら、家を飛び出す。
そこから先は、記憶が途切れ途切れだ。あの二人が誰だったのか、いまも分からない。十年以上経った今でも、感謝を伝えられずにいることが、胸の奥でずっと痛む。
おばさんの背に揺られながら、意識は遠のいていった。
外の世界は、見たこともないほど荒れ果てていた。
『戦争?』『テロ?』 そんな馬鹿げた妄想で自分をごまかそうとした。けれど、脳は認めてしまった、理解してしまった。
――地震だ。
おばさんは、私を抱えて全力で走っている。どこへ向かうの? そんなに走ったら転んじゃうよ。
子どもじみた疑問を抱えたまま、私はどんどん意識の底へ沈んでいった。
最後に聞こえたのは、誰かの絶する声だった。いや断末魔という方が例え安いだろうか?
「早く逃げろ! 津波が来るぞ!」
その声を最後に私の意識は遠くに消えていった。 長い地獄の始まりと共に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます