第18話 抱きしめた男と、死神の殺気
翌朝。いつもより早く起きた
リラックスしているとつい自然に瞼が降りてくる。連日の睡眠不足に加え、昨日は不機嫌だった靭の事を考えていたらよく眠れず、眠気は限界だった。
チラリと時計を見ると六時前。いつもは七時くらいに朝食を作り始めるので、まだ余裕はある。
(少しだけ…寝ようかな)
そう思った流実は、睡魔に抗えずに目を閉じるのであった。
◇◇◇◇
◇
何だ、これは。
ソファに丸まった朱色のものが目に入った瞬間、そう思った。
よくよく見れば“それ”は世話係で、洗濯カゴを手に持ったまま眠っているではないか。
呆れてその場から離れようとすると、背後で小さな声と衣擦れの音。目を向けると、小さな身体を更に丸めて顔を顰めていた。
ふと風を感じ、庭に目を向けると昨日着用した己の軍服が既に干されている。開きっぱなしの窓から入った風が頬を撫でた。
「……」
そのまま踵を返し、洗面所からバスタオルを取り小さな身体に掛ける。暫くすると表情が和らぎ、スウと寝息が聞こえた。
―――別に、気まぐれだ。
思わず、グッと拳に力が入る。
決してこいつに絆されたから…こんな事をした訳ではない。
そもそもこいつが俺に懐くのは、当然だからだ。
右も左も分からぬ世界へ連れて来たのは俺。こいつは嫌でも俺しか頼るものがない。
俺を庇うのも、心配するのも、味方だと言うのも、不吉と言われる銀髪を平気で触るのも。俺に見捨てられたら、生きていけないからだ。
今は俺に懐いていても…ここで自分の居場所を見つければ、きっと俺から離れて行く。
(そうだ。だから………絆されてなどない)
「ん…」
安らかな寝顔から小さな声と、掛けたタオルが落ちる音。咄嗟にそれを拾おうとして―…直前で手を止めて、ため息を吐くと離れを後にした。
◇◇◇◇
心地よい眠りから覚めた流実は、大きなあくびを一つして、「んー」と身体を伸ばした。
何だか、久しぶりにしっかり眠れた気がする。
ふと庭を眺めると、ちょうど良いそよ風が吹いているらしく、外に干した白い軍服が靡いていた。
天気も良いし、すぐ乾くなあ…。
そうボンヤリと考えた瞬間だった。流実は叫んだ。
―――ヤバい。
慌てて時計を見ると時刻は午前十時を指していた。完全アウト。
ひやりと冷たい汗が背中を流れていく。
二度寝など、今までした事なかったのに。よりによって、昨日靭の機嫌が悪かったこのタイミングなんて最悪すぎる。
急いでソファーから降り彼の書斎へと向かおうとすると、足元にバスタオルが落ちているのに気付いた。
洗濯物を洗い忘れていたらしい。洗濯カゴにそれを放り込み、バクバク鳴る心臓を抑えつつ、階段を駆け上がった。
(あれ…?)
書斎の扉を叩いたが、返事はない。
聞こえなかったのだろうかと、もう一度ノックをするもやはり応答はない。
「クロノアさん…?失礼します」
恐る恐るドアを開ける。だが、そこには誰もいなかった。
もしかしてまだ寝てるのだろうか?と書斎から出た流実は隣にある彼の寝室に目を向ける。
いや、既に起きているはずだ。忙しい彼が自分と同じく二度寝などするはずもない。すると、一体どこへ?
―――その瞬間、ドン!と大きな音と地響きが流実を襲った。
一瞬訳が分からずにその場で固まる。
……初めて聞く音だ。でも――それが何なのかは、直感で分かった。
(……砲撃音だ)
そう思った瞬間、離れから出て音の方向へと走っていた。
通り過ぎていく風景は何もおかしなところはない。なのに誰ともすれ違わず、不気味な程に静かだった。それが、逆に流実の不安を煽っていく。
靭が、皆がいない。そして砲撃音がする。もしかして、攻撃されてるのではないか?
上がる呼吸と張り裂けそうな胸を必死に抑えながら石壁の西門をくぐったところで、土埃が上がっているのが見えた。
「―――訓練、所?!」
肩で息をしながら流実はポカンと口を開ける。開けた場所に出た先の、訓練所に皆がいた。
ドォン!!
先程よりも更に大きな音と地響きにビクリと肩を震わす。
そして……流実は目の前の光景に息を飲んだ。
―――蝶が舞うようにあちこちで紅い軍服がヒラリヒラリと舞い上がる。
人間の身体能力などとっくに越えたヒト同士の戦闘は、最早流実には何をしているのか分からなかった。
ただ、時折火花を散らし剣が擦れ合う金属音と、演舞のように紅い軍服が舞う姿が――綺麗だと思った。
(……靭さんは?)
ハッとして目線を彷徨わせる。
彼は訓練所の一番奥にいた。
ギルバートが何やら指示を飛ばしている横で、冷静にその様子を観察している。
……そう言えば、昨日ギルバートが「明日はよろしくお願いします」と言っていた。もしかして“演習”してるのだろうか?
(なんだ…良かった)
ようやく理由が分かり、ついホッと力が抜けて足を踏み出した時だった。
「危ないから、入っちゃダメだよ」
そう耳元で囁かれ、ヒヤリと肩に何かが触れた。
流実が「ひっ」と小さく悲鳴を上げて振り返ると、そこにはシャツとズボン姿の茶髪の美形が立っていた。
「よ、
「覚えていてくれた?嬉しいな」
そう言ってニコリと微笑んだのは、昨日食堂で挨拶をした葉だった。どうやら彼の手が肩に触れたようだ。
驚いたが、爽やかで人懐っこい笑顔の葉につい流実も安心する。
「葉さんは参加しないんですか?」
「? 俺は紅族じゃないよ。水狼と同じ雇われシェフなの。俺の場合昼限定だけど」
だから今まで見た事なかったのか、と流実は納得した。
「隣町に家があってそこから通ってるんだ。知らなかった?」
「そうだったんですか?てっきりここに住んでるのかと…」
「違うよ。気になるなら俺ん家来る?」
ん?
ピクリと硬直する流実。
「あ、もうちょいで演習終わるね。折角なら一緒に手伝って?まだ話したいし」
「…えと、クロノアさんを待っているので…」
「そう?でも一緒に来た訳じゃないでしょ?今日二度寝して寝坊してたじゃない」
ニコリと先程と同じように爽やかに微笑む葉。
―――その爽やかさとは対照的な内容の恐ろしさに、ようやく昨日の忠告を思い出した流実。
ゆっくりと背筋が冷えていく。この際、何故それを知っているのかは置いといて……。薄ら笑いを浮かべた流実は気付かれないように葉からゆっくり離れた。
「ピ―――ッ!!!」
高い笛の音が聞こえて思わず振り返る。
ギルバートが手を挙げながら合図を送っていた。すると、皆が集まり整列し始める。どうやら演習が終わったようだ。
流実は助かったとばかりに訓練所に入ろうと思い――そして心臓が口から飛び出す程の恐怖を味わった。
「―――ひぇっ!」
流実はつい色気もへったくれもない悲鳴を上げる。
葉に背中を向けた瞬間、いきなり抱き締められたからだ。
―――ゾワリと全身に鳥肌が立つ。
咄嗟に抵抗するも、全くビクともしない。一見痩躯である彼からどんな力が発せられているのだろうか。ヒトのせいか。
―――じゃなくて!離して!!
「あは…可愛い。それで抵抗してるの?皆が流実の事非力だって言ってたの本当なんだ」
「ひっ!葉さん、離して下さい!!」
「暴れるのをやめたら離してあげるよ。本当に、ここは危ないから入っちゃいけなくて……あれ?匂いも好みだ」
―――怖過ぎる!!
すぐ背後で発せられる声に、流実の全身は恐怖で硬直し、頭が真っ白になった。
いくら王子様のような美形であってもストーカーは嫌だ。それに変態も!髪の匂い嗅がないで下さい!
流実が泣きそうになりながら必死で抵抗していると、突如、葉の腕がビクリと止まる。そして。
「―――っと!ヤベッ」
そう言ってアッサリと流実を離した。離された流実は、恐怖で昨日と同じく腰が抜けてしまいその場にペタンと座り込んでしまう。
「じゃ、またね!」
手を振りながら、爽やかに、そして何事もなかったかのように去っていく葉。流実は、ただただ固まったままその背中を見送った。
(……た、助かった…?)
そう思った瞬間だった。
ふと、寒気が走る。
葉に抱き抱えられた時とは異なる悪寒と突き刺すような冷たい視線を感じ、訓練所を振り返ると。
―――死神と、目が合った。
軽く二百mは離れているというのに、いつ、気付いたのだろうか。
真っ直ぐにこちらを見つめるその瞳は、昨日とは比較にならないほど冷え切っていた。
……まるで凍った海のような、静かで、それでいて圧倒的な“殺気”。
見られてるだけなのに、恐怖で何も考えられず、息すらまともにできなくなっていく。
暫くじっと睨んでいた靭だったが、やがて、眉を寄せフイと視線を逸らす。そこでようやく呪縛が解けたように流実は「はあっ」と大きく息を吸い込んだ。
―――いつの間に解散したのか、少し離れた場所から皆が帰っていく姿が見えた。
流実は、ただボンヤリとそれを眺め、見送る。
「流実さん?」
「っあ、」
突如頭上から声をかけられた流実は心底驚き、情けない声で更にヘタリ込む。
「そんなに驚かなくとも……。あれ?また腰抜けたんですか」
「ぎ、ギルバート……さん?」
一体いつの間にここへ来たのだろう?
……いや、今はそんな事よりギルバートの優しさだ。先程の葉といい靭といい、とにかく恐怖しか感じなかったから。
まるで凍てつく氷を溶かしてくれる蝋燭のような声に、つい涙目で紳士な副長を見上げる。
―――はずだった。突如グンっと世界が反転し宙に浮いたのだ。
一瞬の事で、状況が理解できない流実の隣でギルバートの「えっ!?」という戸惑った声が聞こえる。
流実も全く同じ気持ちだ。何故急に自分は“俵担ぎ”されたのか?
分からないまま、自分を担いだ人物が歩き始めた矢先に飛び込んで来た銀髪に、思わず「ヒッ」と声を上げてしまった。
流実を担いだのは、靭だった。
当の本人は一切何も喋る事もなく歩いていく。が、“怒ってます”オーラだけは嫌でも感じ取る事ができた。
そのオーラはもちろん流実だけ感じた訳ではないようで、道中すれ違ったヒトも「ひっ」とか「ゲッ」とかいう悲鳴を上げている。ひとしきり騒めきを起こしながらようやく離れに到着したのは数分後だった。
バン!!と勢いよく玄関を開けリビングに進んで行った靭は、そのままソファーに流実を投げ捨てる。
ドサリと落とされたものの、ソファーなので痛くはない。どちらかというとずっと頭を下にしていたのでくらりと眩暈がした。
「……さっさと仕事しろ」
「えっ…?」
ボヤけた視界の向こう、彼の横顔は一切動かなかった。
その顔は、声よりも冷たい。
靭はそれだけ言うと、書斎に行ってバン!と再び壮大な音を立てて扉を閉めた。
しばらくして眩暈が治った流実は、ポカンと今起こった事が理解できずに呆然としていた。
昨日に引き続き……いや、昨日よりずっと不機嫌だ。
なんなら怖すぎるんですけど。
(……寝坊が…そんなに地雷だったの?)
だったら……あれほど怒るくらいなら、わざわざ連れ帰らなくても良かったのに。
いや、違う。今はとにかく謝ろう。寝坊した私が悪いんだし。
自分がすべき事は、これ以上怒られないようにする事だ。
二度と、二度寝はすまい。
流実は心の中で強く誓うと、慌てて制服の紐を縛り直すのであった。
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