第28話 静かな勝負

 水曜日の放課後。

 チャイムが鳴った瞬間、教室のあちこちから「はあ……」という息が漏れた。


「また小テストかよ」


「先生たち、テスト前になると急にやる気出すよな」


 国語のプリントをしまいながら、敦は苦笑した。


(テスト前って、どの時代も変わらないんだな)


 そんなことを思っていると、隣の席から小さな紙切れが滑り込んできた。


『今日、放課後。

 世界史と英語、セットでお願いします ―中村』


 文字の勢いだけは妙に元気だ。


「直接言えよ……」


 そうつぶやきつつ、敦はペンで「部活のあとで」とだけ書き足し、中村に返した。


     *


 この日も、野球部の練習は中間考査前メニューで短めだった。


 キャッチボール、軽いノック、バント練習。

 ピッチャー陣は投げ込みなしで、体幹とストレッチ中心。

 汗を流し終えて部室を出ると、校舎の窓にはもう夕焼けが映っていた。


「おーい、先生」


 昇降口の前で、中村が手を振っている。


「先生はやめろ」


「じゃあ家庭教師? 個別指導の山下塾?」


「どっちも違う」


 口ではそう言いながらも、教室の後ろのほうの席に腰を下ろした。


 机の上に教科書とノートを広げる。

 窓の外はオレンジ色に染まりかけていた。


「じゃあ、世界史からやるか」


「お願いします」


 中村は真面目な顔でノートを開いた。


「先生が“ここ出す”って言ったところ、あんまり自信ないんだよな」


「その言い方やめろって」


 苦笑しながらも、敦は教科書の該当ページを指で押さえる。


「まず、ここは年号を無理に全部覚えようとしなくていい。

 流れと順番をおさえて、その中でどうしても必要なところだけ年号で覚える」


「どうしても必要なところ?」


「たとえば、さっきの黒板のここ」


 敦はノートに、簡単な図を書きながら説明していく。

 中村は、思ったよりも真剣な目でそれを追いかけていた。


 視界の端に、例のスクリーンがひっそりと浮かぶ。


――世界史 該当範囲

 ・重要度:高

 ・推奨暗記ポイントを表示しますか? [はい/いいえ]


(こういうところで“はい”を押すのは、ズルに近いよな)


 敦は心の中で「いいえ」と答え、画面を意識の外に追いやる。

 自分で考え、自分の言葉で説明するほうが、ずっと身につく。


「で、さっきのここな。

 この出来事の前と後ろで、どこが変わったかを一言で言えるようにしておくと楽だ」


「一言で?」


「そう。“何が変わった?”って自分に質問してみるんだよ」


 中村は、少し考えてからペンを動かした。


「……なるほど」


「わかった?」


「うん。さっき黒板見てたときよりは、頭に残ってる感じはする」


 そう言って、苦笑する。


「でも、これ、一人でやると絶対サボるんだよな」


「そんなことだろうとは思った」


 英語の文法問題も、同じように一つずつ整理していく。

 疑問が出るたびに、中村は素直に「ここがわからない」と聞いてくる。


(ちゃんと質問できるって、それだけでだいぶ強いよな)


 自分が高校生だった頃――元の時間のほうでは、

 わからないことを放置して、そのままにしてしまうことが多かった気がする。


 今は、それを見ている側だ。


「よし、今日はこのくらいにしとこう」


 時計を見ると、すでに夕方の六時前だった。

 廊下には、他の部活が帰り支度をする足音が響いている。


「ありがとな」


 中村はノートを閉じ、軽く頭を下げた。


「これで、世界史と英語で沈む確率は下がった気がする」


「“沈む”とか言うな」


「でもさ」


 中村は、窓の外をちらりと見た。


「こういうの、一緒にやる相手がいると、ちょっとだけ楽だな」


「そうか?」


「うん。

 お前にとっては簡単かもしれないけど、こっちは必死なんだよ」


 その言い方が妙に真面目で、敦は少しだけ言葉に詰まった。


「じゃあ、こっちもちゃんと教えないといけないな」


「頼む」


 中村は笑い、鞄を肩にかけた。


「次は数学も、お願いするかもしれない」


「様子見てからにしろよ」


「そうする」


 二人で教室を出ると、廊下にはすでに夜の気配が混じり始めていた。


     *


 それから数日。

 学校全体が、中間考査に向けた「静かな緊張」に包まれていった。


 授業中の私語は減り、休み時間に問題集を開く生徒がいつもより多い。

 放課後のグラウンドは、短縮練習のせいか、いつもより早く静かになる。


(試合の日の緊張とは、また別の種類だな)


 そう感じながら、敦は毎日机に向かった。


 世界史と英語は、すでにだいぶ頭に入っている。

 数学も、基本問題でつまずくことはほとんどない。


 スクリーンは、ことあるごとに数字を出そうとしてくる。


――世界史 想定得点:90点以上

――英語  想定得点:90点以上

――数学  想定得点:100点も可能


(“可能”って言われると、逆にやりづらいんだけど)


 あまりに完璧な結果を並べるのも、かえって目立つ。

 それは、これまでの人生で嫌というほど知っていた。


(それに、ここで満点を取ることだけが目的じゃない)


 大事なのは、勉強を「ちゃんと向き合うもの」として続けていくこと。

 数字だけを追いかけ始めると、どこかで足をとられる。


 そう自分に言い聞かせながら、敦は一問一問を丁寧に解いていった。


     *


 そして、月曜日。

 中間考査の初日がやってきた。


 朝の教室は、いつもより静かだった。


「やばい……全然覚えてない……」


「寝たら覚えるって言ったやつ、出てこいよ」


 それでも、そんな小さな悲鳴があちこちから聞こえてくるあたり、

 緊張しながらもどこか普段どおりなのかもしれない。


「おはよう」


 中村が、プリントの束を抱えながら席に着く。


「昨日どうだった?」


「世界史と英語は、少しはマシになった気がする」


「ならよかった」


「その代わり、数学をあんまりやってないけどな」


「それは自業自得だろ」


 そんなやり取りをしているうちに、チャイムが鳴った。


 一時間目は国語。

 二時間目に、世界史のテストが控えている。


 廊下から、問題用紙の束を持った教師が教室へ入ってくる。

 ざわついていた空気が、すっと静まり返った。


「はい、それでは。

 中間考査一日目、国語から始めます」


 問題用紙が一枚ずつ配られていく。

 敦は、深呼吸を一つしてから、名前の欄に「山下 敦」と書き込んだ。


(野球の試合と同じだ。

 最初の一球に近い最初の一問で、変に力まないこと)


 そう思いながら、ペン先を走らせ始める。


     *


 国語のテストが終わり、短い休憩をはさんで世界史。


 配られた問題用紙には、見覚えのある出来事と年号が並んでいた。


(きたな)


 授業中、先生が「ここ出す」と言っていたところが、素直に出ている。

 中村がノートに「◎」をつけた場所も、そのまま問題になっていた。


(ここは、間違えられないな)


 ペンを動かしながらも、敦は一問ごとに意識的にテンポを整えた。


 スクリーンのほうを見れば、答え合わせのようなものは、きっと簡単に出てくるのだろう。

 だが、そこに頼るつもりはなかった。


(この先、ずっと付き合っていくのは、自分の頭のほうだ)


 その感覚だけは、間違えたくなかった。


 最後の問題まで解き終え、見直しをする。

 時間ギリギリまで、漢字や名前の書き間違いがないか確認する。


「はい、そこまで。

 問題用紙と解答用紙を前へ」


 答案を前の席に回しながら、敦は小さく息を吐いた。


(とりあえず、初日は悪くない)


 窓の外には、いつもと変わらない校庭が広がっている。

 グラウンドでは、他の部が軽く体操をしているのが見えた。


(こっちの勝負が終わったら、また向こうの勝負に戻る)


 テストとグラウンド。

 二つの場所を行き来する生活は、まだ始まったばかりだ。


     *


 中間考査は三日間続いた。


 数学、英語、理科。

 それぞれのテストで、敦は落ち着いて問題に向き合った。


 力を入れすぎず、手を抜きすぎず。

 試合でのピッチングと同じように、自分なりの「ちょうどいいところ」を探しながら。


 そんな間にも、スクリーンは静かに数字を積み上げていく。


――各教科の自己採点(暫定)

 ・国語 :80点前後

 ・世界史:90点前後

 ・英語 :90点前後

 ・数学 :85〜90点

 ・理科 :80点前後


(まあ、このくらいなら目立ちすぎないか)


 満点だらけにする気はなかった。

 かといって、わざと大きく間違える気にもなれない。


(“ちゃんとやっている”と伝わるくらいでいい)


 そういう意味では、ちょうどいい数字に見えた。


     *


 テスト最終日の午後。

 答案を提出し終えた教室には、解放感が広がっていた。


「終わったー!」


「数学、最後の大問まるごと飛んだ……」


「世界史、寝そうになった」


 中村が机に突っ伏しながらうめく。


「どうだった?」


「世界史と英語は、前よりマシな気がする。

 数学は、途中から問題が二重に見えた」


「それは寝不足なだけだろ」


「そのとおり」


 中村は顔だけ上げて言った。


「お前は?」


「とりあえず、全部埋めたよ」


「だろうな。

 答案回収のとき、まだ余裕の顔してたもん」


「そんなつもりはなかったんだけど」


「そう見えたんだって」


 そう言ってから、中村は少し真面目な目をした。


「でもさ、ありがとな。

 世界史と英語、教えてもらってなかったら、たぶんかなり危なかった」


「そこまでじゃないだろ」


「いや、マジで。

 “何が変わった?”って考えろってやつ、あれ、けっこう効いた」


 それは、敦が世界史のノートに書いた一行だった。


(人に教えるほうが、自分も整理されるんだよな)


 元の時間では味わえなかった感覚が、じわじわと広がっていた。


     *


 数日後。

 テスト返却が一通り終わった金曜日の放課後、野球部のグラウンドに、久しぶりの活気が戻ってきた。


「よし、中間考査も終わったな」


 整列した部員たちの前で、村井が声を張る。


「成績については、それぞれ担任の先生から報告を受けた。

 赤点は――」


 部員たちの表情が、わずかに固くなる。


「――幸い、今回は出なかった。

 ぎりぎりのやつは、次で油断するなよ」


 どこかから、小さな安堵の息が漏れた。


「平均点が極端に低い者もいない。

 全体としては、よくやったと言っていいだろう」


 村井は、手元の紙を閉じると、少し表情を和らげた。


「山下」


「はい」


「お前の点数も確認した。

 世界史と英語はかなりいいな」


「はい。まあ、それなりには」


「なにより、“変に飛び抜けていない”のがいい」


 そう言って、村井は小さく笑った。


「勉強も、野球と同じだ。

 数字だけを追いかけるんじゃなくて、長く続けていくことが大事だ。

 今のところ、そのバランスは悪くないと思う」


「ありがとうございます」


「他のやつらもだ。

 今回の結果で安心しすぎるな。

 テストが終わったからといって、勉強を全部やめていいわけじゃない」


「「はい!」」


 全員の声が、夕方のグラウンドに響いた。


「さて――」


 村井は、ポケットからもう一枚別の紙を取り出した。


「テストも終わったことだし、そろそろ次の実戦に向けて動き出す。

 来週の日曜日、練習試合を組んだ」


 一瞬、空気が変わる。


「相手は、市内の私立校だ。

 ここ数年、県大会のベスト8あたりをうろうろしているチームだな」


 ざわ、と小さくどよめきが起こった。


「先発は、今のところ山下を予定している。

 ただし、今回のように最初から最後まで、とは決めていない」


「はい」


「球数と内容、そしてチームの状態を見て、途中で篠原や矢部にスイッチする可能性もある。

 そのつもりで準備しておけ」


「わかりました」


「それから、打順や守備位置についても、この一週間の練習を見て決める。

 自分の役割をもう一度考えておくこと」


「「はい!」」


 掛け声とともに、全体練習のメニューが告げられる。

 ランニング、キャッチボール、シートノック、打撃練習。


(また、グラウンドのほうの勝負が始まる)


 敦は帽子のつばを軽く押さえて、走り出した。


     *


 練習が終わり、夕焼けのグラウンドを見渡しながら、敦は一人ベンチに腰を下ろした。


 汗のにおいと、土の感触。

 どこか懐かしいのに、今は新しい場所だ。


 視界の端に、スクリーンがふわりと現れる。


――中間考査 結果まとめ

 ・世界史:高得点(上位グループ)

 ・英語 :高得点(上位グループ)

 ・数学 :平均よりやや上

 ・その他:おおむね良好


――総合評価

 ・学習:安定

 ・野球:上昇中

 ・生活バランス:許容範囲内


「“許容範囲内”って言い方、なんとかならないか」


 敦がぼそりとつぶやくと、スクリーンの端に小さな文字が追加された。


――次の焦点:

 ・練習試合(来週)での投球内容

 ・打撃での再現性

 ・試験後の学習ペース維持


(全部まとめて言うと、結局“ちゃんとやれ”ってことだな)


 苦笑しながらも、その三つの言葉は、確かに今の自分に必要なものに思えた。


(テストの点数も、マウンドの結果も、どっちも嘘はつけない)


 グラウンドの土を指先でつまみ、ぱらぱらと落とす。


(ここから先、何を目指すかを決めるのは、結局自分だ)


 次の練習試合。

 その先にある夏の大会。

 そして、そのさらに向こうにあるもの。


 全部を一度に考えることはできない。

 だから、まずは目の前の一週間からだ。


 立ち上がり、ベンチのほこりを払う。

 ふと見上げた空には、もう星がいくつか光り始めていた。


(次は、ここでどんな投球ができるかだな)


 そう思いながら、敦はグラウンドを後にした。


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