第25話 スコアボードのゼロ

 その一週間は、あっという間に過ぎていった。


 放課後の練習はテスト前仕様で短く、

 ブルペンはフォーム確認中心、

 バッティングはマシン相手にコースと球種を絞っての打ち込み。


 その合間に、世界史と英語のノートは少しずつ色が増えていく。


(勉強も野球も、“一気に”じゃなくて“積み上げ”だな)


 そんなふうに思えるようになってきたころ、

 土曜日が来た。


     *


 土曜の午前中。

 授業をなんとか乗り切ったあと、敦は教室で弁当をかき込むように食べ、急いで部室へ向かった。


 ロッカーの前でユニフォームに着替えていると、隣で中村が袖を通しながら言う。


「いよいよ伊丹北との試合だな」


「練習試合だけどな」


「そういうのが、あとから“あれが始まりだった”とか言われるんだよ」


「プレッシャーかけるな」


「期待だと思っとけ」


 笑い合いながらも、敦の心臓はいつもより少し速く打っていた。


 ユニフォームのボタンを留め終え、帽子をかぶる。

 胸の校名の刺繍に、一瞬だけ視線を落とす。


(今日は、逃げ道を作らない)


 マウンドでも打席でも、「あれをやっておけばよかった」と後悔したくなかった。


     *


 グラウンドに出ると、すでに対戦相手の県立伊丹北高校の選手たちが、三塁側ベンチ前でキャッチボールをしていた。

 白に濃紺のラインのユニフォーム。

 腰の据わった内野手のグラブさばきが、こちらから見てもわかる。


「集合!」


 一塁側ベンチの前に整列すると、村井がラインの上に立った。


「今日はテスト前の貴重な実戦だ。

 テーマは三つ」


 指を三本立てる。


「一つ、守備のミスを極力減らすこと。

 二つ、ストライクを先行させること。

 三つ、“打てるボール”を打ちにいくこと。

 新しいことを増やすな。これだけで十分だ」


 そう言ってから、視線を投手陣に向けた。


「先発は山下」


「はい」


「基本的には五回まで。

 球数と内容次第では、六回、七回まで様子を見る。

 その先は篠原の予定だが、どこまで行くかは山下の出来しだいだ」


(五回で終わらせたくはないな)


 敦は心の中で小さくうなずく。


「打順は、昨日のホワイトボードどおり」


 村井は、簡易スコアボードを指さした。


 1番 中堅 三浦

 2番 遊撃 北村

 3番 捕手 佐伯

 4番 三塁 大塚(主将)

 5番 投手 山下

 6番 左翼 高倉

 7番 右翼 村上

 8番 二塁 河合

 9番 一塁 長谷川


「自分の役割を頭の中で確認しておけ。

 よし、アップ始め!」


     *


 ランニング、ストレッチ、キャッチボール。

 敦は矢部先輩と組み、いつもより少し距離を長めに取って肩を温めた。


「力みすぎるなよ」


 矢部先輩がボールを受けながら言う。


「最初から全開だと、後半でガクッとくるぞ」


「わかってます。最初は七割くらいで見ます」


「そうそう。お前の場合、それでも球は勝手に走る」


 軽口を叩きながらも、矢部先輩のミットは正確にボールを受け続ける。


 肩が十分に温まったところで、敦はブルペンへ向かった。

 キャッチャーミットを構える佐伯が、静かにうなずく。


「いつもどおりでいい。

 真っ直ぐ、カーブ、スライダー、それからフォーク。感触だけ確かめよう」


「はい」


 敦はセットポジションから、ストレートを続けて数球投げた。

 ミットの音とともに、佐伯が短く言う。


「球、いいよ。

 今日は“追い込んでから”を大事にしろ」


「どういうことですか」


「カウント有利になったときほど、雑な球は投げるなってこと。

 もったいないボールで振り出しに戻すな」


「……はい」


(最後まで、丁寧に)


 敦は胸の中で言葉を繰り返し、カーブとスライダーをそれぞれ数球ずつ投げた。

 最後にフォークの指先の感覚を確かめる。


「よし。

 行こうか、エース候補」


 佐伯が立ち上がり、マスクを手にベンチ方向へ歩き出した。


     *


 プレイボールのサイレンが鳴る。


 一回表、マウンドに向かう途中。

 敦はスコアボードの「0-0」の表示をちらりと見上げた。


(この数字を、できるところまで動かさない)


 胸の奥で、静かにそう決める。


 先頭打者、伊丹北の一番。

 背番号は「8」。左打席に立つ。


 佐伯がサインを出す。

 初球は外角高めへのストレート。


 シュッ、と乾いた音とともにボールがミットに収まる。

 審判の右腕がすっと上がった。


「ストライク!」


(腕は振れている)


 二球目は同じコースから、少しだけ低め。

 バットが止まり切らず、中途半端なスイングになった。


「スイング、ストライク!」


(ここから)


 敦は一度深呼吸をした。

 カーブのサインに首を振り、もう一度ストレートを要求するよう目で合図を送る。


 佐伯が、わずかに口元を緩めて頷いた。


 三球目。

 今度は内角ギリギリ、高めから少しだけベルトの高さに落ちてくる球。


 バッターのスイングがボールの下をかすめ、空を切った。


「ストライーク、バッターアウト!」


 一回のマウンドで最初に聞くその声が、敦の背中を押す。


 二番、三番も、内外角を丁寧に使って打たせて取り、三者凡退。

 三番打者には、外角からスライダーを食い込ませ、詰まったサードゴロに仕留めた。


 ベンチに戻ると、篠原先輩がペットボトルを差し出してきた。


「いい立ち上がりだな。

 球数も少ないし、その感じで行け」


「ありがとうございます」


 水を一口含み、敦は息を整えた。


     *


 一回裏、自分たちの攻撃。

 しかし伊丹北の先発もなかなかの投手で、こちらも一番から三番までがあっさりと打ち取られ、三者凡退に終わった。


 二回表。

 先頭にセンター前ヒットを許したものの、続く打者のバントを小フライに打ち上げさせる。

 佐伯が素早く前に出て捕球し、一塁へ送球してダブルプレー。

 最後の打者は外角低めのフォークで空振り三振に倒れた。


 二回裏。

 先頭の四番・大塚主将が三遊間へのゴロで惜しくもアウト。

 五番の敦は、カーブにタイミングを外されて見逃し三振。

 六番の高倉が四球で出塁したが、続く七番村上の打球はセカンド正面のゴロで、簡単にチェンジとなった。


(三回までに先に点を取られてもおかしくない流れだな)


 そう感じたのは、三回表の守りだった。


 先頭にレフト前ヒットを許し、続く打者の送りバントで一死二塁。

 しかし、三番には外角スライダーを続けて詰まらせ、ファーストゴロの間にランナーは三塁へ。

 四番にはフルカウントからフォークを沈めて空振り三振。

 なんとか無失点で切り抜ける。


 三回裏は下位打線からの攻撃だった。

 八番の河合がセンター前に運び、九番長谷川の送りバントで一死二塁。

 一番三浦の当たりは痛烈なライナーだったが、ショートの正面を突く。

 続く二番北村はファーストゴロに倒れ、こちらも得点には結びつかなかった。


(どちらが先に一点取るか、という試合だな)


 そんな感覚が、じわじわと強くなっていく。


     *


 そして、四回裏がやってきた。


 四回表を三者凡退で終え、ベンチに戻る。

 スコアボードには、依然「0-0」が並んでいる。


 四回裏、先頭の二番・北村は内野ゴロ、続く三番・佐伯もライトフライに倒れ、あっという間に二死走者なしになった。


 打順は四番・大塚主将。


 大塚は、カウント2-1からのストレートを捉え、三遊間を破るクリーンヒットで出塁する。


「ナイスバッティング!」


 ベンチから声が飛ぶ。


 打席には五番・山下。

 敦自身の番だった。


(ここで一本出れば、流れはこっちに来る)


 バットを握りながら、頭の中をシンプルに保つ。


 相手バッテリーも、さすがに警戒しているのか、初球はボール気味の外角へ大きく外してきた。

 敦は動かず見送る。


 カウント1-0。


 二球目、外角低めのストライク。

 コンパクトに振りにいき、ファールで逃げる。


 カウント1-1。


 キャッチャーの構えが、今度はわずかに内寄りになる。

 敦は、その位置を確認してから、視線だけ投手に戻した。


(力を入れる必要はない。

 前でとらえて、強い打球をセンターから右方向へ)


 伊丹北の投手が足を上げる。

 テイクバックからボールが指先を離れる瞬間、敦の視界の中で球筋が鮮明になる。


(少し内寄り、膝から腰の高さ――)


 トップを作り、前足を地面につけた瞬間、バットが自然に内側から出ていく。


 ガツン、と、これまでと明らかに違う手応えが、手のひらから腕へ一気に抜けていった。


(芯だ)


 打球は一直線にライト方向へ飛んでいく。

 打った瞬間のイメージでは、ライト前からライトオーバーの二塁打、という印象だった。


 だが、思ったよりも弾道が高い。


 ライトが一歩、二歩とフェンス方向へ下がる。

 その頭上を、白いボールがさらに伸びていった。


 カーン、とどこかで金属的な音がした。

 ライトスタンド手前の低いフェンスの向こう側に、ボールが消える。


 一瞬の静寂。


 次の瞬間、審判の両腕が大きく回った。


「ホームラン!」


 ベンチがどっと沸く。


「うそだろ!」


「今の入るのかよ!」


「やった!」


 大塚主将がホームインし、その少し後ろを、敦が半信半疑のままベースを一周する。


(本当にスタンドまで行ったのか)


 三塁を回ったところで、三塁コーチャーが笑いながら叫んだ。


「ナイスバッティング!

 今のは文句なしだ!」


 ホームベースを踏んだ瞬間、待っていたチームメイトたちの手が一斉に伸びてきた。

 ヘルメットを軽く叩かれ、背中を何度も叩かれる。


「投げて打って、今日は大忙しだな!」


「これはもう、簡単にはマウンドから降ろせないぞ!」


「次の回も頼む!」


 歓声の輪の中で、敦はようやく息を吐いた。


(ここからは、失点を許せなくなったな)


 ベンチに戻ると、篠原先輩が苦笑しながらタオルを投げてよこした。


「お前な」


「はい」


「五回までの予定だったのに、こんなことされたら、交代させづらいだろ」


 二人して、同時に笑った。


     *


 スコアは二対〇。


 五回、六回と、相手打線は粘りを見せた。

 ストレートをファールで逃げられ、球数は少しずつ増えていく。

 それでも、要所ではカーブとスライダーでタイミングを外し、ここぞという場面でフォークを沈めて、ホームベースは踏ませなかった。


「ナイスボール!」


「よし、守ろう!」


 内野ゴロを河合が軽快にさばき、一塁の長谷川がしっかり捕球する。

 外野への大きな当たりも、高倉や村上が落ち着いて追いつき、確実にグラブに収めた。


(守ってもらっている分、簡単に点はやれない)


 七回、八回も無失点。

 球数はそれなりにいっていたが、腕はまだ振れた。


 八回表を終えたとき、スコアボードには、伊丹北高校の得点欄に「0」が並び、自チームの欄には「00020000」が刻まれていた。


「ラストだ。

 九回も行け」


 ベンチに戻る敦に、村井が短く声をかける。


「はい」


 答えた声は、自分でも驚くほどはっきりしていた。


     *


 九回表。

 先頭は相手の三番打者。

 ここまで二打席凡退だが、スイングの鋭さは最後まで消えていなかった。


(ここを出すと、一気に流れが変わる)


 初球は外角低めへのストレート。

 ギリギリのコースに決まり、見逃しストライク。


 二球目は内角寄りのストレート。

 差し込ませてファールを取る。


 カウント0-2。


 ここで佐伯は、外へ逃げるフォークのサインを出した。

 敦は頷き、指先に意識を集中させる。


 腕を振り切った瞬間、ボールはストライクゾーンからわずかに沈み、

 バットはその少し上を通り過ぎた。


 空を切る音とともに、ボールは地面近くでワンバウンドし、佐伯のミットに収まる。


「ストライーク、バッターアウト!」


(あと二人)


 四番打者をライトフライ、

 五番打者をセカンドゴロに打ち取り、アウトは二つ。


 スコアボードの「9回表 2アウト ランナーなし」という表示が、視界の端にちらつく。


(最後の一人)


 打席に立つのは途中出場の代打。

 初対戦の打者だが、ここまで積み上げてきたものは変わらない。


 一球目、ストレートを見送られてボール。

 二球目、カーブを振らせてストライク。


 カウント1-1。


 ここで佐伯が一度タイムを取り、マウンドに向かってきた。


「疲れは?」


「まだ大丈夫です」


「顔色を見ればわかるよ」


 マスク越しの目が、少し笑っている。


「変に“締めくくろう”とか考えるな。

 ここまでずっとやってきた、一人ずつ抑える投球を、もう一回やるだけだ」


「……はい」


 佐伯は軽く肩を叩いてから、キャッチャーボックスに戻っていった。


(一人ずつ。一球ずつ)


 敦は、もう一度だけ深呼吸をした。


 三球目、外角低めへのストレートで見逃しストライク。

 カウント1-2。


 四球目、外へ落ちるフォークを投げ、わざとボールにする。

 打者がつられそうになって堪えたのを見て、敦は心の中でうなずいた。


(次で決める)


 佐伯のサインは、外角高めのストレート。


 敦は、それに首を振った。

 そして、内角寄りを要求する合図を、わずかな目線で送る。


 佐伯が、一拍おいてから頷いた。


(ここまで外を意識させておいて、最後は内。

 芯を外して、ゴロで終わらせる)


 セットポジションに入り、足を上げる。

 体重を軸足から前足へ移しながら、腕を振り切る。


 シュッ。


 ボールは、バッターの膝元近く、ストライクゾーンギリギリの内角へ食い込んでいく。


 スイング。

 詰まった音。


 打球は、一塁方向への弱いゴロになった。


 長谷川が一歩前に出て、難なく捕球し、そのまま自分で一塁ベースを踏む。


「スリーアウト!」


 審判の右手が、大きく空を切った。


 その瞬間、敦の中で張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ。


     *


 スコアボードには、

 伊丹北高校の得点欄に「0」が九つ並び、

 自チームの欄には「00020000×」の文字。


 二対〇。

 九回を一人で投げ切り、自分のバットで生まれた二点を守り抜いた形になった。


「自分で投げて、自分で点取ってくるとか、反則だろ!」


「現実でやられると、こっちの心臓がもたないんだけど!」


「今日はもう、完全に山下の日だな!」


 ベンチに戻ってきた敦を、チームメイトたちが半分冗談、半分本気で取り囲む。


 矢部先輩も、タオルを肩にかけたまま近づいてきた。


「おい、山下」


「はい」


「“前に強い打球を”って意識で、あそこまで飛ばすのはやめろ。聞いてるほうの立場がなくなる」


「そんなつもりじゃなかったんですけど」


「だから余計に質が悪い」


 そう言いながらも、矢部先輩は口元を緩めた。


「ナイスゲームだ。

 あれだけ抑えてくれたら、ベンチで見ているほうは楽だ」


 佐伯がマスクを外しながら、少し離れたところから歩いてくる。


「お疲れ」


「ありがとうございました」


「九回投げ切り、おめでとう。

 ホームランも、おめでとう」


「……一本、前に飛ばすことしか考えてなかったんですけど」


「だからいいんだろ。

 ああいうスイングが続けてできれば、またどこかで同じような打球は出る」


 佐伯は、そこで少しだけ口元をゆるめた。


「焦って真似しようとするなよ。

 今日の感覚を、落ち着いて覚えておけ」


 そこへ、篠原先輩がやって来て肩を軽く叩く。


「今日は完全に出番を持っていかれたな」


「すみません」


「謝るところじゃない。

 これだけやってくれるなら、後ろでいくらでも見ててやる」


 真顔でそう言ってから、少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべた。


「ただし、次は俺にも投げさせろよ」


「はい」


 敦は笑いながら頷いた。


     *


 試合後、簡単なミーティングで村井が口を開いた。


「今日のテーマ、守備・ストライク先行・打てるボールを打つ。

 細かい課題はあるが、全体としては十分評価できる内容だ」


 そう言ってから、視線を敦に向ける。


「山下。

 よく投げた」


「ありがとうございます」


「内容も悪くない。

 ただ、球数はしっかり投げている。

 “最後まで投げ切りたい”という気持ちと、“チームが勝つためにどうするか”という視点、その両方をこれからも持ち続けろ」


「はい」


「それと――」


 村井は、少しだけ声の調子を変えた。


「五番としての一発。

 あれは特別な魔法ではなく、“いいスイングの結果”として出た一本だ」


 敦は小さくうなずく。


「今日のホームランだけを追いかけるな。

 今日のスイングを積み重ねていけ」


「……わかりました」


「よし。

 ナイスゲームだ」


     *


 夕方。

 シャワーを浴び、制服に着替え直したあと、敦は一人でグラウンドに出た。


 さっきまで試合をしていた黒土のマウンドには、まだ足跡が残っている。

 自分のスパイクの跡も、その中に混じっているはずだ。


 ふと、視界の端にスクリーンが立ち上がる。


――本日の成績(練習試合)

 投球:9回 被安打4 奪三振8 与四球1 失点0

 打撃:4打数2安打(本塁打1・単打1) 打点2


「数字並べるの、本当に好きだな」


 思わず、声に出して突っ込む。


 それでも、スクリーンに並んだ数字を見つめていると、不思議と余計な言い訳が頭の中から消えていった。


(今日は、やれることはやった)


 スコアボードには、まだ試合終了時のままの数字が残っている。


 伊丹北高校 0

 自チーム  2


 その「2」の数字をしばらく眺めてから、敦は帽子のつばを少しだけ持ち上げた。


(ここから先をどうするかは、またこれから決めればいい)


 マウンドと打席、両方で結果を出した一日が、

 次に進むための基準になる気がしていた。

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