第6話 プロのボール
日曜日の朝、敦は、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
布団の中で軽く身体を動かす。
ふくらはぎ、太もも、肩、背中――筋肉痛は確かにある。
ただ、「立ち上がるのもつらい」というほどではなかった。
(普通なら、昨日あれだけ投げて走ってたら、もっとガチガチになってるはずだ)
視界の端で、スクリーンが薄く現れる。
――状態表示
コンディション:良好
疲労度:中
筋肉ダメージ:軽
※前回ミッション報酬「リカバリー効率向上」が適用されています
「……便利すぎるな、本当に」
小さくため息をつきながらも、口元には苦笑が浮かんだ。
布団から起き上がり、カーテンを開ける。
日曜の朝の光は、平日のそれより少し柔らかく感じる。
(今日は、部活は午前だけだったよな)
武庫工業高校の野球部は、基本的に週一回は「半休」がある。
日曜は午前練習だけで、午後は自主練か休養。
ただし、大会が近づけば、その「半休」もあっさり消えると、昨日先輩たちが言っていた。
「今のうちに、体を整えることも覚えておかないと」
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
十五歳の顔。
目の奥にある色は、やはり以前より少し濃い。
*
朝食の席には、いつも通り家族がそろっていた。
「おはよう」
「おはよう。昨日、紅白戦だったんだって?」
母が、味噌汁をよそいながら聞いてくる。
「うん。少しだけ投げた」
「どうだった?」
「まあ……それなり」
曖昧に答えると、新聞を読んでいた父が顔を上げた。
「『それなり』って、どっちの意味だ」
「ゼロには抑えた」
「ほう」
短い相づち。
それだけで、父の目の色が少し変わる。
「打たれなかったのか」
「ヒットは何本か打たれたけど、点は取られてない」
「じゃあ、その“何本か”を減らすのが次の課題だな」
父は、当然のようにそう言った。
「それと……一本、ヒット打った」
「打った?」
母が目を丸くする。
「うん。ライト前」
「すごいじゃない」
母が笑い、父は少しだけ目を細めた。
「打つ方は?」
「まだ何とも言えない。たまたまの部分も大きいと思うし」
「たまたまでも、一本は一本だ」
父は、それ以上多くは語らず、再び新聞に視線を落とした。
スポーツ欄には、小さくプロ野球の結果が載っている。
阪神の文字が目に入ったが、敦はあえて細かくは見なかった。
(今は、自分の足元を見ないとな)
白米をかき込みながら、敦はスクリーンにちらりと視線を送る。
――新規ミッション候補
・学業との両立
・投球フォームの安定
・球速アッププランの作成
「候補」という表現が、どこか含みを持っている。
「……とりあえず、今日は部活行ってから考えるか」
そう小さく呟き、箸を置いた。
*
日曜の午前中。
学校に着くと、グラウンドにはすでに何人かの部員が集まっていた。
「おはようございます!」
あいさつをして列に加わる。
昨日の紅白戦のあとということもあってか、全体的に動きは少し重い。
「今日は軽めにいくぞ」
村井が、珍しく最初にそう宣言した。
「大会前でもないのに、二日続けて追い込んでも仕方ないからな。体を動かしつつ、昨日の紅白戦の反省をそれぞれ考えろ」
ランニングとストレッチ。
そのあと軽めのキャッチボール。
敦は、昨日よりも小さいフォームで、肩の状態を確かめるようにボールを投げた。
「山下、痛みはどうだ?」
佐伯が、ミットを構えながら聞いてくる。
「大丈夫です。少し張りはありますけど」
「昨日、結構全力で投げてたからな。今日は本当に“軽く”だぞ」
「はい」
自覚はある。
『もっと投げられる』という感覚が常にある分、自分でブレーキをかける意識を持たないと、あっという間に限界を超えてしまう。
(その辺は、五十まで生きた経験も使わないと)
ノックも、今日は実戦的なものではなく、軽い守備練習程度で終わった。
「よし、今日はここまでだ」
時計を見ると、まだ正午前だ。
「え、もう終わりですか?」
一年の誰かが、つい口にしてしまう。
「“もう”じゃない。“今日はここまで”だ」
村井は、苦笑ともため息ともつかない表情を浮かべた。
「身体を休めるのも練習のうちだ。特に投手陣。自分の肩と肘の“声”は、必ず聞け」
「はい!」
「山下、篠原」
「はい」
「お前ら二人は、このあと十五分だけ残れ。フォームチェックをする」
そう言われ、敦と篠原はグラウンドに残った。
*
簡単なシャドーピッチングのあと、村井は敦の横に立ち、じっとフォームを見つめた。
「腕の振りは悪くない。下半身もよく使えている」
「ありがとうございます」
「ただ――」
村井は、敦の右足と左足を順に見た。
「踏み出しの幅が、球種によって微妙に変わっている」
「え?」
「ストレートのときと、変化球のときで、踏み込みが半足分ほど違う。今のところ、打者は気づいていないが、上のレベルに行けばバレる」
敦は、頭の中で自分の投球を再生しようとした。
その瞬間、スクリーンが反応する。
――スキル発動:投球リプレイ
・視点:横・上空・捕手
・比較:ストレート/スライダー
視界の隅に、二つの小さな映像が並んだ。
ストレートとスライダー。
自分が投げている姿を、横から見た映像が同時再生される。
(……本当だ)
踏み出した右足の位置が、ほんの少しだけ違っている。
ストレートのときはやや深く、スライダーのときはわずかに浅い。
「イメージ的には?」
村井が問う。
「変化球のとき、少しだけ“探りながら”になってるのかもしれません」
「だろうな。腕ではなく、足で調整しようとしている」
村井は、土を指でなぞり、二本の線を引いた。
「ここがストレートの踏み出し位置。こっちが変化球。今、お前は無意識にこの差をつけている」
「……はい」
「変化球のときも、ストレートと同じだけ踏み出せ。腕の振りは変えず、指先の感覚で調整しろ」
的確な指摘だった。
スクリーンが、さりげなく補足を表示する。
――フォーム安定化ヒント
・踏み込み位置のブレは、球種バレにつながります
・意識するのは「同じ土を踏む」感覚
「やっぱり、お前、聞いてるだろ」
心の中でスクリーンに突っ込みながら、敦はうなずいた。
「やってみます」
新しく引かれた線を目印に、ストレートとスライダーを交互に投げる。
同じ位置に踏み出すことだけを意識し、上半身は自然な流れに任せる。
数球投げたあと、村井がうなずいた。
「さっきよりいい。今の踏み出しを“普通”にしろ」
「はい」
隣では篠原も、別のポイントを指摘されていた。
リリースポイントの高さ、体重移動のタイミング――それぞれ違う課題を抱えている。
(こういう細かいところを、丁寧に積み上げていかないと、上には行けないんだよな)
短いフォームチェックが終わると、村井は二人を見渡した。
「今日はここまでだ。午後はそれぞれの使い方に任せる。ただし、“休む”も一つの選択肢だと思え」
「はい」
「了解です」
グラウンドを出るころには、太陽はすっかり高くなっていた。
*
昼過ぎ。
敦は、家のリビングで麦茶を飲みながら、テレビのチャンネルを回していた。
「プロ野球中継、やってるかな」
日曜のデーゲーム。
セ・リーグの試合が中継されていてもおかしくない時間帯だ。
「お、やってる」
画面には、どこかの球場のスコアボードが映っていた。
スタンドにはそこそこの観客が入り、応援の旗やメガホンが揺れている。
「阪神じゃないけど、まあいいか」
画面の隅に表示された対戦カードを確認し、敦はソファに腰を下ろした。
ちょうど、その回から投手が交代するところらしい。
マウンドへ向かうピッチャーの動きは、テレビ越しでも落ち着いて見える。
フォームはコンパクトで無駄がなく、打者に対して堂々と向かっていく雰囲気があった。
(プロの“空気”だな)
そう感じた瞬間、スクリーンが反応する。
――観戦モード:オンにしますか?
・プロ投手の投球データを参考値として取得できます
「そんなモードまであるのか」
小さく苦笑しながら、「はい」を選ぶ。
画面の中で、投手が第一球を投げた。
その瞬間、スクリーンに小さな数値が表示される。
球速、回転数、回転軸、コース、打者の反応。
まるでテレビの中継と連動したデータ解析のようだった。
(いや、これは流石にやりすぎじゃないか?)
そう思いながらも、興味が勝つ。
プロの投手のストレートは、スピードガンの数字以上の「キレ」を持っている。
打者が差し込まれ、ファウルになり、詰まったゴロになる。
そこに至るまでの一つひとつの要素が、スクリーン上に見える形で分解されていく。
――参考比較:
・現在の山下のストレートと比べ、球速は同程度〜やや上
・回転の質とコースの精度は、プロ投手が上
「そりゃそうだ」
すぐに納得できる差だった。
「何見てるんだ?」
後ろから声がして振り向くと、父が立っていた。
「プロ野球。ピッチャーのフォーム、ちょっと見ておこうと思って」
「熱心だな」
父は、敦の隣に腰を下ろした。
「どうだ。プロの球は」
「すごいよ。球速もそうだし、ストライクゾーンの中で“外してる”感じが……」
「外してる?」
「打者の芯から、ほんの少しだけ外してるっていうか。全部真ん中に全力で投げてるわけじゃないんだなって」
父は、少し意外そうな顔をした。
「そんなこと、中学のときは言ってなかったな」
「そうだっけ?」
「球が速いかどうかしか見てなかった。まあ、普通はそうだろうけどな」
苦笑交じりの声。
それに敦も、苦笑で返した。
「プロに行くってのは、ああいう連中とやり合うってことだぞ」
「うん」
「見てたらわかるだろうけど……簡単じゃない」
「簡単じゃないよ」
画面の中で、投手が三振を奪う。
観客の歓声がひときわ大きくなった。
「それでも、行きたいのか?」
父の問いは、真っ直ぐだった。
敦は、少しだけ間を置いてから、うなずいた。
「……行きたい。行きたいよ」
「そうか」
父は、それ以上何も言わなかった。
ただ、しばらく一緒に画面を見つめていた。
プロのマウンド。
たくさんの観客、テレビカメラ、スコアボード。
そこに立っている投手と自分を、無理やり重ね合わせてみる。
その距離は、果てしなく遠かった。
でも、「絶対に届かない」とは、不思議と思わなかった。
*
午後の中継が終わる頃、母の声が台所から飛んできた。
「敦ー、ちょっと来てー」
「どうした?」
リビングから顔を出すと、テーブルの上に学校からのプリントがいくつか広げられていた。
「これ、ちゃんと読んだ?」
指さされたのは、学年通信と、年間の行事予定表だった。
「中間テストの日程、もう出てるじゃない。ここ」
「あ、本当だ」
プリントの一部には、「一学期中間考査」の文字。
日付を見ると、およそ一か月後だ。
「部活頑張るのはいいけど、テストもちゃんと考えなさいよ」
「もちろん」
そう答えた瞬間、スクリーンの端で何かがピコッと点滅した。
――新規ミッション
・学業との両立(必須)
内容:一学期中間テストで学年上位30%以内に入れ
達成報酬:集中力アップ/メンタル安定度上昇
「お前も乗っかってくるのか、そこで」
心の中で、スクリーンに向かって大きくため息をつく。
「何、難しい顔してるの?」
「いや、テスト範囲、どのくらいまでだろうなと思って」
「ちゃんと書いてあるでしょ」
母がプリントを指でとんとんと叩く。
「勉強する時間、自分で決めなさいよ。部活のせいにしないこと」
「わかってるって」
本当に。
今回は、何かのせいにして逃げる気はなかった。
*
夕方、自分の部屋に戻ると、敦は机に教科書とノートを広げた。
「さて」
ため息とも気合いともつかない声が漏れる。
数学のページを開く。
一次関数。
前の人生で、似たような問題を何度も解いた記憶がある。
(ここで“全部覚えてる”って展開なら、完全なチートなんだけどな)
残念ながら、そこまで都合のいいことはなかった。
ただ、「一度やったことがある」感覚は間違いなくあって、理解のスピードは明らかに速い。
問題を数問解くと、スクリーンが静かに表示を変える。
――ステータス一部開示
学力(現時点):
・数学:B
・国語:C+
・英語:C
・理科:C+
・社会:C
「ゲームじゃないんだから」
思わずツッコミを入れた。
「ただの“BとかC”じゃなくて、具体的に点数で出してくれた方がわかりやすいんだけど」
――補足
・現時点の定期テスト想定得点(平均)
→ 学年平均+5〜10点程度
・目標「学年上位30%」達成には、+15〜20点の底上げが必要です
「……なるほど」
数字で示されると、妙に納得してしまう。
(投手としてプロを目指すのに、なんでここまで学力の話が出てくるんだろうな)
そう思った瞬間、スクリーンが別のメッセージを表示した。
――理由
・プロ入り後も、データの理解・相手チームの分析・契約交渉など、学習能力が必要となります
・万が一プロになれなかった場合の選択肢を広げるため
「後ろの一文が、妙に現実的なんだよな」
苦笑しつつも、否定できない。
数学の問題を解き、英単語帳を少しだけめくる。
思った以上に集中できる自分に、敦は少し驚いていた。
(どうせなら、高校三年間を全部“やり直す”つもりでやらないと)
野球だけではなく、勉強も、友人関係も、家族との時間も。
そのすべてを、前より少しだけマシな形にしたい。
机の端に目をやると、グローブとボールが置いてある。
さっきまでプロの投手の投球を見ていたせいか、どうしても触りたくなる。
「……ちょっとだけ」
立ち上がり、ボールを握る。
部屋の壁にぶつけるわけにはいかないので、軽くシャドーピッチングをする。
踏み出す足。
村井に指摘された、ストレートと変化球の踏み出し位置。
さっき教わった「同じ土を踏む」イメージを、フローリングの上で再現してみる。
スクリーンが、さりげなくチェックを入れてくる。
――フォームチェック(簡易)
・踏み出し位置ブレ:昨日比 約40%減
・バランス:良好
「それなりに、前には進んでるってことか」
そう確認できるだけで、少し気持ちが楽になった。
*
夜。
リビングからは、両親のテレビの音がかすかに聞こえる。
敦はベッドに横になり、天井を見つめた。
(プロのマウンドと、今日の自分のマウンド。距離は……とんでもなく遠い)
でも、今日のプロの試合を見ていて、もう一つ気づいたことがある。
テレビに映る投手たちも、かつてはどこかの高校のグラウンドでボールを投げていた。
その中には、甲子園に出られなかった選手だっていただろう。
それでも、どこかで誰かに見つけられて、プロの世界に入った。
(だったら、自分がそこに行けない理由を、最初から決めつける必要はない)
スクリーンが、静かに新しい項目を表示する。
――長期目標確認
・高校編
→ 公式戦初登板/エースナンバー獲得/甲子園出場
・プロ編(予定)
→ ドラフト指名/一軍定着/二刀流としての実績
その下に、小さく一行が追加されていた。
――今日の観戦を踏まえ、目標は現実的ではありますが、非常に困難です
「知ってるよ」
苦笑しながら、目を閉じる。
「だから、やりがいがあるんだろ」
野球部としての一週間が始まる。
学校生活も、本格的に動き出す。
マウンドとバッターボックス。
教室と自分の部屋。
家族と友人と、スクリーン。
どれもが、今の敦にとって、同じくらい大事な「戦う場所」だった。
そのどれか一つでも、前より少しだけ良くできるなら。
きっと、その積み重ねの先に、プロのマウンドへ続く道がある――
そう信じたいと思えるくらいには、今日のプロの試合は胸に刺さっていた。
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