第4話 スクリーンとの付き合い方
翌朝、目覚まし時計のベルが鳴るより早く、敦は目を覚ました。
体は、思ったほど重くない。
前日の走り込みと投げ込みでそれなりに負荷はかかったはずだが、筋肉痛は「来そうで来ない」ところで止まっていた。
(スクリーンの報酬ってやつか)
昨夜、家族との再会ミッション達成で表示された「疲労回復量わずかに上昇」の文字を思い出す。
ああいうゲーム的な表記を素直に受け入れるのは、本来ならおかしいはずだ。
だが、こうして実際に身体が軽いと、信じざるを得なくなる。
布団から起き上がり、カーテンを開ける。
春の朝の光が差し込む部屋は、昨日とまったく同じだ。
変わったのは、自分の中身だけ。
「……行くか」
体操服と制服を用意し、洗面所で顔を洗う。
鏡に映る自分の顔を、改めてまじまじと見た。
十五歳の顔。
ただし、目だけは五十歳分の色をしている。
(大人っぽいって母さんが言ったのも、まあ、仕方ないか)
そう納得しながら、階段を降りた。
*
朝食の食卓には、味噌汁と焼き鮭と卵焼き、そして山盛りの白米が並んでいた。
「おはよう」
「おはよう。今日は早いわね」
母が、少し驚いたように笑う。
「部活あるから、早めに行こうと思って」
「偉いじゃない」
対面では、父が新聞を広げていた。
スポーツ欄には、プロ野球の結果が載っている。
「阪神、昨日負けたのか」
ちらりと見える文字に、苦笑いが漏れそうになる。
しかし、それは今の自分には関係のない話だ。
自分の手で、その見出しを書き換える――そう決めたのだ。
「ちゃんと食えよ。体資本なんだからな」
父が茶碗を指で軽く叩く。
「うん」
敦は、素直にご飯をかき込んだ。
五十歳のときよりも、食欲がはっきりとある。
胃も腸も若く、消化能力も高いのがはっきりとわかる。
ふと、目の前にスクリーンが薄く現れた。
――状態表示
コンディション:良好
疲労度:低
空腹:中
モチベーション:高
「……わざわざ表示しなくても、わかるよ」
小声でそう呟くと、「ヒント:メニュー調整に活用してください」という文字が一瞬だけ表示され、すぐに消えた。
「ん? 何か言ったか?」
「いや、なんでもない」
父の問いかけに、敦は首を振った。
*
通学路の坂道を自転車で登りながら、敦はペダルの重さを確かめた。
(脚も問題ない。これなら、今日の練習も全力でいける)
武庫工業高校の校門が見えてくる。
昨日より、少しだけこの場所に対する「自分の席」が見えてきた気がした。
教室に入ると、まだホームルーム前だというのに、クラスメイトたちが思い思いに話している。
「おはよー」
「おはよう」
あいさつを返しながら自分の席に向かうと、近くにいた男子が声をかけてきた。
「山下、昨日から野球部入ったってマジ?」
「もう噂回ってるのか」
「そりゃあな。初日から投手で別メニューって、けっこうインパクトあるぞ」
そう言って笑ったのは、クラス委員の宮本だ。
真面目そうな見た目に反して、情報通で口が軽いタイプらしい。
「あとで体育教師が話してたぞ。『えらいのが入ってきた』って」
「そんな大げさな」
苦笑しながらも、内心では少しだけ嬉しい。
「で、最高何キロ出たんだよ」
「さあな。見てたやつが勝手に騒いでただけだろ」
「はぐらかしたな。まあいいや。今度、試合出たら教えろよ」
軽い会話。
こういう何気ないやりとりが、妙に新鮮だった。
(前の人生でも、同じようなやりとりはしてたんだろうな。でも、何も残っていないってことは、本気で向き合ってなかった証拠だ)
授業が始まる。
国語、数学、英語、理科――
どれも、一度は通った内容だ。
教科書のページをめくるたび、「ああ、この問題覚えてる」といった感覚がよみがえる。
(これ、勉強で手を抜く理由、一つもなくなったな)
前の人生では、「仕事で疲れた」を言い訳に、資格の勉強を何度も途中で投げ出した。
その後悔が、今はむしろモチベーションになっている。
スクリーンの片隅に、小さなメモが浮かんだ。
――補足情報
・学力は将来の選択肢に影響します
・プロ野球選手になれなかった場合のリスクヘッジも重要です
「余計なお世話だな」
心の中でそう突っ込みながらも、その忠告が正しいことは否定できなかった。
*
放課後。
グラウンドに出ると、昨日よりも自分の居場所がはっきりしていた。
「一年、準備急げ! 今日は早めにキャッチボール入るぞ!」
佐伯の声が響き、一年生たちは一斉に動き出す。
敦も体操服からユニフォームに素早く着替え、グラウンドへ向かった。
「山下、こっち」
手を振って呼んだのは田島だ。
昨日キャッチボールをしたあの俊敏そうな少年。
「今日も相手、頼んでいいか?」
「いいよ。ただし、本当に手加減しろよ」
「昨日よりはマシにする」
「その言い方が全然信用できないんだけど」
冗談を交わしながら、二人は距離をとって向かい合った。
敦は、まずフォームを確認しながら軽く投げる。
肩は軽い。
昨日の疲れは、ほとんど残っていない。
球がミットに吸い込まれるたび、田島の表情が微妙に変わっていく。
「……なあ」
「何だ」
「本当に、これで“軽く”なのか?」
「軽くじゃないと、お前のグローブがかわいそうだろ」
「そういう意味じゃなくて。球の伸びが、昨日よりさらにおかしい」
敦自身も、違和感は感じていた。
明らかに、昨日よりボールのキレと伸びが良くなっている。
(メンタル強化と疲労回復アップの影響が、こういう形で出てるのか)
スクリーンが、さりげなく補足を表示する。
――パラメータ変動
メンタル:+1
スタミナ:微増
コンディション安定度:微増
「ゲームのステータスみたいに言うなよ……」
心の中でぼやきつつも、これは確かに「チート」だと認めざるをえない。
*
ランニングと基礎練習が一通り終わると、昨日と同じように投手陣はブルペンに集められた。
「今日は変化球も少し見る」
村井が、クリップボードを片手に言う。
「ただし、肘を痛めるような投げ方はするな。ストレートの質を落とす変化球もいらん。必要なのは、“打者が打ちづらい球”だ」
キャッチャーとして構える佐伯が、敦をちらりと見る。
「山下。ストレートはだいたい把握した。変化球は何が投げられる?」
「スライダーとフォークとカーブです」
答えながら、自分で言っていて少し笑いそうになる。
まるでパワプロのメニューそのものだ。
「得意なのは?」
「スライダーとフォーク」
「よし。じゃあ、ストレート三球のあと、スライダーとフォーク、最後にカーブを一球ずつだ」
「わかりました」
敦はマウンドに上がった。
視界の隅で、スクリーンが小さく点滅する。
――注意:変化球は肩・肘への負担が大きいため、現在の総投球数とコンディションを確認してください
「大丈夫だ。まだ余裕ある」
心の中でそう返し、まずはストレートを三球。
「ストライク!」
「146!」
「147!」
「148!」
十分な数字だ。
ストレートの後、間を置かずにスライダーのサインが出る。
(ここからが問題だな)
スライダーの感覚は、五十歳までの間に、草野球で投げたときのイメージが残っている。
ただし、あれはへなちょこな「曲がっているような気がする」だけの球だった。
(この身体とこの指なら、もっと“プロ仕様”に近いものが投げられるはずだ)
握りを確認し、腕の振りをストレートと変えないよう意識する。
リリースの瞬間、ほんの少しだけ人差し指に力を残す。
ボールは、キャッチャー手前でギュッと横に滑るように曲がった。
「っ!」
佐伯のミットが、わずかに遅れて追いかける。
「今の……」
「いいスライダーだな。球速は……」
「131!」
スピードガンを読んだ部員の声が響く。
「球速も十分。腕の振りも悪くない。ただ――」
佐伯がミット越しに敦をじっと見る。
「今ので肘、痛くないか?」
「大丈夫です」
「本当にか?」
「ええ。まだ全然」
村井も、敦の腕の振りを注意深く見ている。
「もう一球、スライダーだ。同じ軌道で、今度は少しだけ縦の変化も意識してみろ」
「わかりました」
二球目のスライダー。
今度は、リリースの瞬間に、人差し指だけでなく中指にもわずかに下方向の力を加えた。
ボールは、さっきよりもわずかに縦に落ちる軌道を描き、ストライクゾーンの端をかすめた。
「よし」
佐伯が短くうなずく。
「じゃあ、フォークいくぞ」
フォーク。
指の間から抜く球。
落ちる変化球は、肘への負担も大きい。
(無茶はしない。まずは、“投げられる”ことを見せるくらいでいい)
握りをフォークに変え、腕の振りはストレートと同じスピードを意識する。
リリースの瞬間、指の間からボールを抜くようにして投げた。
ボールは、ホームベース手前でストンと沈む。
「お、おお……」
佐伯のミットが、地面すれすれの位置で球を受け止めた。
「今の、完全にフォークだな。球速は……」
「134!」
スピードだけ見れば、十分すぎる数字だ。
「最後、カーブ」
カーブは、昔から感覚だけで投げていた球だ。
ただ、スピードが遅く抜けてしまうことも多かった。
(この身体なら、“見せ球”としてちゃんと使えるカーブになるはずだ)
握りを変え、少しだけ腕の振りを緩める。
しかし、フォームは崩さない。
高めに抜けかけたボールが、大きな弧を描いてストライクゾーンに落ちていく。
「ストライク!」
審判役の先輩が、思わず声を張る。
「球速……」
「112!」
「遅すぎず、速すぎず。軌道も悪くありませんね」
村井が、淡々と評価を口にした。
「山下」
「はい」
「お前の武器はストレートだ。変化球はあくまでそれを活かすための手段だと忘れるな」
「はい」
「ただ、これだけ投げられるなら、組み立て次第で高校レベルなら十分無双できる」
その言葉に、敦は小さく息をのんだ。
(“高校レベルなら”か)
スクリーンの端に、小さな文字が現れる。
――情報更新
・高校レベルの打者に対する優位性:高
・プロレベル想定:要検証
「調子に乗るな、ってことだな」
心の中で自分に言い聞かせる。
*
その日の練習の最後、村井が全員を集めた。
「明日から、紅白戦のメンバーを少しずつ固定していく」
ざわめきが起こる。
「もちろん、いきなり一年を試合に出すつもりはない。ただし、実力があるやつは遠慮なく上に放り込む。学年は関係ない」
その言葉に、敦の胸が静かに高鳴った。
「特に、投手陣」
村井の視線が、ブルペン側をゆっくりと舐める。
「篠原、山下」
「はい」
篠原と敦が同時に返事をする。
「お前らは別メニューを組む。週に一度、実戦形式で投げさせる。打者も、本気で打ちにいけ」
篠原が、わずかに口角を上げた。
「面白くなってきたな」
その横顔には、焦りよりもむしろ楽しさの方が濃く浮かんでいた。
「手加減するつもりはないぞ」
篠原が敦に向かって言う。
「俺も、その方がありがたいです」
敦は素直に答えた。
「中途半端に抑えられるより、全力で打たれて課題が見えた方がいい」
「お前、本当に一年か?」
篠原が呆れたように笑う。
「精神年齢だけ、ちょっと高めなんだと思います」
「その言い方がまた引っかかるんだよな」
そんな会話を交わしながら、練習は終わりに近づいていった。
*
帰り道、自転車をこぎながら、敦は頭の中で今日の投球を何度も反芻していた。
ストレートの軌道。
スライダーの曲がり始めのポイント。
フォークの落ち具合。
カーブの曲線。
それらすべてが、映像として頭の中に記録されている。
(記憶力まで強化されてないか、これ)
スクリーンが、さりげなく答えを表示する。
――スキル追加
・投球リプレイ:自分の投球を、上空および捕手視点から任意に再生可能
「もっと早く教えろよ、それ」
心の中で突っ込むと同時に、視界の端に小さなウィンドウが開いた。
さっき投げたスライダーの軌道が、上空からの視点で再生される。
(……これは、反則だな)
ピッチングコーチが欲しがるような機能を、自分の中だけに持っている。
それは確かにチートだが、同時にプレッシャーでもあった。
(ここまでしてもらって、結果を出せませんでした、じゃ、さすがに情けなさすぎる)
スクリーンの中央に、新たなミッションが浮かぶ。
――新規ミッション
・初紅白戦での結果:自責点0、3奪三振以上(予定登板:近日)
「ハードル、高くないか?」
そう文句を言いながらも、敦の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
目標は明確だ。
過去も、家族も、野球も――全部、逃げずに正面から踏み込む。
ペダルを踏む力が、少しだけ強くなった。
夕暮れの風が顔を撫でる。
その向こうに、甲子園のアルプススタンドと、プロのマウンドがぼんやりと重なって見えた気がした。
五十歳の大型トラック運転手として積み重ねた後悔と、十五歳の肉体が持つ可能性。
その両方を武器にして、山下敦は「スクリーンとの付き合い方」を少しずつ覚え始めていた。
そして、そのスクリーンが示す数字やミッション以上に、自分の中に確かに燃えているもの――絶対に諦めないという意志こそが、本当の「チート」なのだと、彼はまだ気づいていなかった。
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