第3話 閉ざされた遊園地の囁き
どれだけ走ったのか、もう時間の感覚がなかった。
乗り換えを繰り返し、ホームを駆け抜け、階段を昇り降りしているうちに、足は棒のように重くなっていた。
汗が背中を伝い、呼吸が荒くなる。
それでも止まれない。
止まった瞬間、あの銀色の瞳に捕まる気がしてならなかった。
列車を三本ほど乗り継いだころ、俺はようやく地上に出た。
改札を抜けたとたん、夜風が顔をなでる。
見慣れない駅名だった。都心から少し外れた郊外のターミナル。名前を見てもピンとこない。
時計は深夜一時を回っている。人影はまばらで、閉店した商店街のシャッターが並ぶ。
ネオンの残光も消えかけ、街の灯りはやけに遠く感じられた。
「ここまで来れば、さすがに......」
呟きながら駅前のベンチに腰を下ろす。
体中の力が抜け目を閉じた瞬間、眠気が一気に押し寄せた。
心臓はまだ早鐘を打っている。だけど疲労がそれを上回っていた。
――どこへ逃げても、追ってくる。
そんな確信が、恐怖ではなく諦めに近い感情へと変わりつつあった。
あの眼力に真正面から捕まったら終わりだ。
逃げ続けることもまた、同じくらい地獄だ。
ふと、耳の奥で、誰かの囁きがした。
「もう、逃げなくてもいいのよ。あなたを捕まえないと、未来に繋がる扉が開かない。だから追っていたの」
はっとして目を開ける。
誰もいない。
ただ、駅前のロータリーの向こう。夜霧のなかに、ぼんやりと光る観覧車が見えた。
「なんで、こんな場所に観覧車が......?」
幼いころに来たような気がする場所。
いや、来た記憶なんてない。なのに、なぜか涙がにじんで視界が揺らいだ。
心の奥で、誰かの笑い声が反響した。
気がつけば、俺の足は自然とそちらへ向かっていた。
舗装の割れた道路を歩き、草の伸びたフェンスの脇を抜ける。
遊園地は、もう営業していないらしい。
錆びついたゲートに立入禁止の札がかかっている。
ゲートの隙間から漏れる光が、俺を誘うようにちらちらと瞬いていた。
誰かが、俺を待っている。そんな気がしてならなかった。
「......まさか、誘われてるのか」
そう思った瞬間、胸の中で何かが軋んだ。
逃げ場がなくなったいま、俺の意志よりも、彼女の意志のほうが強くなっている。
もしかすると、俺はもうとっくに彼女の網の中に入っているのかもしれない。
観覧車の足元まで来ると、風がひゅうと鳴いた。
夜空には雲が流れ、月が一瞬だけ顔を出す。
その光に照らされて観覧車の一基、最も下にあるゴンドラがゆっくりと動き出した。
動くはずがない。電源なんて入っていないはずだから。
だけど、確かに軋み音を立てながら、俺の目の前まで降りてきた。
「......嘘だろ」
手の中の黒いケースが、かすかに震えた。
手元を確認した。
パカッと音がして、夢界記録装置の蓋が勝手に開く。
中の透明なカプセルが淡く光り空気を震わせた。
その光の中に、微かにキラリの姿が浮かんだ。
――夢界記録装置。
それは夢を記録するだけじゃなくて、再生もする「夢界記録再生装置」だった。
もしかして、俺が見ているこの光景そのものが夢の再生なのか?
わからない。
ただひとつ確かなのは、足がもう動かないということ。
恐怖も理屈もなく、ただ、そうするしかないという感覚だけが全身を支配していた。
俺はゆっくりとゴンドラに近づき、その中を覗き込む。
中は真っ暗だった。
けれど、何かの気配だけが、確かにそこにある。
空気が微かに甘い。
夜風に混じって、金木犀の香りが漂う。
どこか懐かしく、どこか物悲しいあの香り。
その香りの奥で、あの声がした。
「カズマ、ここに来たんだね。」
心臓が一度、大きく跳ねた。
振り返る。
誰もいない。
でも、声は確かにすぐそばから聞こえた。
夢の中で声だけを聞いているみたいに。
ゴンドラの扉が、音もなく開いた。
誘われるように、俺は足を踏み入れる。
扉が閉まると同時に、観覧車がゆっくりと上昇を始めた。
友人の最後の言葉が俺の脳裏をよぎった。
「一つだけ肝に銘じておけ。夢界は人が切り捨てた『忘却の記憶』でできている。だから、もしお前が『それ』を現実に持ち帰って再生できたら、それはただの夢じゃない。お前の現実そのものを『上書き』してしまう可能性があるんだ。それだけの力があるものだと、忘れるな」
その言葉を反芻した瞬間、呟いていた。
「......始まったのか?」
呟いた声は、自分のものとは思えなかった。
現実の境界が、ふっと遠ざかっていく。
下を見ると、街の灯が溶けた絵の具のように滲んでいた。
その真ん中に、白い人影が立っているのがはっきりと見えた。
キラリだった。
彼女は真っ直ぐこちらを見上げている。
その眼は、月光を受けて静かに輝き、そして、微笑んだ。
「逃げても、ここに来る運命なんだね」
彼女の口が、音を立てずにそう動いた。
俺は理解した。
逃げていたつもりで、ずっと導かれていたのだと。
どこへ?
――夢界へ。
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