第5話 スペインの日常とマリアの言葉

 バルセロナに来て三週間が経った。


 朝九時。

 東京ならもう満員電車が終わり、

 オフィスがざわつき始める時間だ。


 でもここでは、

 ゆるい光がアパートに差し込むだけ。


 バルコニーに出ると、

 通りのカフェから、

 カタカタと食器を重ねる音、

 オレンジを搾る機械のウィンという音が聞こえてくる。


「今日、市場行く?」


 コーヒーを淹れながら悠人が聞いてきた。


「うん。なんか……気づいたら毎日行ってるね、私」


「まあ、食べ物うまいからな」


 スペインの朝はゆっくりしている。

 私の心も、それに合わせてゆっくりになっていった。


     ◇




 ボケリア市場に入ると、

 見覚えのある後ろ姿が、魚売り場の前で腰に手を当てていた。


「マリア!」


 声をかけると、

 マリアは振り向いて、目を細めた。


「日本の子じゃない! ほら見なさい、顔が柔らかくなってきたじゃない」


「え、ほんと?」


「ほんとほんと。最初は“働きすぎの顔”してたけどね」


 マリアはケラケラ笑う。


 彼女は六十代くらい。

 市場で働いているというより、

 市場に“いる”のが当たり前みたいな存在感だ。


「今日はいいムール貝が入ってるのよ。パエリアにどう?」


「作ったことないけど……できるかな?」


「できるわよ。失敗しても食べられるんだから。

 人生と同じよ、やってみればいいの」


 さらっと言ったその一言が、胸にすっとしみた。


     ◇




「うちで作りましょう。市場のキッチンは落ち着かないしね」


 流れるようにそう言うと、

 マリアは市場の奥にある小さな扉を指差した。


「ここ……マリアの家?」


「そうよ。市場の上に住んでるの」


 市場の上の階段を上がると、

 タイルの床が続くアパートに出た。

 窓辺には多肉植物が並び、

 壁には家族写真が飾られている。


「さあ座って。まずはソパ・デ・アホよ」


「にんにくのスープ?」


「そう。疲れた心に一番効く薬」


 鍋の中でオリーブオイルが温まり、

 にんにくがじわじわ香りを放ち始める。


「この香りだけで癒される……」


「でしょ?」


 そこにパンを入れて炒め、

 パプリカパウダーで色をつけ、

 水と塩をひとつまみ。


 最後に卵を落とすと、

 白身だけふんわり固まり、

 黄色い膜が揺れる。


「はい、味見してみて」


 一口すすると、

 体中の力がほどけていくようだった。


「あ……優しい……」


「スペインの女はね、疲れたときはスープを飲むのよ。

 泣きたいときも、怒っているときも、よ」


 マリアは鍋を混ぜながら言った。


「あなたも、東京でいろいろあったんでしょ?」


「……まあ、そうですね」


「働きすぎ?」


「働きすぎもだけど……

 “女性はこうあるべき”って空気も、ちょっと苦しくて」


「何よそれ。古いわねえ」


 マリアは呆れたように眉を上げた。


     ◇




「スペインではね、“産むかどうか”なんて、本人の自由よ」


 マリアはパンを手でちぎりながら言った。


「産みたい人は産むし、産みたくない人は産まない。

 周りは口を出さないわ。だって他人の人生よ?」


「……東京では、そういうふうには言ってもらえないことが多くて」


「日本人は真面目だからね。

 でも、真面目だけじゃ心が壊れるのよ」


 マリアは腰に手を当てて、胸を張った。


「私は三人産んだけど、

 それは“私がそうしたかったから”。

 誰かに勧められたからじゃないわ」


「……私、産むのが怖いんです」


 気づいたら言っていた。

 息を吐くように、自然に。


「死ぬかもしれないって、怖くて」


 マリアは手を止め、ゆっくりこちらに向き直った。


「怖い? それでいいじゃない」


「いい……んですか?」


「ええ。当たり前よ。

 出産は命がけなんだから。

 怖いと感じる心は正常よ」


 そう言って、マリアは笑った。


「あなたの気持ちは、あなたのもの。

 誰も否定できないわ」


 ——東京でずっと聞けなかった言葉。

 胸の奥がじんわり熱くなり、

 表情が緩むのがわかった。


     ◇




「さ、泣く前にパエリア作るわよ」


「泣いてないです!」


「うそつき」


 マリアは肩をすくめて笑い、

 フライパンにオリーブオイルをたっぷり入れた。


「まずは玉ねぎとピーマン。

 よく炒めるのがスペインのお母さんのやり方」


 野菜の水分が飛び、甘い香りが立ち上がる。


「ここにトマト。つぶして全部入れちゃう」


「豪快……!」


「料理はね、迷ったら大胆に。

 人生も同じよ」


 笑いながら言うマリア。


 そこにムール貝、イカ、海老。

 魚介の出汁。

 サフランをひとつまみ。


「きれい……」


「そうでしょう。ほら、混ぜすぎないでね。

 お米におこげを作らないと」


 水が減っていき、

 鍋肌にぱちぱちした音が響いた。


「さあ、できたわよ」


 皿に盛り付けると、

 市場の香りがそのまま乗ったようなパエリアが完成した。


「……おいしい……!」


「当たり前よ。私が教えたんだから」


 マリアは胸を張って言った。


     ◇




 その夕方、アパートに戻りながら思った。


 ——今日、私は誰にも責められなかった。


 “産まない私は変だ”

 “いつか後悔する”

 “女性なら普通は”


 そんな雰囲気はここにはなく、完全に自由だった。


 スペインの乾いた風が、

 胸の中の重たい空気をごっそり持っていった気がした。

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