第3話 逃げるように訪れたバルと、スペインの風

 その日の仕事終わり、私は珍しく残業をしなかった。

 頭が重い。胃のあたりも少し痛い。

 エクセルの数字よりも、人の声や視線のほうが刺さったような、あの独特の疲れ。


「今日、どっかで食べて帰らない?」


 改札前で待っていた悠人が、私の顔を見るなり言った。


「……うん、ありがとう。なんか、今日は料理する気力ないって思ってた。」


「じゃあさ、この前気になってたスペインバル行ってみよ?」


 駅前の商店街の奥、温かいオレンジの明かりが漏れる店があった。

 ガラス越しに見える、生ハムの塊。

 カウンターに並ぶタパスの皿。

 バル特有のざっくりした活気。


 私は思わず、小さく息を吐いた。


「行こう」


 小さな木の扉を押すと、

 ガーリックとオリーブオイルの香りがふわりと鼻をくすぐった。


「¡Buenas noches!(こんばんは!)」


 明るい声。

 店内を満たすスペイン語の音楽。

 壁一面を飾るワインのボトル。


 ——あ。

 なんか……ここだけ空気が違う。


 そう思った瞬間、肩の力がすっと抜けた。


 




 カウンター席に通されると、

 まずはピンチョスを二皿と赤ワインのボトルを注文した。


 スモークサーモンの上にレモンの皮がひらりと乗ったもの。

 アンチョビとオリーブを串で刺したもの。


 一口食べただけで、体の奥がじんわりほどけていく。


「……おいしい。ワインにあうね」


「うん、うまい。これは……スペイン行きたくなるな」


 悠人が笑って言う。

 その声も、やけに柔らかく聞こえた。


 次は海老のアヒージョ。

 ぐつぐつ煮立つオイルの中に、ぷりぷりの海老とマッシュルーム。

 にんにくとパセリの香り。


「パン浸すよ?」


「ちょっと待って、写真撮らせて」


 その一瞬の余裕が、今日の私にはありがたかった。


 バゲットをひたして食べると、

 熱いオイルが舌にのり、にんにくの香りが広がる。


 思わず目を閉じる。


 ——美味しいものを食べるって、幸せだな。


 さっきまでのモヤモヤが、どこか遠くに追いやられていく気がした。


 



「さゆり、最近しんどそうじゃない?」


 アヒージョをつつきながら、悠人がぽつりと言った。


 その言葉だけで、胸がきゅっとなった。


「……そんなに顔に出てた?」


「顔じゃなくて……雰囲気かな?

 朝も夜も、どこか考えごとしてる感じだった」


「……まあ、ね」


 ワインをひと口飲む。

 赤ワインの酸味が喉に落ち、胸の奥がすこし熱くなる。


「最近、“こうあるべき論”みたいなの、めっちゃ多くない?

 テレビでも、会社でも、周りでも……子ども産むのが正しい、みたいな空気」


 感情的にならないように、ゆっくり話す。


「私……産む予定ないって言うだけで、“欠けた人間”みたいに扱われる気がしてさ。

 仲の良い友達は理解してくれることが多いけど……社会全体が、そうじゃないじゃん」


 悠人は静かに頷いて、言った。


「社会の声は大きいけどさ。

 さゆりの人生に、本当に関わるのは、社会じゃなくて、俺じゃん?」


 その一言で、泣きそうになった。


「そうだよね……ありがとう」


「ありがとうじゃなくていいよ。

 さゆりは、自分の人生を、そのまま生きていいんだよ」


 ——私は、誰かにこう言ってほしかったのかもしれない。


 “社会の正しさ”より“自分の気持ち”を優先していい、と。


 




 最後に頼んだパエリアは、鉄鍋で運ばれてきた。


 ムール貝、海老、イカ。

 黄金色の米の上に整然と並んでいて、

 魚介の香りがふわっと立ち昇る。


「うわ……絶対おいしいやつ」


「サフランの香りがすごいね」


 取り分けて口に運ぶと、

 魚介の出汁がしっかり沁み込んだ米が、舌にふんわり広がった。


「ああ……しあわせ……」


「これ本場で食べたらどうなるんだろうな」


「本場……」


 悠人の言葉が、やさしく頭の中に落ちてくる。


 スペインの街並み。

 乾いた風。

 太陽の下で食べるパエリア。

 市場で売られるトマトやピーマンの鮮やかな色。


 そして、

 “子どもを産む・産まない”という枠から、誰も私をジャッジしない世界。


 その光景がふいに胸の奥で膨らむ。


「……ねえ、悠人」


「ん?」


「一年だけ……住んでみない?」


 自分の声が、意外なほど軽やかだった。


 悠人は目を丸くし、それからゆっくり笑った。


「いいよ。それ、めっちゃいいと思う」


「ほんとに? 仕事は?」


「俺はウェブデザイナーだから、どこでもできるし。

 さゆり、環境変えたほうが絶対いいと思う」


「私も、リモートワークでも大丈夫だし、

 本当に行っちゃおう!」


 ぱちん、と何かが心の中で弾けた気がした。


 ——行こう。

 ——スペインへ。


 パエリアの香りが、静かに背中を押した。

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