パン・コン・トマテの朝に——子どもを産まない私の一年間スペイン暮らし

風谷 華

第1話 東京の朝と“普通”の重さ

 朝六時半。

 まだ外はうっすらと青く、ビルの隙間から差し込む光が、カーテンの端を淡く透かしていた。


 キッチンの床に素足を置くと、ひんやりとした感触が、ぼんやりしていた頭を現実へ引き戻す。


 フライパンにオリーブオイルを垂らし、弱火にかける。

 冷蔵庫から取り出したミニトマトを水でさっと洗うと、ボウルの中で赤い粒がころころと転がった。

 きゅうりを斜めに切り、昨晩の茹で鶏を細く裂く。


 オイルが温まりはじめた音が聞こえてきたころ、食パンをトースターに入れる。

 スイッチを押すと、カチッという小さな音のあとで、電熱線がじわじわと赤くなっていく。


 卵をフライパンに割り入れると、白身の縁がじゅっと音を立てて固まりはじめた。

 この音が好きだ。仕事に行きたくない朝も、眠り足りない月曜日も、目玉焼きが綺麗に焼けているだけで「まあ、何とかなるか」と思える。


「さゆり、コーヒー淹れようか?」


 寝ぼけた声が背中から届いた。

 振り向くと、Tシャツにスウェットパンツ姿の夫・悠人が、髪をくしゃくしゃにしたままこちらを見ている。


「お願い。豆、いつものやつで」

「はーい」


 キッチンの隅で、コーヒーミルがカリカリと豆を挽く音を立てる。

 目玉焼きのじゅうじゅうという音と重なって、狭いキッチンが少しだけ賑やかになった。


 私――沖さゆり、三十二歳。大手メーカーで経理の事務をしている。

 このマンションには、二十八で結婚したときに引っ越してきた。

 東京駅まで一本で行ける沿線は便利で、家賃は高いけれど、そのぶん飲食店が充実している。

 休日には駅前の商店街を歩き、新しいカフェやパン屋を見つけては、二人で試すのがささやかな楽しみだった。


 トーストが焼き上がり、こんがりとした香りが一気に立ちのぼる。

 バターを塗り、ミニトマトときゅうりと茹で鶏のサラダを添え、目玉焼きをその隣に。黄身は固まりきる手前で火を止めたから、つつけばとろりと溢れるはずだ。


 テーブルに二人分の皿を並べたころ、悠人がマグカップにコーヒーを注いで、向かいの椅子に座った。


「いただきます」

「いただきます」


 フォークで黄身を割ると、予想どおり、とろっとした黄色が白身の上に流れ出す。

 トーストの端でそれをすくって口に運ぶ。バターの塩気と卵の甘さ。そこにコーヒーの苦みを重ねる。


 たぶん、人生でいちばん頻度が高い幸福は、このレベルのものなんじゃないかとふと思う。

 大袈裟ではなく、ドラマチックでもない。ただ、自分のために用意された朝ごはんを食べる。それだけ。


「今日、飲み会?」

「ううん。月末だから残業はするけど、飲み会はなし。帰りにコンビニ寄るくらいかな」

「じゃあ夕飯どうしよ。昨日のカレー、まだあるよね」

「うん。チーズのせて焼きカレーにしない?」

「いいね。じゃあグラタン皿出しとく」


 他愛もない会話を続けながらトーストを平らげる。

 食器を流しに運び、さっと水で流すと、時計は七時半を指していた。そろそろ支度をしないと。


 化粧をしながらテレビをつける。

 朝の情報番組のアナウンサーが、明るい声で告げた。


「続いては“少子化対策の新たな支援策”です。政府は――」


 画面には「子育て世代へのさらなる支援策」と大きくテロップが出ている。

 子どもを抱いた母親、保育園で駆け回る子どもたち。


 テレビに映る「支援される人たち」には、必ず「親」という肩書がついている。


 私は親ではない。

 これからも、その予定はない。


 アイラインを引き終えるころ、コメンテーターの男性が、深刻そうな顔で言った。


「やはり、若い世代に結婚や出産の希望を持ってもらうことが重要ですよね」


 希望。

 リップを塗りながら、私はテレビを消した。


 ――じゃあ、「希望していない人間」は、どこに置かれるんだろう。

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