ジーニアスファンタジー ――もし自殺したセンター試験全科目満点の天才が異世界転移したら?――
衝動
1-1 入水
――二〇二五年十二月、ある冬の夜。俺は東京・渋谷のとあるマンションの一室、そのベランダに立っていた。オイルライターの火が小さく灯り、紙巻き煙草の先端を焦がす。フィルターを
短くなった煙草を灰皿――もとい、シケモクの山となった何かに押し付けた。足下には無数の吸殻が散乱している。ベランダの
部屋は暗かった。フローリングに散乱するインスタント麺の容器、弁当の残骸の
机の引き出しの隙間から、白黒の紙片が覗いているのが見えた。取り上げてみると、それは四年前の新聞記事の切り抜きだった。
――――――――――――――――――――――――
「天才」大学入試共通テスト満点の受験生を生み出した
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「はっ……何が天才だ……」
写真の中で笑う母の姿。その後ろに、当時の俺――黒髪の青年が写っていた。カメラから逃げるように顔を背けている。母はその年の冬、事故で死んだ。
「本当に天才なら人生詰んでねーよ……」
スクラップの下には、俺宛ての借金の督促状がぎっしりと詰め込まれている。真っ赤な封筒。見るだけで吐き気を催す色だ。
その机の上に無造作に散らばる大量の錠剤。誰にも届かない声音には、何か恨み節のようなものが込められていた。大学で精神医学を学んでいた
「ヤブ医者が……」
十二年。十二年間もの間、ずっと鬱病の症状は出ていたのだ。診断書を貰うために「通院出来る」精神が必要だという矛盾。痛みを知らぬ医者が、上っ面の共感を語る滑稽。――救いなど、最初から存在しなかった。
「さて……」
時計の針は深夜一時を指していた。ふと姿見の前に立つと、そこに映る自分の姿は、酷く
「クソみたいな人生だった。それも今日で……終わる」
玄関へと向かうと、暗闇の中に、まだ新品同然のスニーカーがぽつんと置かれている。スニーカーを
「寒いな……」
扉を
スーツケースを片手に、再びマンションの表、道路側に回ると、つい先刻までは停まっていなかったタクシーが停まっていた。助手席側の窓ガラスを軽くノックすると、それに気付いた初老の運転手が軽く
「……予約させていただいた田中です」
「田中様ですね。お荷物はトランクに
スーツケースに手を伸ばそうとする運転手に声を掛け、手で制する。
「――いえ、すみませんが
「かしこまりました。ではどうぞ」
促されるまま、スーツケースを抱えたまま後部座席に乗り込む。ドアが閉まると同時に、タクシーは静かに動き出した。
「お客様、行き先はJR
「はい、お願いします」
「かしこまりました。出発いたします」
ルームミラー越しに、運転手がちらとこちらを窺う。
「あの、お客様。失礼ですが、
――ハズレの運転手か。妙に察しが良い。
「ああ、いえ、バイトでして。撮影のロケハンなんですよ」
「へえ、何の撮影なんですか?」
「今度芸人の街ブラロケやるんですよ。学生なんですけど、勉強させてもらってて」
揺れる車両に合わせて、足元のスーツケースが揺れる。中で金属と金属が
「ああ、それでスーツケースから金属音が」
「撮影機材ですね。大した量じゃないんですけど」
運転席の若い男は、
「大変ですね~。頑張ってください」
「はは……ありがとうございます」
何でもない会話。でも、もう二度と交わすことはない。
「お客さん、知ってます?この辺にあの、大学入試共通テスト満点の天才が住んでるらしいですよ。雪村さん……でしたっけ」
「……へえ、そうなんですか」
「立派ですよね。ウチの息子も見習ってほしいものです」
「……見習うべきじゃないですよ」
聞こえるか聞こえないか――そんな声量で、伏し目がちに呟く。呟きは風に
「……?」
運転手がきょとんとした表情を浮かべたのがルームミラー越しに見えた。
「あ、この辺りで大丈夫です」
「かしこまりました」
タクシーメーターの料金表示が「27,000円」を超えたタイミングで、車は
「では料金は……二万七千四百円になります」
「はい」
ポケットに裸のまま入れていた三枚の紙幣を目の前の釣り銭受け皿――正式名称はカルトンと呼ぶが、それに置く。運転手が素早く清算し、釣り銭と共に二千六百円をカルトンに戻した。それを手に取ると、ドアが自動で開く。
「お仕事頑張ってくださいね!」
「ありがとうございます。お互いに、ですね」
笑顔を覗かせる運転手。去っていくタクシーを
――スーツケースを片手に
眼前に広がる海は
俺は再度周囲の目がないことを確認し、スーツケースを波打ち際まで転がした。ダイヤルを解除してスーツケースを開ける。中には重量のある金属製のチェーンと、その至るところに引っ掛けられたダンベル。そして一本のナイフが入っていた。月光に照らされた刃が、青白く輝く。
ナイフを一度口に
「……重っ」
苦笑とも溜息とも付かない声を漏らしながら、そのチェーンを身体中に巻き付けていく。ダンベルの重みが、全身の筋肉と骨を容赦なく
――もう、いいだろ。
突き立てた瞬間、意識が飛びそうな程の痛みが全身を駆け巡った。
――
ナイフを腹部から引き抜くと、温かい血が一気に噴き出した。足下の砂が、海水と混じり合った血でどろりと色を変えていく。
続け様に胸部へと刃を向ける。一度目は
恐ろしい程に冷静だった。不思議と死ぬことが怖くなかった。腹部、胸部、背中へと次々にナイフを突き刺し、更に身体に穴を空けていく。波打ち際の砂浜と、打ち寄せる波が赤く染まっていく。その光景は、場違いな程に――美しかった。
――こんなものか。
空っぽになったスーツケースを蹴り飛ばすと、海の向こうへと着水し、スーツケースはぷかぷかと浮かんだ。スーツケースはゆっくりと沖へ流れていく。
見上げれば、満月。まるで、俺を見送るように
身体中に空けた穴に染み込む冷たい海水が、地獄のような痛みを絶え間なく俺に与え続けた。
――痛い……けどあの頃に比べたらマシだな。それより、急がないと先に出血多量で死ぬか……。
深く息を吸い――肺に水が入り込む違和感を
視界は徐々に暗く、狭くなっていく。最後の力を振り絞り、全力で更に潜った。全身に巻き付けたチェーンとダンベルの重みが、身体を底へ底へと引き
――最期に海を泳げて良かった。「自由」って気持ちがいいものだな。もし生まれ変わるなら、今度こそ自由になりたい。
そして、俺は脚を
――
意識が遠のいていく中で、視界の端に、何かがぼやけた。頬を伝う感覚。涙だと理解した頃には、その涙は冷たい海水に溶け込んでいた。
――
――だが、俺は知る由もなかった。終わらせた
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