第8話

 王城の西翼から、鼻を刺すような焦げた匂いが流れてきた。


 ただの煙ではない。

 紙と革と、古いインクが焼ける匂いだ。


「……間に合ってくれよ」


 俺――レオンハルトは、走りながら悪態を飲み込んだ。


 フェルノが先導し、その後ろをエリシアと影の騎士が続く。

 ソフィアは殿を守りつつ、周囲の気配を探っていた。


「若様、書庫はこの先です! すでに消火班を呼んでおりますが――」


 曲がり角を抜けた瞬間、熱風が顔を打った。


 廊下の先、分厚い扉の隙間から、オレンジ色の光と黒煙が漏れ出している。

 使用人たちが慌てて水を運び、騎士たちが布で口元を覆っているが、焼ける勢いの方が明らかに勝っていた。


「王城中央書庫が……!」


 エリシアの顔色がさっと失われる。


 政庁文官であれば誰もが知っている。

 ここにはただの記録だけでなく、

 ――王都の“権力の歴史”そのものが詰まっている。


「火元はまだ中だ。

 フェルノ、出入口の状況は?」


「扉は内側から留め金がかけられていた形跡が……。

 こじ開けるのに時間がかかりました」


「つまり、“中から燃やした”ってわけか」


 俺は舌打ちした。


(証拠隠滅にしても豪快すぎる。

 このやり方――王城そのものを揺らすつもりだな)


「ソフィア。中にまだ人は?」


「……気配は薄いですが、完全には言い切れません。

 ですが、もう長くはもたない。煙が濃すぎます」


「なら、選択肢は一つだ」


 俺は外套の留め具を外し、口元を布で覆った。


「俺とソフィアで中に突っ込む。

 フェルノは消火と避難の指揮、エリシアは――」


 そこで一瞬だけ迷う。


 火の中に素人を連れ込むほど無謀ではない。

 だが、彼女の目は数字だけでなく、棚の“意味”も読む。


「……エリシア、きみは入口で待機だ」


「えっ」


「中の棚の配置図を覚えているな?」


「も、もちろんです!」


「煙で視界が悪くなる。

 声を飛ばすから、その場で“どの棚か”指示してくれ。

 優先的に守る場所を決める」


 エリシアは数瞬迷い――強く頷いた。


「分かりました。

 では“どの区画に何があるか”は、私がすべて指示します」


「それでいい」


 ソフィアが横目で俺を見る。


「自分一人で突っ込むつもりかと思いましたが……

 少しは学習しているようですね」


「俺だって、多少は成長する」


「皮肉を言う元気があるなら大丈夫ですね。行きますよ」


 二人で扉を押し開ける。

 熱と煙が、一気にこちらへ溢れ出した。



 書庫の中は、地獄だった。


 高く積み上げられた書棚の一部がすでに崩れ、

 羊皮紙が燃え盛る炎の中で黒く溶けていく。


 天井付近に溜まった煙が、視界を濁す。

 咳が出そうになるのをこらえ、俺は声を張り上げた。


「エリシア! 今燃えてるのは、どの列だ!」


 扉の向こうから、彼女の声が届く。


「右側の第二列が一番明るく見えます!

 そこは、教会関連の“寄進記録”の区画です!」


「寄進記録か……。

 確かに真っ先に燃やしたいだろうな」


 ソフィアが低く呟く。


「ということは、そこに“捏造前の元記録”が?」


「あるいは、“教会にとって都合の悪い過去”がな」


 俺は近くのバケツを掴み、火元に向かって投げつける。

 水がはじけ、炎が少しだけ弱まる。


「ソフィア、あの上段を一気に落とせ!」


「了解」


 彼女が剣の柄で棚を思いきり叩く。

 きしむ音とともに木材が折れ、燃えた書物ごと床へ崩れ落ちた。


 上へ燃え広がるより、下でまとめて潰した方がまだマシだ。


 だが――。


「レオン! 左側奥が、新しく光りました!」


 エリシアの声が再び飛ぶ。


「左第三列、その中ほどです!

 そこは、王家の“継承関係”と、王族周辺の系譜が――!」


「やっぱりそこを燃やしに来たか!」


 俺は迷わず方向を変えた。


 炎の熱で額の汗が一気に吹き出る。

 喉が焼けるように乾く。


 だが、躊躇している暇はない。


 左第三列。

 棚の中段から炎が噴き出している。


 燃え方がおかしい。

 紙が自然に燃えたというより、

 ――“何かを仕込んでから着火した”ような勢いだ。


(油か、魔道具か。

 単なる事故じゃないのは確定だが……)


「ソフィア! その棚、上から崩せるか!」


「足場を作れば何とか!」


 ソフィアが隣の棚に飛び乗り、剣を振り下ろす。

 木材が裂け、燃える束が床に落ちて散らばる。


 俺は熱に耐えながら、燃え残った束を足でかき分けた。


 ――あった。


 真っ黒に焦げかけた革表紙の綴り。

 他の記録より一回り薄い。


(継承権に関わる資料は、“王家の許可なく閲覧禁止”。

 だから余計に薄く、小さく、目立たないように作られている)


 表紙の金具が熱くて素手では持てない。

 外套を巻き付けて掴み、胸に抱え込む。


「レオン、それ以上は――!」


「まだ、もう一箇所ある!」


 自分でも馬鹿だと思う。

 だが、ここまでされると意地になる。


「エリシア! 王族関係の資料のうち、

 “宰相が最も触りたがる場所”はどこだ!」


「えっ? ええと……!

 き、旧王妃様の系譜記録の棚です!」


「旧王妃?」


「はい! 現王太子の実母の系統です!

 系譜が複雑で、“王家と縁を結びかけた貴族”が何家も……!」


(……なるほど)


 宰相が王太子の正統性を揺らしたいなら、

 まず“系譜の曖昧な部分”から潰しにかかる。


 そこから噂を作り、教会に“新たな神意”を語らせればいい。


「場所を教えろ!」


「左第三列の、一番奥! 目印は――

 棚の側面に、白い封蝋が……!」


「分かった!」


 足元の炎を蹴り飛ばしながら、奥へ進む。

 視界が更に白くかすむ。

 煙のせいか、目が痛い。


 棚の端。

 確かに一箇所だけ、古い白い封蝋が残っていた。


 だが、その棚の前に――人影があった。


「……やはり、来たか。ハーリエン」


 黒ずくめの男。

 顔を布で覆い、手には点火用の魔道具。


 俺は反射的に距離を詰めた。


「お前、宰相の私兵か?」


「答える義務はない」


 男は淡々と魔道具を棚に押し当てる。

 オレンジの火花が走り、封蝋の周囲から炎が上がる。


「くそっ――!」


 俺はとっさに男の腕を掴み、ねじり上げた。


「ぐっ……!」


 魔道具が床に落ち、火花を散らす。

 ソフィアがすぐさま駆け寄り、その装置を蹴り飛ばした。


「魔道具による放火……確定ですね」


「王城内でこんな真似をするとは、随分と度胸がある」


 男は苦しげに笑った。


「お前こそ……よくここまで嗅ぎつけたものだ。

 しかし、“もう遅い”。記録は――」


「全部は焼けないさ」


 俺は淡々と返した。


「王都の“後始末屋”を甘く見るな」



 ようやく外へ引きずり出される頃には、

 書庫の炎はだいぶ弱まっていた。


 騎士や使用人が必死に水を運び、

 黒煙が天井近くで渦を巻いている。


 エリシアが駆け寄ってきた。


「レオン様っ!」


 俺は抱えていた綴りを見せた。


「ほら。

 “継承関係の一部”は、ちゃんと残った」


「……本当に、救い出したんですね」


 エリシアは、半ば呆然としたようにそれを受け取る。

 焦げてはいるが、文字はまだ読める。


「旧王妃様の系譜資料も、ぎりぎり」


 ソフィアが別の束を掲げた。


「端は焼けていますが、記録としては十分です。

 影の騎士団として、これを王へ提出します」


「助かる」


 その時だった。


 フェルノがこっそりと俺の袖を引いた。


「若様。以前からおっしゃっていた“保険”の箱……どうされますか?」


「……ああ、あれか」


 俺は小さく笑った。


「エリシア。

 ひとつ、きみに打ち明けておくことがある」


「はい?」


「書庫の記録は……すべてが一か所にしかないと思うな」


 エリシアが目を丸くする。


「どういう……?」


「後始末室には、ここ十年分の“写し”が保管されている。

 王城書庫が丸ごと燃えても、最低限の流れは追えるようにな」


「えっ――」


 彼女は、呆れと安堵が混ざったような顔になった。


「そんな重要なことを、なぜ先に言わないんですか!」


「言っておいたら、“本気で助けに行く理由”が弱くなるだろう?」


「それで人命をかけるのはやめてください!」


 思わず声を張り上げたエリシアに、

 周囲の騎士や使用人がちらりと視線を向ける。


 俺は苦笑した。


「だが、宰相にとっては意味がある。

 “王城の書庫が燃えた”という事実そのものが、な」


「……世論を揺らすため、でしょうか?」


「そう。

 『王家は自分たちの都合の悪い記録を燃やした』――

 そう囁くだけで、王権は簡単に疑われる」


 ソフィアが頷いた。


「宰相はそこまで見越して動いている。

 この放火は、証拠隠滅であると同時に、王家への不信を煽る罠です」


「だからこそ、残った記録が重要になる」


 俺はエリシアの手の中の綴りを指差した。


「“燃え残った王家の記録”が、

 王族を守る盾にも、刺す刃にもなり得る」


「……責任、重すぎませんか」


「平民出の文官見習いが背負うにはな」


 冗談めかして言うと、エリシアはきりっと顔を上げた。


「ですが、やります。

 私が数字を読む限り、間違った未来に進ませたくないので」


 その眼差しは、もう“新人”ではなかった。



 しばらくして、王女リィナが護衛に囲まれて現れた。


 煤で汚れた廊下を見回し、

 彼女は小さく息を呑む。


「……書庫が、こんな……」


「殿下。ご無事で何よりです」


 ソフィアが跪くと、

 リィナはすぐにこちらへ歩み寄ってきた。


「レオンハルト。あなたが――」


「少しは役に立てたつもりだよ。

 燃え残りの記録も、最低限は確保できた」


「本当に……しぶとい悪役ですね、あなたは」


「悪役は死ににくいのが仕事だからね」


 リィナの視線が、エリシアへ向く。


「そちらは?」


「政庁文官見習いのエリシア・フェルミーナです。

 粛清案の矛盾に最初に気づいたのは彼女だ」


「……そう」


 王女はわずかに目を細め、エリシアを見つめた。


「あなた、怖くないのですか?

 宰相と教会を同時に敵に回すことになるかもしれないのに」


「……怖いです」


 エリシアは正直に答えた。


「怖いですけど、

 “間違った数字”に国を任せる方が、もっと怖いです」


 その答えに、リィナの口元がわずかに緩んだ。


「あなたも……面倒な人ですね」


「よく言われます」


 二人のやりとりを眺めながら、

 俺はほんの少しだけ肩の力を抜いた。


(王女、影の騎士、文官見習い。

 妙なメンツが揃ってきたな)


 宰相や教会から見れば、

 俺たちは“バラバラに煩わしい連中”にしか見えないだろう。


 だが――。


「レオンハルト」


 リィナがまっすぐ俺を見た。


「父上――国王陛下がお呼びです。

 今回の粛清案と、書庫炎上について、

 “直接説明を聞きたい”と」


「……とうとう、王が動いたか」


 逃げ道は、もうどこにもない。


 王女と影の騎士と文官見習いを連れた“悪徳公爵令息”が、

 ――王の前に出る。


(まあ、避けては通れない。

 どうせいつかは断罪されるなら、

 その前にやれる後始末は全部やってからだ)


 俺は外套の埃を払って、静かに息を整えた。


「分かった。

 王に会いに行こうか」


 炎と煙の匂いがまだ残る廊下の向こうで、

 王国の運命を揺らす新たな場が、待ち構えているような気がした。

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