『三國志外史 司馬敦、四人目の義兄弟』
あちゅ和尚
第1話 歴史家、桃園に迷い込む
人の一生は、選び損ねた分岐の積み重ねだ――。
司馬敦(しば あつし)は、そう信じて五十年を生きてきた。
大学で東洋史を専攻し、後漢末から三国時代を専門とする歴史研究者。軍事史と戦術論にも通じ、日本だけでなく中国や欧米でも講演をする「戦略のプロフェッショナル」。その一方で、大衆には『三國志なんでも相談室』という読みやすい新書シリーズで知られる、ちょっと変わり種の学者だった。
その日も彼は、都内の小さな講演会場でマイクを握っていた。
「――さて、ここで有名な『桃園の誓い』について整理しておきましょう」
スクリーンには、桃の花咲く園で酒を酌み交わす三人の男の絵が映し出されている。
「皆さんご存じのとおり、劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを結ぶこの場面は、十四世紀の小説『三国志演義』の創作で、史実には出てきません。ただし、三人が若い頃から行動を共にし、命がけの誼を結んでいたこと自体は、正史の記録からも読み取れる」
聴衆の何人かがメモを取り、うなずく。敦はスライドを切り替えた。
「ここで、もしもの話をしてみましょう。
劉備には、諸葛亮よりもずっと前から、戦略・戦術の両面で彼を導く天才軍師がいた……としたらどうなるか?」
会場が、わずかにざわめく。
「黄巾の乱のころ、まだ一介の売り物屋に過ぎない劉備のそばに、未来を知り、地形を知り、人心を読む軍師がいたら。
蜀漢の命運は、ひいては中華世界の地図は、どう変わっていたのか――」
敦自身、その「もしも」を飽きるほど考えてきた。論文にも、エッセイにも書いてきた。だが、それはあくまで計算の上の仮説だ。現実は変わらない。歴史は一度きり、分岐は戻らない。
そう、思っていた。
講演を終え、帰り道。
夜更けの道路は、冬の雨に濡れて黒く光っている。敦はキャリーバッグを転がしながら、スマートフォンで明日の予定を確認していた。
「……明日は原稿の締め切りか。桃園じゃなくて、締め切りに義を尽くさないとな」
自嘲気味に笑い、顔を上げた、その瞬間だった。
ヘッドライトの白い光が、視界を真横からえぐり取る。
――あ、まずい。
そう思ったところで、世界は暗転した。
衝撃も、痛みも、何も記憶にない。ただ、一瞬だけ脳裏をよぎったのは、自分の書斎の本棚だった。分厚い『三国志』の原文、注釈書、地図集。
まだ、やりたい検証が山ほどあるのに――。
悔しさとも、諦めともつかない感情が、意識の底に溶けていった。
* * *
風の音がした。
湿った土の匂い。牛か馬か、獣の体温を含んだ生々しい臭気。遠くからは人々のざわめきと、市場らしい喧噪が聞こえる。
(……ここは?)
ゆっくりと、瞼を開ける。
そこは、舗装もされていない土の道の脇だった。脇には低い土塀と、黒ずんだ瓦屋根の家々。見慣れたビルも、コンビニの看板もない。
敦は反射的に、ポケットを探った。スマートフォンはない。代わりに、粗い布の衣の感触が指先に触れる。
視線を落とすと、見慣れない青い長衣と綿のズボン。靴は草鞋だ。手のひらも、皺が減り、皮膚が張っている。
(……若い?)
近くの水たまりに、ぐにゃりとした自分の影が映る。輪郭だけでも分かる。
どう見ても五十の男ではない。二十前後、せいぜいそこらの若造の体つきだ。
胸が早鐘のように鳴る。
(いや、落ち着け。状況を整理しろ。まず、ここはどこだ)
顔を上げ、周囲を観察する。
道の先に、簡素な木の門と、その向こうに広がる市場が見える。粗末な布を張った露店、籠に入った鶏、干した魚。そこから少し離れたところで、一本の大きな桑の木が、空に枝を広げていた。
敦は息を呑む。
――家の南東にそびえる桑の木。その影は、遠目には車の天蓋のように見えた。やがてこの家から、貴人が生まれるだろう、と占者は言った――。
(……まさか)
桑の木の根元近く。
そこに粗末な屋台を出し、草鞋と筵を並べている青年がいた。地味な布服に身を包み、顔立ちは柔和だが、目だけが不思議なほど真っ直ぐに澄んでいる。
彼の前には、屈強な大男が一人。
身の丈は九尺はあろうかという長身。赤らんだ顔に、長く豊かな鬚。武人の気迫をまといながらも、その目には誠実さが宿っている。
もう一人。
色黒で肩幅の広い男が、豚肉を吊した屋台の後ろから顔を出した。眉は太く、声は大きい。
「おいおい、兄ちゃん。そんな値段で草鞋売ってたら、いつまでたっても家計が楽にならねえぞ!」
張りのある声が、空気を震わせる。
敦は確信した。
(劉備、関羽、張飛……!)
三国志研究に人生を捧げてきた男が、見間違えるはずがない。
ここは後漢末、幽州・涿郡の、とある市。黄巾の乱が起こる少し前、いや、ちょうどそれに呼応する義勇軍が募られ始めている時期――。
講演で「もしも」と語ったばかりの場面に、今、自分は立っている。
「……夢、にしては手が込んでるな」
思わず口に出た言葉に、自分でも苦笑が漏れる。
だが、痛みも、匂いも、風の冷たさも、あまりにリアルすぎた。
青年――おそらく劉備玄徳――が、こちらに気づいた。
「おや、旅のお方ですかな?」
柔らかな声がかけられる。言葉は当然ながら漢語だが、不思議と内容はきちんと理解できる。こちらの返事も、違和感なくその言葉で出てきそうな感覚がある。
(言語の問題は……クリア、ということか。異世界転生もののテンプレート通りだな)
半ば投げやりに納得し、敦は一歩進み出た。
「少し、具合が悪くて……ここで倒れてしまったようです。ご迷惑をおかけしました」
中国語を話しているはずなのに、自分の耳には自然な日本語として聞こえる。不思議な違和感を胸の隅で転がしながらも、敦は礼を尽くした。
青年は、ほっとしたように微笑む。
「それは大変でしたな。ここは私の家の近くです。よろしければ、水でもお飲みになって、しばし休んでいかれては」
そこへ、肉屋の大男が口を挟んだ。
「おい玄徳。お前はほんっとに世話焼きだな! ……おい兄ちゃん、腹は減ってねえか? 俺んとこの肉、ちょっとばかし奢ってやるよ」
その豪放さに、敦の口元が緩む。
「ありがとうございます。お気持ちだけで――」
そこへ、長身の武人が静かに言葉を継いだ。
「玄徳殿、その者の身なりは少し変わっている。どこかの郡から流れてきたのだろうか。世が乱れれば、盗人も増えます。お気をつけくだされ」
低く落ち着いた声。
だが、その目は疑いよりも観察と判断に満ちている。
(関羽雲長。用心深く、しかし筋を通す人間だ)
敦は小さく頭を下げた。
「ご忠告、痛み入ります。私は司馬敦(しば とん)と申します。行き場を失い、流れてきた身です。盗みや悪事に手を染めるつもりはありません」
名を名乗った瞬間、三人の視線が集まる。
「司馬……珍しい姓ですな」
玄徳が呟く。
敦は心の中で苦笑する。自分の姓が、この時代にも存在することはもちろん知っていた。後に魏の名門として名を馳せる司馬一族。その名と、自分の名前を合わせたこの「司馬敦」という記号が、今ここで新しい意味を持つのだ。
「敦殿とお呼びすればよろしいか」
「はい。好きにお呼びください」
張飛が、じろりと敦を眺め回した。
「敦。細っこいくせに、目つきが武人じゃねえな。学者ってやつか?」
図星だった。敦は少しだけ肩を竦める。
「本や戦の記録を読むのは、好きですね。兵の動きや陣形を眺めていると、時間を忘れます」
雲長の眉が、かすかに動いた。
「戦に通じるのか?」
「実戦の経験はありません。ただ、人の動きや心の揺れを読むのは、いくばくか心得があります」
言葉を濁しながらも、敦は真正面から三人を見据えた。
玄徳の衣のほころび、繕った跡。
雲長の腰にある剣の重みと、その扱いに生じるわずかな擦り傷。
張飛の太い腕、刃物を握り続けてきた者だけが持つ手の節。
それらが示す過去と未来を、歴史研究家の目は見逃さない。
「……敦殿」
玄徳が、少し声を潜めた。
「実は、ちょうどよいところに来られました。お聞き及びかもしれませんが、各地で黄巾の徒が暴れ、官軍は手を焼いております。ここ涿郡でも、義勇兵を募る話が出ているのです」
「おう。俺と玄徳、それに雲長兄貴は、これに乗じて兵を挙げようって話をしてたとこだ」
張飛が胸を叩く。
「このままじゃ、民が泣き寝入りだ。だったら、俺たちが立ち上がって、悪党どもをぶっ飛ばしてやる。なあ、玄徳!」
玄徳は苦笑しながらも、その目に炎を宿らせた。
「……身の丈に合わぬ望みかもしれませんが、漢室の末裔として、黙ってはいられません」
敦の心臓が、高鳴る。
――来た。
これは、歴史の大きな転換点の、ほんの入口に過ぎない。
ここから劉備は、関羽と張飛とともに義勇兵を率いて黄巾賊と戦い、その小さな武勲を足掛かりに、乱世の舞台へと這い上がっていく。やがて関羽は神格化されるほどの忠義の象徴となり、張飛は豪勇と粗野を併せ持つ武将として名を残す。
だが――その道筋を、敦は知っている。
どこで誰に敗れ、どこで誰を失い、どの城を落とし損ねるかまで、ほとんど頭に入っている。
(ここだ。ここからなら、歴史の分岐を変えられる)
脳裏に、ひとりの男の名が浮かぶ。
諸葛亮孔明――劉備玄徳の「出会うのが遅すぎた」天才軍師。彼が本格的に劉備のもとに加わるのは、まだ十数年先のことだ。その間、劉備は何度も敗走し、居場所を失い、やがて荊州で劉表の客将として燻る。
その空白を埋める役割を、自分が担うことができるのなら。
敦は、静かに口を開いた。
「……もし、よろしければ、私もその義勇兵に加えていただけませんか」
三人の視線が、一斉に向けられる。
「お前、戦の経験はねえって言ったろ」
張飛は露骨に眉をひそめる。敦はうなずいた。
「はい。剣も槍も、まともに扱えません」
「ならば、なぜ?」
雲長の問い。
敦は、その瞳を正面から受け止めた。
「戦いは、剣や槍だけで行うものではありません。兵をどう集め、どう動かし、どこにどれだけの糧を用意し、誰の心を掴むか。そうしたことを考える者がいなければ、軍はすぐに行き詰まります」
玄徳の表情が、わずかに変わる。
「敦殿は、そのようなことに通じておられるのですか?」
「少なくとも、何も考えずに突っ込むよりは、ましな案を出せる自信はあります」
張飛が鼻で笑う。
「へっ。口だけ達者ってやつじゃねえのか?」
「張飛殿」
敦は、あえて名を呼んだ。大男の体が、ぴくりと固まる。
「……今、なんて呼んだ?」
危うい光が、その目に宿る。敦は一瞬だけ迷い、しかし覚悟を決める。
「劉備玄徳殿、関羽雲長殿、張飛――翼徳殿。皆さんのお名前は、このあたりでは知らぬ者のないほどの有名人と、お聞きしました」
嘘ではない。未来の歴史では、確かにそうなのだ。
玄徳は驚いたように目を見開き、雲長はわずかに身構える。張飛はというと、次の瞬間、豪快に笑い出した。
「ははっ! おい玄徳、聞いたか? この青二才、俺たちが有名人だとよ!」
「敦殿、一つ尋ねてもよろしいでしょうか」
玄徳が静かに問う。
「あなたは、どこから来られたのです?」
その問いは、鋭く本質を突いていた。
どこから来たのか――。答えようがない。日本という地名を出したところで、この時代の彼らには伝わらないだろう。
敦は、わずかに視線を伏せた。
「……遠いところから来ました。ここからは、想像もつかないほど遠く、しかし、この国の行く末を案じている土地から」
抽象的な言い回しで逃げるしかない。
しばしの沈黙ののち、雲長が口を開いた。
「玄徳殿。この男の言は怪しい。しかし、目は濁っておらぬ。利だけを求める輩の目ではない」
「俺もそう思うぜ」
張飛が頷き、敦の肩をどんと叩く。
「細っこい頭でごちゃごちゃ考えるのが得意なら、それはそれで使い道がある。兵を集めるにしたって、ただ威勢だけ張り上げてりゃいいってわけじゃねえからな」
玄徳は小さく息を吐き、やがて口元に笑みを浮かべた。
「……分かりました。敦殿。よろしければ、今夜、張飛殿の屋敷にお越しください。義勇兵を募るにあたり、どう動くべきか、ゆっくり話し合いたい」
「お、おい、勝手に決めるなよ玄徳。まあ、いいけどよ!」
張飛は照れくさそうに頭をかいた。
「どうせ今夜は酒をあおりながら、大きな夢を語るつもりだったんだ。人手が一人増えたところで、酒の量がほんの少し増えるだけだ」
玄徳の視線が、敦を貫く。
その瞳には、まだ小さく頼りないが、確かに「王道」を目指す者の光が宿っていた。
「敦殿。あなたも、その夢を共に語ってはくれませんか」
胸の奥が熱くなる。
五十年の人生で、何度も紙の上で再構成してきた三国志。
その登場人物の一人として、今、自分が招かれている。
(ここから始まるんだな。
俺――司馬敦の、もう一つの歴史が)
敦は深く頭を垂れた。
「光栄です。お招き、ありがたくお受けいたします」
その言葉を合図に、張飛が大声で笑い、雲長が静かにうなずく。玄徳は嬉しそうに微笑んだ。
夕暮れの空の向こうには、どこまでも続く乱世の闇が広がっている。
だが、その手前に一本の小さな道が伸びていた。
その道の先に、まだ誰も知らない「四人目の兄弟」の物語が待っている。
――後に人々は語る。
もし劉備玄徳に、最初から天才軍師がいたならば、と。
その問いへの答えが、今まさに歩き出そうとしていた。
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