燃焼海③
新東京府
外部からの電磁波、音波、そして精神干渉波動までもを完全に遮断する特殊遮音壁に覆われたその部屋は、通称〈黒の会議室〉と呼ばれている。
照明は最低限に絞られ、漆黒の壁に囲まれた円卓には、この都市の治安と運命を握る最高意思決定機関のメンバーが顔を揃えていた。
「――単刀直入に申し上げます。現状の『対症療法』は、既に破綻し始めています」
静寂の中、天村の声が響いた。
彼は手元のホログラム・コンソールを展開し、直近のデータを円卓の中央に投影した。
右肩上がりのグラフ。それは〈犯人〉の出現頻度ではなく、現場対応にあたる機動隊員〈サイコフィジター〉の損耗率と、市民の精神汚染度の平均値を示していた。
「サナトン社の薬剤による抑制、および現場での物理的封じ込め。これらはあくまで『蓋』でしかない。鍋の中身は沸騰し続けています。昨日の〈首吊り兎〉のような広域殲滅級の個体が連鎖的に発生した場合、今の戦力では対応しきれません」
天村の警告に、闇に沈んだ席から重々しい同意の声が上がる。
「……天村課長の言う通りだ。これ以上の人的資源の浪費は、組織の維持に関わる」
「薬剤耐性を持つ『変異種』の報告も増えている。サナトン社には成分の強化を要請しているが、それもイタチごっこだろう」
「対策は急務だ。現在、人工的な『支流』を用いた精神防波堤の建造計画も進めているが、実用化にはまだ時間がかかる……」
老人たちの声には、焦燥と疲労が滲んでいた。
彼らも理解しているのだ。このままではジリ貧であり、いずれ「決壊」の日が来ることを。
会議の流れは、より強力な抜本的対策――例えば、市民の精神管理基準のさらなる厳格化や、アリスのような〈特異点〉の量産検討へと傾きかけていた。
「――違うわね。前提が間違っているわ」
凛とした、しかし氷のように冷たい少女の声が、場の空気を凍りつかせた。
円卓の上座。
本来なら重鎮が座るべきその席に、不釣り合いな影があった。
艶やかな黒髪を切り揃えた、十代半ばほどの少女。
漆黒のゴシックドレスを纏い、人形のように整った顔立ちをしている。だが、その瞳には人間らしい感情の光がなく、ただ底知れない知性だけが宿っていた。
公安統括局上層部、序列第三位。
コードネーム〈カタリスト〉。
「カ、カタリスト……。間違っているとは、どういう意味だ?」
幹部の一人が恐る恐る尋ねる。
彼女はこの場にいる誰よりも若いが、誰よりも危険な「権限」と「資質」を持っていることを、全員が知っていたからだ。
「天村。あなたは『限界が来る』と言ったけれど、それはこちらの都合でしょう?」
カタリストは、天村が提示した損耗率のグラフを、細い指先で弄ぶように空中で散らした。
「無意識の逆流は、エラーではないわ。これは進化のプロセスよ。今の対症療法でいいの。限界まで鍋を沸騰させなさい。圧力を高めなさい。弱い人間から順に壊れて、燃え尽きていけばいい」
「……本気で言っているのか。それでは都市が崩壊する」
天村が低い声で反論する。
だが、カタリストは口元に薄い笑みを浮かべただけだった。
「崩壊? いいえ、淘汰よ。私たちが管理すべきは『市民の安全』じゃない。『種の純化』でしょう?」
彼女は立ち上がり、黒い壁に同化しそうなほど暗い瞳で、円卓の全員を見回した。
「今のシステムを維持しなさい。もっと、もっと『燃やし』なさい。……その灰の中からしか、本当の『新しい世界』は生まれないのだから」
その言葉は、会議の結論を強制的に決定づける宣告だった。
誰も反論できない。
彼女の背後にある圧倒的な「何か」に、大人たちはただ沈黙するしかなかった。
天村は拳を握りしめ、静かに奥歯を噛んだ。
この組織もまた、狂っている。
現場で血を流す部下たちも、心を削る最上も、この少女にとっては巨大な実験の燃料でしかないのだ。
「……納得がいきませんね」
天村だけは、押し殺した声で言った。
円卓の空気は重く淀んでいる。カタリストの「淘汰」という思想は、公安という組織の存在意義を根底から否定するものだ。
「貴女の言う進化論は結構だが、現場は限界だ。特に、最上梁人の精神摩耗は臨界点に近い。彼が壊れれば、我々は〈ランド・オブ・ワンダー〉への唯一の侵入経路を失う。それは都市の死だ」
天村の言葉は、組織人としての理屈だった。だがその裏には、手塩にかけて育て上げた部下を、これ以上無為にすり減らしたくないという、わずかな人間味が隠れていたかもしれない。
カタリストは、つまらなそうに頬杖をついた。
「あら。貴方はあのお人形が随分とお気に入りのようね」
「彼は人形ではない。優秀な捜査官だ」
「ええ、そうね。まだ『今は』ね」
少女は冷笑し、指をパチンと鳴らした。
円卓の中央、空中に投影されていたグラフが消え、代わりに不気味な映像が浮かび上がる。
それは、公安統括局の地下深部にある、極秘培養プラントの監視映像だった。
薄暗い青色の培養液で満たされた、無数の円筒形カプセル。
その中には、無垢な裸体の少女たちが浮遊していた。
全員が同じ顔。
銀髪に、白い肌。
最上の相棒である「アリス」と瓜二つの容姿。だが、決定的に何かが欠落していた。彼女たちの瞳は白濁し、ただ生きているだけの肉塊のように虚ろだ。
「これは……」
幹部たちが息を呑む。
「紹介するわ。
カタリストは、まるで新しい玩具を自慢する子供のように説明を始めた。
「これらは全て、羽海野有数の遺伝子情報から造られた
映像の中で、カプセルの一つがアップになる。
少女の口元からは太い呼吸チューブが伸び、後頭部には無骨な接続端子が埋め込まれている。自我と呼べる意識はなく、ただ外部からの信号を処理するためだけに培養された肉人形。
「最上の
カタリストは無邪気に、残酷な解決策を提示した。
「最上がダイブする際、この〈権能器官〉を並列接続させるの。彼が迷宮で受ける精神的負荷、怪物を殺した際の汚染フィードバック、そして彼自身の耐え難い感情の奔流……それら全ての『ゴミ』を、この子たちに肩代わりさせる」
天村は戦慄した。
それは、最上梁人というシステムを延命させるための、生きたフィルターだ。
「つまり……最上の代わりに、このコピーたちが狂うということか」
「ええ。彼女たちは叫び、苦しみ、そして壊れるわ。壊れたら廃棄して、次のカートリッジに交換すればいい。
カタリストは歌うように言った。
それは、最上の「人間性」を守るために、人の形をした別の何かを大量に消費するという、悪魔の契約だった。
「どう? 素晴らしい提案でしょう、天村」
カタリストは黒い瞳で天村を射抜いた。
その瞳の奥には、人間をパーツとしか見なさない、絶対的な合理性の深淵が広がっている。
「最上は記憶を失うことなく、任務を遂行し続けられる。公安は最強の戦力を維持できる。……代償は、誰も気にしない『紛い物』の命だけ」
天村は拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みを感じた。
拒絶すべきだ。倫理的にも、人道的にも。
だが、今の公安に、そして今の最上に、これ以外の選択肢があるだろうか?
彼が「羽海野有数への復讐」という目的を保ったまま戦い続けるには、もはや通常の精神漂白では追いつかない段階に来ているのだ。
「……そのシステムは、実戦投入可能なのか」
天村の口から出たのは、肯定の言葉だった。
カタリストが満足げに微笑む。
「ええ。次の事件から使いなさい。彼には内緒でね。……英雄様が自分の汚れを少女に押し付けていると知ったら、傷ついちゃうかもしれないもの」
会議室の照明が戻る。
黒い壁に囲まれた密室で、残酷な延命措置が決定された。
最上梁人は救われる。
無数の少女たちの、声なき断末魔の上に立って。
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