レッドタイズ-新東京府公安委員会-
ガリアンデル
Phase1:首吊り兎①
新東京府公安統括局、地下深度一二〇メートル。
通称〈棺桶〉と呼ばれる特務待機室の室温は、常に摂氏十八度に保たれている。
生命維持に必要な最低限の空調音と、壁面を埋め尽くす巨大なモニター群の駆動音。
張り詰めた冷気の中、スピーカーだけが、熱を持った「死」を垂れ流していた。
『――フィルター第3層、剥離! ダメだ、意識が滑る……ッ!』
『退くな! アンカーを維持しろ! 貴様の命よりデータのほうが重いんだよ!』
断末魔と怒号の不協和音。
モニターに映っているのは、新宿副都心の高層ビル街だ。ただし、その風景は決定的に狂っていた。
重力異常。
アスファルトが波のように捲れ上がり、数台の車両が空中へ「落下」している。
その中心に、それはいた。
体長およそ五メートル。
ボロ雑巾のような白い毛皮。長く垂れ下がった耳は、まるで古びた絞首刑の縄のようだ。
顔面には目も鼻もなく、ただ巨大なアナログ時計が埋め込まれている。
今回の犯人、識別名〈首吊り兎〉。
「あは。見て梁人、すごーい」
無邪気な声が、死を予感させる静寂を裂く。
隣の椅子に座る少女――アリスが、モニターを指差して笑った。長い白髪が、人工的な照明の下で銀色に煌めく。
「あの隊員さん、また空に落ちてく。……プチッていったね。風船みたい」
画面の中で、重装甲の外骨格〈アイギス〉を纏った機動隊員が、見えない力によって上空へ引き上げられ、ビルの外壁に叩きつけられた。
強化装甲がひしゃげ、中身が破裂する。
アリスの言う通りだ。トマトか、あるいは質の悪い水風船のように。
「……黙っていろ。ノイズになる」
最上は短く吐き捨てた。
その視線は、人が死ぬ瞬間ではなく、画面の隅に表示された数値だけに注がれている。
【
遅い。
最上は懐から、愛銃である幾何学的概念武装『ヴォーパル・カリキュラス』を取り出した。
ガンメタルに刻まれたフラクタル模様が、微かに青く明滅している。
弾丸となる〈正気の欠片〉は、現地調達するしかない。
『警告。C班、精神汚染濃度、危険域を突破。フィルター
オペレーターの事務的な報告が響く。
モニター上の隊員たちのバイタルサイン――HUDに表示された五枚の
五層ある精神干渉フィルター。
あれがゼロになれば、中の人間は死ぬか、あるいはもっと酷い「ナニカ」に成り果てる。
彼らは〈サイコフィジター〉。
物理的な攻撃が通じない怪物相手に、特務捜査官が突入するための道を作るためだけに消費される、使い捨ての杭だ。
「……ねえ梁人。どうして助けに行かないの?」
アリスが、赤い瞳でこちらを覗き込んでくる。純粋な疑問。あるいは、最上の神経を逆撫でするための計算された挑発。
「梁人が早く行けば、あのお巡りさんたちは死なないのに」
「解析が終わっていない。扉が開く前に飛び込んでも、無限に近い迷路の中で遭難するだけだ」
「ふーん。りくつだね」
アリスは退屈そうに足をぶらつかせた。「わたしは、どっちでもいいけど」
最上は、少女の横顔を一瞥した。
九歳の幼女の姿をした、羽海野有数のクローン。
その顔を見るたび、胃の腑の底から鉛のような憎悪が湧き上がる。
――本物は、生きている。
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
その不快な鼓動こそが、摩耗した最上の自我を繋ぎ止めるアンカーだった。
(この憎しみがある限り、俺はまだ、俺でいられる)
『……ッ、
『リンク形成! 特務、行けます!』
室内の照明が、警告色の赤へと切り替わる。
完了した。
代償は、機動隊員三名の命と、五名の精神崩壊。
「行くぞ、アリス」
最上は接続用のヘッドギアを手に取り、冷徹に告げた。
「お前の仕事だ。道を開けろ」
「はーい。……じゃあ、ウサギ狩りの時間だね」
アリスが楽しげに笑い、自らのこめかみに端子を突き刺す。
最上もまた、ヘッドギアのバイザーを下ろした。
視界が闇に落ちる。
感覚が肉体を離れ、光の速度で新宿の座標へ――狂気と無意識の迷宮〈ランド・オブ・ワンダー〉へと加速していく。
現実の身体は、安全な地下室に置き去りにされたまま。
────魂だけが、地獄へ堕ちる。
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